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『君の名は。』との共通点と相違点から、新海誠監督最新作『天気の子』の本質を探る

2019年07月26日 10:11  リアルサウンド

リアルサウンド

『天気の子』(c)2019「天気の子」製作委員会

 2016年に社会現象といえる、思いがけない特大ヒットを記録した劇場アニメーションが公開された。新海誠監督の劇場長編作品『君の名は。』である。かつて一部のファンによって支持されてきた新海作品だが、この作品については広い観客に向け大規模公開され、とくに多くの若者の心をつかむ興行的成功を収めて大メジャー作品となったのだ。


参考:『天気の子』大ヒットスタート 万人向けだった『君の名は。』とは違う、その魅力とは?


 熱狂は果たしてこの先も続いていくのか……? 続く新海監督の次作『天気の子』には、否応なしに熱視線が浴びせられることになった。さて、そんな期待高まる状況のなか、ついに公開された『天気の子』の内容はどうだったのだろうか。ここでは、前作『君の名は。』のヒットの理由もあわせて考察しながら、同時に作品の本質を探るべく考察を進めていきたい。


 まず、思った以上に前作の『君の名は。』に雰囲気が近しいというのが、第一印象だ。少なくとも表面的には姉妹作品と言っても良いくらいに、物語の語り方のみならず、作中に散りばめられた要素や雰囲気にも重なるところが多く感じられる。それは、例えばキャラクターデザインを引き続き田中将賀が務めていることや、音楽をまたしてもRADWIMPSが担当していることなど、前作をまたいで参加している主要なスタッフもいるので、当たり前といえば当たり前だといえるかもしれない。しかし、それを選択したのも、監督でありプロデューサーであることも確かである。おそらく本作は、大筋では“『君の名は。』のような作品”をもう一度作ることを要請されていたのだろう。そしてその要望は本作で最低限、成し遂げられていると思える。


 前作を大筋で踏襲することによって、本作のインパクトは比較的小さなものになっているのはたしかだ。とはいえ、前作のような臆面もないように感じられたコテコテなオープニング・アニメーションの演出は廃止されるなど、映画作品としてはスマートに、より洗練されたことで、本作は“普通の映画”に近づいてしまったように思えるのだ。それは美点になり得るところだが、同時に圧倒的だった個性を薄めてしまったとも判断できる。


 『君の名は。』に、おそろしいまでの勢いがあったのは、例えば主人公たちの気持ちをそのままの歌詞にした楽曲が、劇中で何曲も使用されているという異様な“まっすぐさ”にもあった。そして声を合わせて自分の恋心を叫ぶような、思わず赤面してしまうような演出というのは、分かりやすいモチーフであった『転校生』(1982年)などの80年代青春映画を通り過ぎ、『青い山脈』(1949年)の岸壁で、海に向かって「好きだ」と叫ぶような地点にまで先祖返りをする。


 ここから分かるのは、多くの若者は、じつは洗練された恋愛映画を求めているわけではなく、むしろ『青い山脈』のような、素朴かつ実直な描写をこそ希求していたのではないかということだ。それはひとまず、このような“ベタさ”へと回帰したがる、若い世代における保守化の一端を表しているといえるのかもしれない。その意味で本作は、『君の名は。』のファンからは物足りないと感じられるかもしれない。


 それはさらに、宗教的モチーフをベースにざっくりとした裏付けを得た、時空を超えたファンタジーという世界観への無警戒さとも無関係ではないはずだ。そしてそれは、日本神話や『とりかへばや物語』などの古典によって結び付けられる、“前世からの許嫁(いいなづけ)”という、スピリチュアルかつ前時代的な関係性を支持してしまうような、日本の当世風の若者の、内向きの感覚をすくい上げているといえよう。本作『天気の子』もまた、このような神道系スピリチュアルを、『月刊ムー』というオカルト雑誌をクッションに、龍神・稲荷神社にまつわる天候を題材にしたファンタジーのなかに織り込んでいく。


 本作で離島の実家より東京へ家出し、“ネットカフェ難民”となってしまう少年・帆高(ほだか)が出会うのは、天候を変えるという不思議な能力を持った少女・陽菜(ひな)。彼女が願いを込めると、雨を降らせている雲が避け、日光が下界を照らす。


 ヴィジュアル面では、光が高層ビルを次々に照らしていくシーンが、本作の最も美しく、ダイナミックな表現だろう。もともと新海監督は、キャラクターの演技よりも、詳細に描いた背景やエフェクトによって生み出す“雰囲気”の方が圧倒的に優れており、それが最大の魅力だった。それが本作では、天候の変化というダイナミックな描写において、物語のなかで最大限に機能している。このようなねらいというのは成功しているといえるだろう。


