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『町田くんの世界』町田くんは“善のジョーカー”? 原作とは異なるタッチで善悪を問う寓話に

2019年06月25日 08:01  リアルサウンド

リアルサウンド

『町田くんの世界』(c)安藤ゆき/集英社 (c)2019 映画「町田くんの世界」製作委員会

 安藤ゆきによる原作『町田くんの世界』は、『別冊マーガレット』2015年4月号から2018年5月号まで連載された、とても静かで美しい作品である。主人公・町田一の人物像は、少女漫画というジャンルにおいて最もヒットを生みやすい「性的魅力と男性的能力を兼ね備えたドS系王子」の造形を裏返すように、特に勉強も得意ではなく運動も苦手な、しかし物静かで利他的な高校生として描かれている。それは単に「私に優しくしてくれる男の子がいてくれたらいいな」というファンタジーではなく、これが初のオリジナル連載作品となった若い作家による、「暴力のない世界は可能か」という、ある種の社会的な実験作のように見える。町田くんの前には社会的な問題を抱えた人たちが次々と現れ、彼は力の論理に頼らずただ静かに、理性的に彼らとコミュニケーションを取っていく。エンターテインメントを牽引する有力な武器である「性と暴力」を慎重に作品から取り除きながら、それでも作品世界の構築を試みた実験作で、この作品が多くの同時代の少女読者の支持を受け、『この漫画がすごい!2016』女性部門3位をはじめとする投票ランキング、また手塚治虫文化賞新生賞などの高い評価を受けたことは、少女漫画というジャンルにとって特筆すべきことだと思う。それはタイトルの通り、「世界」についての物語なのだ。


参考:場面写真ほか多数


 映画版の『町田くんの世界』は、この原作の達成に注目した日本テレビのプロデューサー北島直明氏(興行収入50億突破の『キングダム』や『ちはやふる』三部作大ヒットの立役者でもある)が、監督に『舟を編む』『映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ』石井裕也氏、脚本に片岡翔氏を据え劇場映画化した作品である。映画はいくつかの点で原作を大胆にアレンジしているのだが、最も重要な変更は主人公・町田くんの人物像の解釈についての演出だと思う。原作の町田くんは静かで大人びた少年である。彼の情緒は安定し、理性によってコントロールされている。原作の町田くんはある意味で成熟しているのだ。それに対して映画の町田くんは世界を見上げる、ただ熱い善意だけを持つ未熟な少年である。原作の町田くんがinnocent(無垢)だとしたら、映画の町田くんはある意味ではidiot(愚か)な少年として描かれている。


 この点に違和感をもつ原作ファンもおそらくはいたと思う。原作の町田くんのつつみこむような包容力、優しさに対して、映画の町田くんは幼児のように弱く未熟で、愚かな少年である。原作ファンは優しく静かな、理性的な町田くんを見たかったかもしれない。映画版は主人公の町田くんと猪原さんにまったくの新人を抜擢しているのだが、彼らの演技の初々しさは映画の中ではそのままコミュニケーション能力の未熟さを表現する武器になっている。演技とはコミュニケーションだし、日常の中で他人とコミュニケーションを取ることは、ある意味では自分を演じることでもあるからだ。


 しかし映画は、もうひとつの原作アレンジとして、町田くんの周囲の人物たちに日本トップクラスの俳優たち、演技とコミュニケーションのプロを配置していく。岩田剛典、高畑充希、前田敦子、太賀、池松壮亮、戸田恵梨香、佐藤浩市、松嶋菜々子、北村有起哉という布陣は、漫画原作映画で新人の脇を固めるには異様といっていいほどの実力者たちである。岩田剛典と高畑充希の二人がいればそのまま一級の恋愛映画が一本撮れてしまうだろう。前田敦子は今や若手女優屈指の演技派である。戸田恵梨香は次回の朝ドラ『スカーレット』(NHK)の主演女優だし、松嶋菜々子は現在放送中の『なつぞら』(NHK)で主人公の義母という重要な役を演じている。同じく『なつぞら』に出演し、あっと言う間にスターダムに駆け上がりつつある富田望生も出演している。佐藤浩市が少女漫画原作映画に投入されるのも極めて異例のことだと思う。


