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人生なんて88分もあればじゅうぶんだーー『COLD WAR あの歌、2つの心』が描く愛と絶望

2019年07月12日 10:01  リアルサウンド

リアルサウンド

『COLD WAR あの歌、2つの心』

 わずか88分の上映時間のうちに、悠遠たる人生の有為転変が、まるごと入っている。私たちは決して長くはない時間を劇場の暗闇で過ごし、あるカップルの愛と生と性、そのすべてを味わい、激しくぶつけられ、暗闇が暗闇でなくなった時、現実の時間感覚を取り戻すのに少し苦労するだろう。


 タイトルは『COLD WAR あの歌、2つの心』。監督は、前作『イーダ』(2013)でアカデミー外国語作品賞を受賞し、日本公開時も非常に好評を博したポーランドの映画作家パヴェウ・パヴリコフスキ。すでに61歳となっているが、1990年代にはイギリスでテレビドキュメンタリーの仕事に従事していたそうだから、映画作家としては新鋭として考えてもいい存在だ。その『イーダ』の好評から次回作の発表まで5年も要してしまったのはいかにも惜しいことだが、その間パヴリコフスキは、激しい恋愛でクッツイタリ離レタリをくり返した両親の生涯を映画化しようと、もがき苦しんでいたのだという。結局彼は両親の実話映画化を破棄し、音楽家カップルのストーリーに置き換えた。それが『COLD WAR』だ。本作は昨年のカンヌ国際映画祭に正式出品され、監督賞を受賞している。


 映画の最初、ポーランドの田舎を回って採集される民謡の数々が素晴らしい。このフィールドワークが母体となって、才能と容色の良い若者たちを選抜し、ポーランドの民俗芸能を総合的に教えこむ施設「マズレク」が誕生する。「マズレク」の女生徒で才能はあるが問題児のズーラ(ヨアンナ・クーリク)、そして「マズレク」の音楽監督兼ピアニストのヴィクトル(トマシュ・コット)。この2人の激しい恋愛が、時を変え、場所を変え、たがいの環境を変え、熱い調子で描かれていく。


 一見して抱く印象は、とにかく精緻なフォーカスと完璧な照明によるモノクローム映像だ。今どき珍しくなった1:1.33のタテヨコ比によるスタンダード画面は、ノスタルジーよりもむしろSF的な神秘性さえ放っている。撮影は『イーダ』でアカデミー撮影賞にノミネートされたウカシュ・ジャル。おもしろいのは、ヴィクトルが東ベルリン経由でパリに亡命してからの画面が、それまでのスーパーリアルな神秘主義から、ややノスタルジックな画調に転調していく点だ。彼がパリに居を移した1950年代前半は、ジャズ全盛の時代で、本作で造成されたサンジェルマン=デプレあたりとおぼしきジャズクラブ「L’Eclipse(レクリプス)」は完全にボリス・ヴィアンが描くノワールなジャズ世界だ。ふと私たち観客は、心を揺さぶってやまぬ次の言葉を呟くことになるだろう。「ヌーヴェルヴァーグ」と。ヌーヴェルヴァーグ前夜のパリで、彼は夜な夜なピアノを弾き続ける。あともう少しでルイ・マルが『死刑台のエレベーター』(1957)を、フランソワ・トリュフォーが『大人は判ってくれない』(1959)を、ジャン=リュック・ゴダールが『勝手にしやがれ』(1959)を撮ることになるパリで。


 ところがヴィクトルがヌーヴェルヴァーグの誕生に立ち会うことはない。『大人は判ってくれない』『勝手にしやがれ』が陽の目を見る前に、彼は、すでに失意のうちにパリを去ったズーラを追って、ポーランドに戻っていく。思えばこのヴィクトルという男は、あらゆるものを取り逃してきた男だったのではないか。パリで彼は映画音楽の仕事にも従事している。しかし彼が担当するのは、いかにもアナクロなホラー映画で、そこに馬鹿げたおどろおどろしい弦楽を付けている。ヌーヴェルヴァーグがもうそこに来ているというのに。彼の人生の選択は、彼をいっこうに幸せにしない。東ベルリンの東西境界線でズーラと待ち合わせたヴィクトルは、ズーラが逡巡の果てにとうとう来なかったことに諦め、ひとりで西ベルリンに越境していく(このシーンの設定である1952年、ベルリンの壁はまだ造られていない)。彼がポーランドを去ったあと、ソ連の独裁者スターリンの死去(1953)に伴って雪解けが起き、ワルシャワでは未曾有のジャズブームが起きている。帝国主義的音楽として禁止されていたジャズは、彼不在の母国でブームを謳歌したのだ。


 ズーラという情熱的な歌手の生きざまも、見るに忍びないものがある。パリでヴィクトルと落ち合うために、イタリア人と愛のない結婚をして西側のパスポートを取得したり、彼女がヴィクトルとの愛を取り戻すために払った犠牲の大きさは計り知れない。彼女が「マズレク」の公演でいつも歌った恋愛の民謡『2つの心』。パリでその楽曲のフランス語版をレコーディングするが、彼女は「こんなもの」と吐き捨てて、出来上がったばかりのレコードを放り投げてしまう。喪失したものの大きさを、ポーランド語オリジナル版では印象深く耳につく悲しみの「オヨヨー」のスキャットがアイドルシャンソンの小洒落たウィスパーに置換されることで、雄弁に示していた。


 ズーラとヴィクトル。情熱と失意、幻滅をくり返す一組の男女のクッツイタリ離レタリを眺めているうちに、日本映画2本をどうしても思い出してしまう。成瀬巳喜男監督『浮雲』(1955)の高峰秀子と森雅之。吉田喜重監督『秋津温泉』(1962)の岡田茉莉子と長門裕之。どちらも、十数年というスパンの有為転変をへるにしたがって男が俗物化していき、女は有り余る愛のさし向けるべき方向に難渋し、絶望を深める。吉田喜重監督みずから「美しすぎる」ことを省察した『秋津温泉』の絢爛たるカラー・ワイドサイズを、もしも『COLD WAR』が精緻なモノクローム・スタンダードの代わりに採用していたら、と想像せずにはいられないし、その版の『COLD WAR』もぜひ見てみたかった(公開資料によれば、プランの当初はカラーで撮影されるはずだったらしい)。


 愛というものは、普遍であることも永遠であることも、どうやらできはしない。そんなことは私たち一般の者ですらとっくに気づいていることだ。ズーラとヴィクトルの愛も、すれ違いやら運命のいたずらやら、時代の制約やら、たがいの自意識や虚飾やらをこうむって、とぎれとぎれなものとなり、ついには難破船どうしの再会のようなものとなり果てる。乱暴なまでにエピソードを手っ取り早く中断させるフェイドアウトと黒味画面の多用によって、ギリギリまで切りつめた省略話法が魔術的効果を発揮し、それらのとぎれとぎれの愛の座標を、スピーディーに捕まえていく。悠遠たる人生が、B級映画のように短い上映時間で、未練がましい情緒をきびしく排除しつつ、ドスンと私たちの瞳に投げつけられる。好評だった前作『イーダ』を見ていない人も、人生なんて88分もあればじゅうぶんだと言わんばかりのパヴリコフスキの剛毅な語り口に、それがどれほど重苦しい悲劇だとしても、ある種の清涼感さえ抱くことだろう。(荻野洋一)