自分を生んだ罪で両親を訴える――そんな不条理な設定が話題を呼んでいる映画『存在のない子供たち』。
舞台が中東レバノンのスラム街で、そこに住む貧困層の人々の話と聞いた途端、わたしたちには何の関係もない、遠い世界のフィクションと思うかもしれない。しかし、この映画が突き付けているのは、わたしたちが当たり前に受け取っている「近代国民国家」の暗部であり、社会システムに組み込まれた「構造的暴力」の静かな告発なのである。
■誰も、「誰かを苦しめる」ことや、「苦しい状況に身を置くこと」を望んではいない
12歳の少年ゼインは、大勢の弟妹とともに朝から晩まで働き詰めだ。手作りのジュースを売ったり、プロパンガスを運んだり、日銭を稼ぐのに必死で学校にも通っていない。被差別階層にいる両親にまともな収入源はなく、家計はいわゆる「児童労働」に支えられている状況にある。ゼインは仲の良い1歳年下の妹と過ごす時間だけが唯一の救いだった。そこに決定的な亀裂をもたらしたのは、両親が経済的な理由からゼインの反対を押し切って、妹を親子ほどに年の離れた男と結婚させたことである。
この映画の中では登場人物たちがみな、自分から望んで「それ」を選んだわけではなく、望むと望まざるとにかかわらず「それ」を選ばざるを得ない状況に直面する。しかも、そこには「目に見える」「名指しすることができる」権力者からの指示や命令は存在しない。これが「構造的暴力」の本質だ。
■愛する人ですら食い物にしなければ生きてはいけない「構造的暴力」の連鎖
ゼインは妹を売った両親を心底呪うが、彼は家出した先で不法移民の女性ラヒルと出会い、その子供ヨナスの世話をする中でまったく同じ事態に直面する。ラヒルが不法移民として当局に拘束されて二人のもとへ帰ることが不可能になり、ゼインは自力でヨナスの面倒を見ようとするものの、大家に住居を閉め出されてヨナスともども路頭に迷うことになったのだ。そしてゼインは、ブローカーの「国外脱出の斡旋」と引き換えに、泣く泣くヨナスを手放さざるを得なくなる。
両親もブローカーもゼインも悪人ではない。相互扶助のネットワークであるコミュニティがもとより存在せず、家族や親しい隣人ですら食い物にしなければサバイブすることができない「構造的暴力」が入れ子状に、重層的に連鎖しているのである。そのピラミッドの頂上には、「近代国民国家」の枠組みが顔をのぞかせる。
■グローバルな個人識別システムの前に無力な「何者でもない者」
「近代国民国家」は、国民とそれ以外をカテゴリー分けし、「それ以外」の者には「地獄絵図」が運命付けられた体制だ(映画の中でゼインは、「僕は地獄で生きている」と語る)。ゼインをはじめとする子供もその両親も、自分の存在を社会から認知されず、それゆえ愛する対象を守り抜くことも叶わない。それは「最小単位のコミュニティ(共同体)も作ることができない」ということなのだが、実のところ「個人」として生きるということすらも困難な道のりとなっているのである。
ゼインが就労して糧を得ようとしても、出生届が出されておらず身分を証明するものがないため、仕事先にありつけないばかりか国外に逃れることもままならない。国家から正規のメンバーシップを満たさないと宣告された「何者でもない者=存在のない者」は、「何者であるかに神経を尖らせる」グローバルな個人識別システムの前にも無力であるほかはない。
■「遠い国の状況」ではない。誰もが「構造的暴力」の無慈悲に直面する可能性を持っている
わたしたちの安全と安心は、このような「構造的暴力」を土台に築かれたものであり、「まるで移民問題などないような顔」をしている日本も例外ではない。
そして、最も重要なことは、「生まれ」という偶然によって「無慈悲なカテゴリー分け」がほとんど決まってしまうことだ。あなたが日本に生まれたのは「たまたま」であり、ゼインも同様である。
ゼインが訴える「育てられないなら子供を産むな」発言は、世界的にスタンダードになった人権意識の現れと言える。歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリは、人種や宗教、性別などに関係なく、誰もが等しく尊厳を持つことを当然視する思想を「人間至上主義」と呼び、これが現代において事実上の「世界宗教」となっていると主張した。要するに、コミュニティというものが成立しない悪夢のような世界の住人であっても、西欧基準の価値観とライフスタイルが合わさった情報のグローバル化により、多かれ少なかれ「生まれや育ちの偶然」に基づく不幸を、相対的に受け入れることが不可能になりつつあるのだ。
このような人権意識のかつてない浸透と拡大、人口爆発に伴う移民などの増加が同時に進行するのは、恐らく有史以来初めてのことである。監督のナディーン・ラバキーは、「子が両親を訴える」という衝撃的な展開を軸に据えることによって、その「来るべき未曽有の事態」をミクロの物語として描き出して予言してみせたのだ。
「来るべき未曽有の事態」が到来したとき、わたしたちには「偶然入手したラッキーカードのような」国民国家の内側で高みの見物を決め込むどころか、それらがもたらす世界規模の大混乱による影響の数々に慌てふためくことだろう。誰一人として素知らぬふりを装える余裕などなくなり、わたしたちは想像を絶する光景の中で、ゼインが見せる憂いに満ちた眼差しを思い出すに違いない。
(文/真鍋厚)