 彼らの何人かは町田くんとの対比の中ではそれぞれにどこか悪人であると言ってもいい。原作の『町田くんの世界』が、主人公の町田くんの魅力、彼の静かな歌声で美しく世界を包んでいく物語だとしたら、映画版の『町田くんの世界』は、この周囲の悪人たちがメインボーカルの、世界に対する悔恨の歌が包む物語である。岩田剛典も高畑充希も、まるで月がその裏側を見せるように、若手スター俳優のダークサイドのような演技力でスクールカースト上位の生徒の心の闇を演じる。高畑充希が町田くんに「告解」(それは愛の告白というより、教会で懺悔をするような告解である)するシーンの生々しいリアリズムの演技力の見事さ。岩田剛典が演じるファッションモデルの、明るい照明と対角に落ちる影の暗さ。そして前田敦子の素晴らしさ。アイドル時代の彼女は人気投票を煽るための看板として使われていた印象が強いが、女優としての前田敦子はリアルで、シニカルで、そしてユーモラスな演技でこの映画をリードしている。アイドルという職業から無数の演技派女優が生まれてくるのは偶然ではなく、そもそも彼女たちはアイドル時代からアイドルを24時間演じるという演技レッスンを積んできているからだと思う。前田敦子はただギアを逆回転に切り替えるだけで、アイドルの対極にあるリアルな女性像を演じることができるのだ。(私見というか私推しで申し訳ないが、現在は乃木坂46キャプテンの桜井玲香も明らかに将来はそういった女優として映画界を席巻する一人になりうると思う)


 岩田剛典や高畑充希、そして佐藤浩市が編集長をつとめるスキャンダル誌のカメラマンを演じる池松壮亮、彼らは町田くんという弱く未熟な神父に対して、懺悔のように悪人の苦しみを吐露していく。それはかつてブルーハーツが歌った「チェインギャング」という歌の中で、鎖につながれた罪人たちが世界の歪んでいる理由を悔恨とともに問いかける切実さを思わせる。映画版の『町田くんの世界』はキリストを殺してしまった人たちの、世界についての苦しみの物語なのだ。


 映画版の『町田くんの世界』の冒頭では、バスの中で町田くんについて女子生徒が会話する「キリストって呼ばれてる」「ああいう危ないやつが事件起こすんだよ」という相反した批評によって主人公が紹介される。たぶんその両方として映画は町田くんを描いているのだと思う。「子供のころに井戸に落ちて頭を打ち、人よりも劣った能力しか持てなくなった」という町田くんは、映画版ではある種の欠落をかかえた少年、弱者や劣者の象徴として描かれている。かつて90年代に起きた少年犯罪以来、日本のフィクションは取り憑かれたように「幼児期に倫理感が欠落したサイコパス少年」というキャラクター造形を描き続けてきた。海外でも『羊たちの沈黙』や『ダークナイト』で「高度な知性を持った純粋な悪」のモチーフは繰り返し描かれる。この映画で描いているものはそのアンチテーゼであり陰画、いわば善意以外のものが欠落してしまった「善のジョーカー」としての町田くんである。ジョーカーが人々の中に眠る悪を目覚めさせ、ハンニバル・レクターがクラリス捜査官の倫理を揺さぶるように、町田くんは善の側からこの世界を揺り動かし、悪人たちに問いかけるのだ。


 映画の重要なアレンジは最後のシークエンスにも隠されている。町田くんによって価値観を揺さぶられ、悪の苦しみを吐露してきた周囲の人物たちは、最後のシークエンスで町田くんに「小さな悪」を教える。それは人が人を愛することの中にあるエゴイズム、個人が個人であるために必ず必要な自我という悪である。エゴの肥大に苦しみ、自らを破綻させてきた悪人たちが、町田くんの善意と交換するように、ほんの少しだけ町田くんのために悪を分け与え、彼を支えるクライマックスは、まるでドストエフスキーの『罪と罰』で、金貸しの老婆を殺した青年にわずかな善意が芽生える最も有名な結末の裏返しのようにも見える。町田くんが「善のラスコーリニコフ」であるように、彼が恋する猪原さんは、いわば「悪のソーニャ」として町田くんのエゴを少しだけ目覚めさせるのだ。マジックリアリズムを駆使した演出を含め(このシーンに戸惑った観客も多いと思うが)映画版の町田くんはそうした、善と悪と世界の寓話として描かれている。「地獄への道は善意で舗装されている」というのは愚かな善人を揶揄する決まり文句であるが、映画のクライマックスで町田くんが走るのは、善と悪が複雑に敷き詰められた現実と未来への道だ。それは原作とは少しニュアンスが違うものの、十二使徒が福音書で描くキリストが少しずつ違うように、別の角度から描かれたある一人の少年の美しい肖像なのだと思う。


 もともと少女漫画の定型から離れてヒットした原作なのだが、さらに前衛的な構成に戸惑った観客も多い。しかしこれはプロデューサー北島直明氏が惜しげなく投じるべき資金を投じて制作した優れた映画化だと思う。(この映画は石井裕也監督のキャリアとともに今後再評価されていくし、北島直明Pの手腕はやがて川村元気氏と並び称される域に達していくと思う)50億突破の『キングダム』、三部作で40億を超える『ちはやふる』のような興行収入はもたらさないかもしれないが、これは聖書の中に出てくる迷える一匹の羊を探し当てたように、日本映画界にとって貴い一作であると思う。


 あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。(マタイによる福音書18章12-13節より) (文=CDB)