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【ネタバレあり】『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』論争巻き起こる作品構造を読み解く

2019年08月10日 08:01  リアルサウンド

リアルサウンド

『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』(c)2019「DRAGON QUEST YOUR STORY」製作委員会 (c)1992 ARMOR PROJECT/BIRD STUDIO/SPIKE CHUNSOFT/SQUARE ENIX All Rights Reserved. 公

※本記事は『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』のネタバレを含みます。


 8月2日に公開された映画『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』が激しい論争を巻き起こしている。今作は国民的ゲーム作品である『ドラゴンクエスト』シリーズの中でも人気の高い『ドラゴンクエストⅤ 天空の花嫁』(以下『ドラクエⅤ』)を基にしたCGアニメ映画だ。多くのドラクエファンを中心に注目を集めている作品であるものの、大手レビューサイトやTwitter上では賛否がはっきりと分かれており「単純につまらない」などという不満よりも「ゲームを楽しんだ思い出を馬鹿にされたように感じる」といった、激しい怒りのこもった意見も散見している。なぜそれほど激しい賛否を巻き起こしたのか、物語の構成や展開に注目していきたい。


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 本作は、『ドラクエⅤ』の物語を再構成しているが、ゲーム作品を映画化する上で特に問題となりやすいのが物語の取捨選択だ。特に本作のようなRPGの場合は様々な町やダンジョンを冒険していき、個性的なキャラクター達との出会いや別れを繰り返して物語が進んでいくが、その全てを時間が限られた映画で製作することは不可能だ。さらに『ドラクエ』シリーズの場合は主人公が一切セリフを発しない作品もあり、主人公のキャラクター設定から作り始める必要がある。


 特に『ドラクエⅤ』は親子三世代にわたる絆を描いた物語であり、ヒロインのビアンカとフローラのどちらかを選ぶ結婚問題などのファンの印象に強く残るイベントも多いために取捨選択が難しい。そのためにイベントの間をつなぐシーンはダイジェストのように進行してしまい、1つ1つの描写が荒くなってしまう。また、キャラクター達を深く描写する時間が限られているために、重要な人物にも関わらず出番が少ないなど魅力が発揮しづらく、今作においても主人公の娘は存在そのものがなくなってしまった。映画化に際して仕方のない面もあるのだが、『ドラクエⅤ』を愛してきたファンにとっては雑な物語と感じてしまうことになりかねない。


 RPGでは、次に行く町の場所や敵を倒すのに重要なキーアイテムの存在やありかが事前に示唆されることが多い。プレイヤーが次に行うことを迷わないように誘導しているのだ。しかし、それをそのまま映画に活かすと途端にご都合主義に見えてしまう。ゲーム的な要素を多く残そうとすると映画としては大きな問題となってしまうこともしばしばだ。上記のような理由に加えて、全く『ドラクエ』シリーズをプレイしたことのない人や、小さな子供にもわかる物語にするために過度に説明過剰になっている箇所も見受けられる。


 そして今作で一番激しい賛否を巻き起こしているのが、終盤のどんでん返しである。主人公リュカたちは、いよいよ最後の敵である大魔王ミルドラースと戦うという展開になるのだが、急に世界が全てフリーズしてしまう。そして現れたミルドラースの正体はコンピューターウイルスであり、彼らが旅をしてきた世界は、実はVRによって作られたゲームであり、コンピューターの中の世界であることが明かされる。ウイルスは「この世界は全て虚構に過ぎない、大人になれよ」と主人公に向かって語るのだ。


 この大どんでん返しに対して様々な反応が集まっているが、否定的な意見には「『ドラクエ』シリーズやゲームを楽しんできた思い出全てを馬鹿にされた」という意見も少なくない。それほどまでに多くのファンの心を揺さぶるほどの展開となっている。ビアンカとフローラのどちらを選ぶのか? という自分の思いに向き合う時にデジタルのような表現を使うなど、この展開に対する伏線も敷かれてはいるのだが、唐突で強引な印象を受けるのは違いない。


 しかし、筆者はこの物語の展開については好意的な印象を受けた。それはゲームを取り巻く社会情勢の変化を考えると、決しておかしなことを言っているとは思えなかったためだ。近年はeスポーツが少しずつ認知されてきており高額な賞金の大会も増えることで誕生したプロゲーマーの存在などもあり、ゲームを取り巻く状況は大きな変化が生まれている。しかし、大きな事件やあるいは引きこもりなどの社会問題に対して、重度にゲームをプレイする行為が否定的に報道されることもある。ウイルスの発言そのものは、未だに根強く残るゲームに対する批判として、ありうるもののように受け止められる。


 また本作の構造そのものが、CGアニメにて映画化する意義があったとも言える。原作のゲーム、CGアニメという手法、そして作中の舞台となるVRのゲーム空間などはパソコン内で作られた世界によって表現されているものだ。本作を手書きのアニメで表現した場合、受け取り方はまた大きく異なるのではないだろうか。全てをデジタルで構成しているからこその意味が生まれ、手法と表現が一致しており本作がCGアニメ映画で製作された必要性があったと感じられた。


 現実においてもVR技術の進歩と普及によってゲームは大きくその姿を変えようとしている。VRを通してプレイヤー自身がゲームの世界の主人公になり、モンスターを倒して冒険をする姿が一般的になる未来もそう遠くないであろうことを考えると、今作の意図というのは大きく間違っていたとは思えない。ただし、重ねて言うが今作の物語は粗が多いためにそのメッセージを好意的に受け止めきれない方が多いのも致し方ないことなのだろう。


 今作に対するシビアな反応の数々は、ゲーム原作映画の難しさを改めて浮き彫りにした。だが、ゲームの物語をそのまま映像化してダイジェストにし、毒にも薬にもならない作品を作るよりも、劇薬とも取れるような手法を選択して、多くの人の話題にあがる作品になったのは決して間違いではなかったように思う。この映画を見て楽しんだ人も、怒っている人もそれぞれの『ドラクエⅤ』があり、ユア・ストーリーがある。そんな当たり前だけれど普段は忘れてしまっていることを改めて認識させてくれただけでも、本作に意義はあったのではないだろうか。


■井中カエル
ブロガー・ライター。映画・アニメを中心に論じるブログ「物語る亀」を運営中。