トップへ

マイケル・ベイ作品は本当に女性蔑視と言えるのか? “カーウォッシュ”シーンに込められた意図

2019年08月04日 10:01  リアルサウンド

リアルサウンド

写真

 マイケル・ベイという1人の天才監督に迫る、高橋ヨシキによる連載「過剰な狂気ーーマイケル・ベイ映画の世界」。第3回は、マイケル・ベイの代表作『トランスフォーマー』のヒロイン役で世界的スターとなったミーガン・フォックスをめぐる論争、そして“カーウォッシュ”を描いた意図について。(編集部)


●「馬鹿にしても構わない」というベイ作品の不当な扱い
 ミーガン・フォックスがマイケル・ベイと初めて関わったのは『バッドボーイズ2バッド』(03年)に「出演」したときのことだ。といっても、出演時間はわずか数秒。彼女はクラブの場面のバックグラウンドで踊る、その他大勢の「セクシー美女」の一人としてである。目を皿のようにして見れば、星条旗柄のビキニに身を包み、テンガロンハットをかぶって踊る彼女が確認できる。これが「役者としての初めての仕事だった」とは本人の談(『ザ・トゥナイト・ショー・ウィズ・ジェイ・レノ』に出演したときの発言)。『バッドボーイズ2バッド』の撮影は2002年の6月から12月にかけて行われたので、撮影当時ミーガンはわずか16歳だったことになる。未成年の彼女をバーカウンターに座らせたり、酒の入ったグラスを持たせることは(芝居とはいえ)不可能だったため、マイケル・ベイはミーガンを人工滝の下に立たせて「シズル感」を演出した。彼女の出演シーンが極端に短いのも、未成年だったことが影響しているはずだ(「ファイナル・カット版」では削除)。


 その4年後、ミーガンは大作『トランスフォーマー』のヒロインとしてカメラの前に立っていた。役名は「ミカエラ・ベインズ」。マイケル・ベイについての数少ない研究書の一冊『Michael F-ing Bay: The Unheralded Genius in Micahel Bay Films(「マイケル・ファッキン・ベイ:その映画に見る、彼の知られざる天才性」)』で著者「ビター・スクリプト・リーダー」(※)は、「大声で『ミカエラ・ベインズ』と言ってみれば分かるように、ヒロインの名前は明らかに監督の名前『マイケル・ベイ』の読み替えである」と指摘し、『トランスフォーマー』におけるミカエラの役割が決して巷間言われるような「セクシーな添え物美女」の位置に留まるものではないと主張している。マイケル・ベイ作品における女性の役割分担はかねてより批判の対象になってきており、なかでも『トランスフォーマー』での「ミカエラ」の扱いについては、セクシズムと絡めて糾弾することが、いわば「公認」されているような状況の中で、この意見は貴重である。


※「ビター・スクリプト・リーダー」は、ハリウッド最大手のエージェンシーに所属し、数多くの有名作品でいわゆる「スクリプト・ドクター」を努めてきた脚本のプロで、仕事の都合から批評を行う際には仮名として「ビター・スクリプト・リーダー」を名乗っている。


 いま「公認」と書いたが、女性の扱いだけでなく、その作品すべてについてマイケル・ベイの映画は「いくら揶揄しても、馬鹿にしても構わない」という不当な扱いを受け続けていると筆者は考えている。伝統ある業界紙(『バラエティ』など)の書き手までもが、このような風潮に乗っているのを目にして絶望的な気分になることもしばしばだ。仲間内での居酒屋談義ならともかく、批評や評論を生業とするものが、イージーな偏見やバイアスの助長に加担して良かろうはずもない(同様の現象として、M・ナイト・シャマラン監督に対する、これまた不当極まりない誹謗中傷を挙げることもできるだろう。また、かつてはスピルバーグが製作に関わった作品群が、同じように「集合的な悪意」に晒されたことがあった)。


●自分を対象化してギャグにできるベイ
 とはいえマイケル・ベイ自身はそういう状況について、達観している……のかどうかは分からないが、それを笑い飛ばす余裕はあるようだ。2008年、『トランスフォーマー』公開に先立って、マイケル・ベイが「ベライゾン」というアメリカの通信事業社のCMに出演したことがあった。


