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菅田将暉が演じた主人公は山崎貴の“自画像”だ 『アルキメデスの大戦』が描く倒錯した唯美史観

2019年08月06日 10:01  リアルサウンド

リアルサウンド

(c)2019映画「アルキメデスの大戦」製作委員会 (c)三田紀房/講談社

 山崎貴という作り手を、後世の人はいったいどのように評することになるのだろうか? 彼は今や日本を代表するヒットメイカーとなり、多くの有名俳優たちが起用してくれと直談判するほどのセレブリティだ。しかし、何か様子がおかしい。この奇妙な感覚は気のせいかもしれないが、山崎の師匠筋にあたる伊丹十三が映画監督として全盛期を迎えた1980年代後半から1990年代前半にも身に覚えのある感覚である。伊丹十三の活躍には常に得体の知れない空虚が付きまとっていた。一方、山崎のキャリアについて言えば、2000年の監督デビュー作『ジュブナイル』の頃がじつは最も無邪気に「意外といい映画だよ」という評言が飛び交っていたように思える。その後の作品のうち、『ALWAYS 三丁目の夕日』3部作(2005~12)、そして『永遠の0』(2013)で、山崎貴の運命は大きく変わった。何がどう変わったのか?


 日本でもうひとり、VFX分野で著名な監督というと、樋口真嗣がいる。怪獣映画、パニック映画、時代劇アクション……いろいろなジャンルに手を染めつつも、樋口映画の根幹はオーソドックスなエンターテインメントだ。山崎はそれとはちがう。上質なVFXを活用しながら山崎が煽り立てるのは、「美しき日本の私」だ。『ALWAYS』3部作では昭和庶民の素朴な美しさ。『永遠の0』では海の藻屑となった特攻隊員の無念と美しい散り際。『永遠の0』に続き、またしても百田尚樹原作の映画化を指名された『海賊とよばれた男』(2016)では商人の昔気質な心意気。『DESTINY 鎌倉ものがたり』(2017)では鎌倉というノスタルジックな中世都市の怪談だ。さまざまなバリエーションを変奏しつつ、日本人の美しさ、潔癖さ、なつかしい心根、そうしたものが観客に温かく共有され、私たち観客の「うぬ惚れ装置」として機能してきたのではなかったか。


 大ヒットスタートを切った最新作『アルキメデスの大戦』も、奇妙な感覚を呼び起こす映画である点は、これまで通りだ。第二次世界大戦がはじまる前の東京を舞台に、戦艦大和を造るべきかどうか、海軍省内のみんながワァワァ議論している。1930年代海軍省の最大のテーマだった大艦巨砲主義vs航空主兵論の対立を背景に、虚実をまぶした巧みなミステリーに仕上がったと思う。菅田将暉が演じる天才数学者・櫂直(かい・ただし)を中心とする陣営の言い分はこうだ。「巨大戦艦を建造すれば、その力を過信した日本人は必ずアメリカ、イギリスとの無謀な戦争に打って出てしまう」。そんな主張からすると、彼らは反戦主義者に思える。この一派(航空主兵論)のリーダーである山本五十六少将(舘ひろし)にしても、のちの真珠湾攻撃の元となる、航空機による奇襲作戦で機先を制し、早期講和に持ちこむという、とっておきのプランを上司に披露する前に、「むろん戦争を避けられれば、それに越したことはないのですが」などと言い添えることを忘れない。映画全体にわたって「これは反戦映画です」とエクスキューズしているように思え、それは、記録的ヒットを飛ばしつつも賛否両論の果てに「厭戦気分の衣を着ただけの日本帝国讃美映画」という悪評に悩まされた『永遠の0』の二の轍を踏むまいというエクスキューズにすら思える。


※次ページより一部結末に触れます。


 この映画の冒頭は、戦艦大和の壮烈な沈没シーンを、上質きわまりないVFXによってリアルに見せている。「映画はつかみが重要だ」という定式からすれば、これほどそれに叶ったファーストシーンはない。と同時に、このファーストシーンは、この映画の結末をいきなりバラしてもいるのだ。ようするに、戦艦大和建造の是非をめぐるこの映画の物語は、菅田将暉、柄本佑、舘ひろしの迫真の演技にもかかわらず、彼ら「反戦派」の失敗に終わる、ということがあらかじめ予告されたことになる。私たち日本人の誰もが、大和はじっさいに造られ、その巨体ぶりを持てあましたままアメリカ軍の攻撃に耐えられず、日本近海にあえなく沈んでしまったことを史実として知っている。この映画はずっと「大和は造られるべきではない」というメンタリティを主軸に進んでいったはずなのに、大和は造られてしまうわけだ。


 この苦渋の転回は、すでに『永遠の0』でも起こっていたことだ。「腰ぬけ」と仇名されることも厭わずに生命を重んじる思想を守っていた特攻隊員(岡田准一)が、いざその時になってみると、だれよりも立派に華と散ってみせる。野蛮な戦争に消極的だった思慮深き主人公が、やむを得ないと覚悟を決めてからの行動は、それまでと180°異なったものとなる。一転してそれは模範的な自己犠牲、滅私の鏡へと移行する。このような転回装置の機能ぶりこそ、図らずも山崎映画の本質ではないか。ネタバレを避けるために具体的に書くことは控えるが、『アルキメデスの大戦』ラスト近くの菅田将暉と田中泯ーーいわばこの映画における不倶戴天の敵同士ーーが大和をめぐって語り合うシーンは、転回装置としての山崎映画の面目躍如たるシーンだ。そこでひとつだけ指摘させてもらいたいのだが、この会話シーンの中で田中泯が恍惚とした様子で「この戦艦は、日本という国の《依り代》なのだよ」と述べる。《依り代(よりしろ)》。辞書には次のように書いてある。「神霊が寄りつくもの。神霊は物に寄りついて示現されるという考えから、憑依物としての樹木・岩石・動物・御幣など」。もしアメリカと戦争したら、日本は確実に負ける。そのとき、滅びゆく日本の《依り代》として戦艦大和が機能するとしたらーー。


 この「倒錯した唯美史観」とでも呼ぶべき、じつに気味の悪い滅びの美学を、避けがたいものとして選び取らされる心象を、山崎貴は折りにつけ描いたのではないか。「嫌々ながらも、まんざらでもない」この心象は、単細胞な好戦思想よりもよほど危険なものだ。そういえば、アニメ界の巨匠・宮崎駿も、自身最後の長編『風立ちぬ』(2013)で「倒錯した唯美史観」に取り組んでいた。飛行機の設計に夢を託した主人公は、零戦の製造に加担し、多くの若者を死へと追いやった。ラスト、主人公が憧れのカプローニ伯爵と再会する丘は、死後の世界であろう。おそらく『風立ちぬ』の主人公は自決の道を選んだのだろう。新元号・令和となった新時代、私たちは再び「倒錯した唯美史観」を避けがたいものとして選び取らされていくプロセスを辿るのだろうか?


 山崎貴映画とは、山崎本人が望むか望まざるかとは関係なしに、「倒錯した唯美史観」が選び取られていくほかはないプロセスの、無意識の露払いを演じているのだ。そういう意味で評者には、『アルキメデスの大戦』の主人公・櫂直が山崎貴の自画像に思えてならない。彼には来年、東京オリンピック開会式・閉会式のエグゼクティブ・クリエイティブ・ディレクターとしての大役が控えており、これと相前後して、この作り手の作品がどのように(作り手本人が好むと好まざるとにかかわらず)機能しようとしているのか。それを監視しつつ、解析するのは、批評というものの大事な役目だと言える。(荻野洋一)