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新海誠監督作『天気の子』は“雨”の表現に注目! 新旧アニメーションから“水”表現の変遷を紐解く

2019年06月30日 10:11  リアルサウンド

リアルサウンド

『天気の子』(c)2019「天気の子」製作委員会

 『海獣の子供』、『きみと、波にのれたら』、そして『天気の子』。2019年夏の、これらの劇場アニメーション作品に共通点を見出すとすれば、“水”が重要な要素になっているという点であろう。


参考:『海獣の子供』なぜ賛否を巻き起こす結果に? 作品のテーマやアニメーション表現から考察


 絶えず動き続ける水面や、舞い落ちる水滴など、アニメーションで繊細な動きを見せる水を表現するのは、非常に難しい技術だ。しかし、それだけにその千変万化する姿は魅惑的であり、アニメーターの腕の見せどころともいえる。ここでは、劇場アニメーション作品における水の表現を、新旧の作品を交えながら振り返りつつ、それが物語るものを考えていきたい。


 最先端であり続けることを目指すディズニーの劇場長編における映像表現では、誰も見たことのないものを見せなければならない。たとえば『アナと雪の女王』(2013年)では、かつてない雪のリアルな表現を達成するため、いちから独自にCGソフトの開発を行っている。


 従来のように観客の目に見えるところだけでなく、コンピューターによって設定された空間の中に、火、雪、水、風などのエフェクトをシミュレーションすることで、擬似的な現実を作り出してしまう。このような技術を自社で開発するたびに、ディズニーのCG技術のストックが増えていき、表現の幅は広がってゆく。


 『モアナと伝説の海』(2016年)で新しく開発されたのは、「スプラッシュ」と名付けられた計算ソフトだ。水の粒子は雪よりもはるかに細かく流動的である。そのため、雪を表現したレベルのリアルさで、海の膨大な水量が荒れるような場面を表現するためには、億単位の水の粒子をシミュレーションする必要があるという。リアルタイムで絶えず動き続ける数億の粒子……現在の技術でこれを計算するためには、複数のコンピューターを同時に稼働させ、仕事を分担させるという方法をとらなければならない。


 そんなディズニーは、アニメーションによるリアルな表現を駆使した世界初の長編映画『白雪姫』(1937年)をはじめとする傑作群によって、アナログな表現でも世界の頂点に立っていた。『白雪姫』での水の表現といえば、井戸の中に白雪姫が歌声を響かせるシーンが印象的である。水の中から白雪姫を見上げるという、当時アニメでしか表現が不可能だった奇抜な構図から、彼女の歌声が、目に見える波紋として描写されるという試みは、感動的なまでに美しい。このような場面を作るヴィジュアル・エフェクトという仕事は、アニメーションの表現を大幅に広げることとなった。


 ディズニーで、とくに水の表現に秀でたエフェクトアーティストといえば、『ピノキオ』(1940年)で、海の波の複雑な描写や、クジラが暴れる際の水しぶき、水中の見事な表現で台頭したジョシュア・メダーが挙げられる。『ダンボ』(1941年)でのリアルに映し出される雨、『南部の唄』(1946年)で水面に釣り糸を垂れる描写、『シンデレラ』(1950年)で無数に現れる泡などの充実した仕事によって、彼はアニメーション作品をより芸術的な領域へと高めていった。


 ウォルト・ディズニーの死後、低迷したディズニーのアニメーション映画を救うことになった大ヒット作『リトル・マーメイド』(1989年)では、『ピノキオ』でも見られた、海底に照らされるゆらめく光、舞い踊る泡、キャラクターの髪の動きなど、これまでのディズニー作品が確立してきた伝統的手法が多く活かされている。


 それでは、日本はどうだったのか。「東洋のディズニー」を目指した東映動画では、『白蛇伝』(1958年)や『安寿と厨子王丸』(1961年)、『わんぱく王子の大蛇退治』(1963年)など、ディズニーの確立した優れた技術を学び利用しながらも、東洋美術のテイストをとり入れた作品を作り続けてきた。時代の流れのなかで、題材や表現から表面的な“東洋性”が抜け落ちていきながらも、宮崎駿もスタッフとして参加した、海の色をビビッドなライムイエローで描き出した『どうぶつ宝島』(1971年)などに代表されるように、水の表現において簡略化しつつも効果的に見えるような、日本独自の職人的表現というものが出来上がっていく。


 宮崎駿が東映動画退社後に初監督した映画作品『ルパン三世 カリオストロの城』(1979年)では、ルパンが侵入する水路の水の流れを見れば分かるように、ゆらめく線を走らせることで、移動する水をスマートに描き出すという洗練さを発揮している。このような技術は、後のスタジオジブリ作品の表現手法の基本となっている。


 そこでは、水の量によってその描き方が変化する。例えば、『となりのトトロ』(1988年)の、サツキの家の前を走る水路では、『ルパン三世 カリオストロの城』のように、その流れを線のニュアンスだけで表現するが、『魔女の宅急便』(1989年)や『紅の豚』(1992年)などで海を描くときは、不透明な“かたまり”として、適切な色をべたっと塗ることで、同じ水でも違う概念として描き出し、必要があれば水面に光の反射のエフェクトを加えることになる。現実の水の見え方というのは、このような表現とは異なるものの、アニメ独自の面白さとして理解され、支持されてきたといえる。


 現在の日本のアニメーションは、あらゆる表現を、手描きとCG、どちらの手法でも選択することが可能である。なかでも、水のニュアンスを描くのには特殊なノウハウが必要になるため、そこだけ部分的にCGにする場合も少なくない。『海獣の子供』や『きみと、波にのれたら』などのハイクオリティーな作品では、かっちりと決められた手法というよりは、それぞれのシーンに必要なニュアンスを表現するため、もしくは千変万化する海の状態によって、アニメーターによる微細な作画に加えてCGやエフェクトが使用される。


 新海誠監督は、『言の葉の庭』(2013年)に代表されるように、キャラクターよりも、むしろ背景や雰囲気などニュアンスを伝える方に重点を置くという特異な作家性を持っている。現在予告編などで発表されている『天気の子』の場面はやはり水が重要な要素となっているが、それを表現するために、エフェクトを加えるソフトによって映像の加工に入念な時間をかけた、場合によっては、元の作画が分かりづらくなるくらいに粘度のある画面を作っている。


 現在のディズニーとは異なる、このようなハイブリッドな手法が、日本のアニメーションの主流となっているのだ。その意味では、かつてのディズニーの手法を受け継いでいるのは、考えようによっては日本のスタジオの方なのかもしれない。とはいえ、前述したように、ディズニーはCGの新技術を次々に構築し、具体的な技術の資産を蓄積し続けている。それに対し日本のスタジオは、作画の面では徒弟的な、人間の身体に覚えさせていく、より職工的な技術が主流であり、一度業界自体が衰退すれば、一気に技術が失われていく危うさを持っているのは確かだ。


 ディズニーを中心にアニメーションの潮流が激変していくなかで、岐路に立たされている日本のアニメ業界。アニメーションで“水”をどのように表現するか……そのこと自体は小さなことに見えるが、小さな部分に着目することで、それはより大きな状況を映し出す鏡となっていることに気づかされるはずである。


■小野寺系(k.onodera)
映画評論家。映画仙人を目指し、作品に合わせ様々な角度から深く映画を語る。やくざ映画上映館にひとり置き去りにされた幼少時代を持つ。