 CMの題名は『Awesome』。口語で「最高」「ヤバい」というような意味の言葉だが、CMでベイは『トランスフォーマー』の映像を観て「天才的だ!」と自画自賛しながら登場、「ぼくはマイケル・ベイ。『トランスフォーマー』など、ハリウッドでヒット作を作っている映画監督だ」と自己紹介。「ぼくはなんでも『最高』じゃないと我慢できない」とうそぶき、「自宅」を歩き回りながら「うちはネコも最高(ネコではなく虎が出てくる)」、「バーベキューも最高ならプールも最高」とボタンを押すとバーベキューグリルとプールが爆発し(!)、 「『ベライゾン』の回線速度は最高だ」とオチをつけてみせる。CM内のモニタ類にはすべて『トランスフォーマー』の映像が映っており、さらに庭に実物大のバンブルビーが立っているところからも分かるとおり、マイケル・ベイがこのCMに出演したのは当然『トランスフォーマー』のプロモーションの一環としてではあるが、このように自分を対象化してギャグにすることの出来る映画監督は少ない。


 さて『トランスフォーマー』がヒロインの扱いについて非難を浴びたのは、有名な「サムの車のボンネットを開けて、中を覗き込むミカエラ」の場面があったからである(他にもあるが、この場面が最もインパクトが強く、また作品内における女性の位置づけを象徴しているとみなされたことから、とくにやり玉に挙げられたのである)。


 このシーンについて、マイケル・ベイには明確なビジョンが撮影前の段階からあった。撮影に先立ってベイはミーガン・フォックスに「君はお腹に自信があるかい? 映画ではお腹を強調して撮るから準備万端で来るように」と言っており、またミーガン本人の告発によれば「撮影前、ベイに呼ばれて彼の自宅でフェラーリの『カーウォッシュ』をさせられた。彼はその様子をビデオに撮っていた」とのことである。


●ベイがカーウォッシュを描いた意図は?
 最終的に『トランスフォーマー』の当該場面は「カーウォッシュ」ではなく「エンジンを覗き込むミカエラ」という形になったわけだが、「カーウォッシュ(洗車)」がセックスのメタファーとして用いられるようになった起源は『暴力脱獄』(1967年)にある。


 こうした、いわゆる「セクシー・カーウォッシュ」は「バイクと美女(「モーターサイクル・チック」と通称される)」、「銃と女(「チックス・ウィズ・ガンズ」)」などと並ぶ、きわめてアメリカ的なセックスのメタファー的表現であり、現在では本来の意味合いを残しつつも、あまりにも陳腐なクリシェ的な表現として、いわばギャグの一種として用いられることも多い情景である。


 マイケル・ベイの自宅で撮影されたというミーガン・フォックスの「カー・ウォッシュ」テスト映像が実在するのかどうかは分からない。ミーガンによれば、「マイケル・ベイに『あのテープはどこにやったの?』と聞いたら、彼は恥ずかしそうに『いや、ぼくもテープの行方は分からないんだ』」と言っていたそうだが、ことの真相はともかく、マイケル・ベイが『トランスフォーマー』の当該場面を「セクシー・カー・ウォッシュ」の伝統に則ったグラマラスでセクシーなシーンとして構想し、実現したことは間違いない。しかし、それをもって『トランスフォーマー』が「女性をオブジェクティファイしてはばからない、女性蔑視の作品」と断じるのはいささか性急にすぎる……のかもしれない。先に挙げた『Michael F-ing Bay』は、これについて「このシーンで、カメラは客観的な視点というよりはサムの主観を代弁するものとして機能している。スピルバーグが『トランスフォーマー』の指針として打ち出した『ティーンエイジャーの目を通して語られる物語』というコンセプトが実現されているのだ。ここで映っているミーガン・フォックスは、ミカエラというキャラクターの外見を反映しているわけではない。それはホルモン過多のティーンエイジャーの少年サムの目を通して見た、理想化されたガールフレンドの姿なのだ。彼女の衣装もポージングも、現実を反映しているのではなく、サムの妄想を反映しているに過ぎない」と指摘している。


 この説には一定の説得力がある。マイケル・ベイはもともと異常に「理想化された」ギラギラのグラマラスでセクシーな世界をCMで描き続けてきた作家だからだ。(高橋ヨシキ)