 ある想いを強く抱きながら鳥居をくぐり抜けたことで、天上の世界へと結び付けられたという陽菜は、半ば地上の者ではなくなってゆく。帆高は、自分の商売のアイディアによって彼女に力を使わせすぎてしまったという罪悪感を背負うことになるが、もはや自分の力では事態をどうすることもできなくなってゆく。


 ここで思い至るのは、本作の裏に隠されているかもしれない“もう一つの物語”である。「バーニラ、バニラ、バーニラ求人」でおなじみの、大音量で街を巡っていく“バニラトラック”が印象的に登場することが象徴しているように、本作には性風俗産業の影がつきまとっているように感じられる。


 帆高は、風俗店の従業員に連れ込まれようとしている陽菜を救出することになる。しかし、もしも帆高が陽菜を救い出せていなかったとしたらどうだろうか。彼女は客をとらされ、対価を手に生活していくはずだ。そしてほぼ収入のない帆高は、彼女の“ヒモ”として、その収入をあてにアパートに入りびたることになるのかもしれない。これが、“ファンタジー”を取っ払った“現実版『天気の子』”である。


 帆高は傷ついていく陽菜を救い出すため、商売から“足抜け”させようとするが、すでに大人の世界の“システム”によってがんじがらめにされていた彼女をどうすることもできない。本作が、天と地を舞台にしたファンタジーによって覆い隠しているのは、現実にいくらでも転がっている、システムの底辺にあって残酷な社会に押しつぶされていく男女の情痴の物語なのではないだろうか。


 無力な男と献身的な女。この一連の物語に通じているのは、明治期の『義血侠血(瀧の白糸)』や『金色夜叉』のような、古い社会における、きわめて古典的な男女関係のエピソードである。それがいま甦ってくることに、なんとなくリアリティを感じるというのは、経済力が低下し、格差が広がっていきつつある社会が、一人ひとりの幸せをカバーする余裕がない時代へと後退しつつあることを意味しているのかもしれない。


 陽菜のように、他人の楽しみをケアすることに生きがいを感じ、献身的に振舞う女性というのは、これまでの歴史の裏に数多く存在していたことだろう。しかしその労苦はいびつな社会において、多くの場合報われることはなかった。そのように損な役回りをさせられる底辺にある人々を、社会はあたかも存在していないように扱う。歯車に押しつぶされた亡骸を、誰もが目にしていながら、無かったことにして通り過ぎる。誰かを犠牲にしながら、「今日も日本は平和だねえ」とお茶の間やカフェでくつろぎながら笑い合う。このような欺瞞に満ちたシステムを暴くのが、本作の本当の物語ではないのか。そんな世界は滅びてしまえばいいという激情が存在するところが、本作のパンクな快感であり、カタルシスであろう。


 『君の名は。』と『天気の子』は、その神話的モチーフは似ているが、それを肯定するか否定するかというところでは、逆の方向を向いていると感じられる。『君の名は。』は、隕石の落下を無効化してしまうことで、現実の東日本大震災に対する多くの人々の深層的な罪悪感を晴らしてしまうような描写を用意した。そこに時代的なカタルシスが発生していたのだ。


 つまり『君の名は。』は、生き残った多数派の側に立った作品だった。対して『天気の子』は、そのような多数派の無神経さを糾弾する少数の人々の物語を描いている。その意味で本作は、『君の名は。』と対になりバランスをとる作品になっている。だから本作は、前作ほどの熱狂を生み出すようなものにはなっていないのかもしれない。しかし、よりやさしい目線で弱い人間に寄り添う作品になっているのである。


 だが本作には、『君の名は。』同様に問題が発生している部分もある。2作品における最大の特徴は、作中でダイナミズムを発生させるために、恋愛における気持ちの高まりと、人を救うという行為を同時に描いてしまっているところだ。


 本作では、帆高の軽率なアイディアによって、陽菜を犠牲にしてしまうことになる。それを挽回しようと奮闘するのは、帆高の人間としての贖罪であるべきだ。にもかかわらず、彼はその行動に、自分の想いを彼女に伝えたいという感情を重ねてしまっている。だから彼女を救い出す最中にあっても、窮地にあるはずの彼女に対して恋愛感情をぶつけてしまうのだ。たまたま陽菜がそれを望んでいたからいいようなものの、告白は非常にアンフェアな状況で行われているのである。


 このような、とくに男の側の身勝手な想いを美しく肯定してしまうのが、新海誠監督のこれまでの作家的な問題だった。その問題が、恋愛描写とスペクタクルを同時に描いてしまうような2作品において、強烈な違和感を残してしまっている。このような、もはや恋愛とも呼べないような恋愛観を、“一方的なもの”だと、いまだに気づけていない監督が、恋愛作品を描き続けているのは、疑問を感じる部分である。ここを払拭することなしに、新海監督が恋愛を題材にしながら、“国民的”作家になってしまうのだとするなら、それもまた現在の日本社会を表象する現象だといえるだろう。(小野寺系)