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柳楽優弥が示す、“表現者”としての真価 『CITY』『泣くな赤鬼』『ザ・ファブル』を軸に考察

2019年06月24日 08:11  リアルサウンド

リアルサウンド

柳楽優弥(c)2019「ザ・ファブル」製作委員会

 5年ぶりの主演舞台『CITY』の公演を無事に終え、『泣くな赤鬼』『ザ・ファブル』と、出演した話題作の公開が続く柳楽優弥。やはり、彼はいつも驚きを与えてくれる俳優である。


【写真】『ゆとりですがなにか』岡田、柳楽、松坂トリオ


 柳楽といえば、カンヌ映画祭で主演男優賞を受賞した『誰も知らない』(2004)への出演をはじめ、幼い頃より俳優としてのキャリアをスタートさせたことは、恐らく誰もが知るところだろう。2012年に故・蜷川幸雄が演出する『海辺のカフカ』で主役として初舞台を踏み、2014年の『金閣寺』でも主演。気鋭の演出家・藤田貴大ひきいる「マームとジプシー」の最新作『CITY』が、5年ぶりの主演舞台となったのだ。


 映画『ディストラクション・ベイビーズ』(2016)など、映像作品では年を追うごとに進化を見せてきた柳楽だが、演劇では座長として作品を牽引する力だけでなく、役者・スタッフが一堂に集う現場での集団クリエーションとあって、高い協調性が求められるだろう。とくに「マームとジプシー」の作品は目まぐるしくシーンが移り変わり、それに応じて、演者たち自身が舞台セットを変形させていく。初めて観劇した方であっても、本作には高い身体能力、そして高い集中力が必要とされることは容易に理解できるはずである。ほんの些細なミス、呼吸の乱れが、作品の破綻に繋がりかねないのだ。その緊張感を、観客は息を呑んで見つめ、共有するのである。


 それでいて本作は、“ヒーロー”を主題に据えた作品だ。柳楽は主役として華麗なアクションをこなし、その声と身体とで、現代社会の“正義”の在り方を問いかける。凄まじい運動量によって肉体にただならぬ負荷をかけながら上げる彼の悲痛な叫びに、思わず涙したのは筆者だけではないはずだ。こうして私たちは舞台上で躍動する柳楽の姿を目にすることが叶ったわけだが、今年は映画での活躍も目を見張るものがある。


 年明けすぐに、久しぶりの主演映画『夜明け』が公開。比較的ちいさな作品ではあるが、ひとりの若者の苦悩を細やかに演じ、映画に力強い息吹を吹き込んだ。そして先週より公開された『泣くな赤鬼』では、『夜明け』に続き等身大の青年・“ゴルゴ”を好演。高校野球に打ち込む少年が監督(堤真一)との想いのすれ違いから挫折し、やがて大人になってからの関係が描かれる本作で、高校球児時代のゴルゴに扮する堀家一希と丁寧にバトンを繋ぎ合った。結婚し、人の親になったゴルゴを柳楽は演じているのだが、かつての恩師との思いがけない再会によって、いま一度、自分と向き合おうとする姿が印象的である。監督はかつて“赤鬼”と呼ばれ、どんな時にも一切の涙を見せなかった人物だが、余命宣告されたゴルゴとの交流によって、彼もまた自分と向き合うこととなるのだ。自身の不遇を嘆きながらも懸命にもがく姿を見せる柳楽の力に、涙を堪えきれなかったのは筆者や“赤鬼”だけではないだろう。


 ところが、1週違いで公開された『ザ・ファブル』では、岡田准一をはじめ、木村文乃、福士蒼汰、向井理、佐藤二朗といった面々がクセモノを演じる中でも際立つ怪演を披露している。柳楽が演じるのは、出所したばかりのヤクザ・小島。義理も人情も通用しない、デンジャラスな男である。ノンストップで暴走を繰り広げる小島を、柳楽は終始ハイテンションで演じ上げる。画面に大映しにされる彼の顔、そして只者ではないことを印象づける発語と挙動、それらすべてに恐ろしい凄みが感じられるのだ。


 これら一連の作品を続けて観てこそ、柳楽優弥という存在の真価が見えてくる。彼の仕事を追っていると、俳優という枠に収まりきらない、“表現者”という言葉こそが相応しいのだと思えるのだ。


(折田侑駿)