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アンセル・エルゴートが演じきった2つの人格 『ジョナサン -ふたつの顔の男-』は“愛”の映画に

2019年06月21日 12:01  リアルサウンド

リアルサウンド

『ジョナサン -ふたつの顔の男-』(c)2018 Jonathan Productions, Inc. All Rights Reserved

 夜がない映画。映る空はいつも青く、画面に光が立ち籠めている。この映画『ジョナサン -ふたつの顔の男-』には、ほとんど夜が描かれることがない。なぜ、夜が描かれないか。それは、朝7時から夜7時までの限られた時間のみで日々を過ごすジョナサン(アンセル・エルゴート)の視点によって、物語が進んでゆくからである。ジョナサンは稀有な体質に生まれ、兄弟のジョンと一つの身体を分け合っている。ジョンは夜7時から朝7時までの時間を過ごす。髪の毛を綺麗に整え規則正しい生活を送るジョナサンと、無造作な髪の毛で自由奔放な生活を送るジョンは、互いに正反対な生活を送りながら、録画したビデオメッセージを交わすことで日々をやりくりしていた。たった一人の女性が現れるまでは……。


参考:場面写真ほか多数


 「恋人を作らない」。彼らの設定したこのルールの一つが危ぶまれたことをきっかけとして、均衡のとれていた二人の生活は次第に崩れていく。制限のある生活のなかで、恋愛もしたことのないあどけなく初々しいジョナサンの姿は、アンセル・エルゴートが過去に出演した『ベイビー・ドライバー』(2017年)のベイビーを彷彿とさせる。天才ドライバーであるベイビーは、過去に負ったトラウマから社会に適合できずに車という空間に囚われていたが、ジョナサンは完全に所有することの叶わぬ身体に、ある意味で囚われ続けている。エルゴートは過去にも、親友が殺された事件を追求する『クリミナル・タウン』(2017年)や、末期の癌を患う少女と恋に落ちる『きっと、星のせいじゃない』(2014年)などでも同じく経験のない若者を演じており、聡明さと無垢さを併せ持つ若手俳優として人気を博している。


 この映画が<白>を基調としているとするならば、ロシアの文豪フョードル・ドストエフスキーの『二重人格』を原作とした『嗤う分身』(2013年)は、<黒>を基調としているという意味で、対極にある映画だった。ほとんど意図的に照明が削がれ、機械的で無機質な仄暗い世界のなかで、ジェシー・アイゼンバーグが冴えない男サイモンとイケてる男ジェームズの二役を演じる。それは二重人格というよりはドッペルゲンガーと言った方が的確かもしれないが、寸分違わぬ出で立ちの正反対の人格同士が、敵対や憎悪のなかで破滅へと向かっていくという点でもまた、同様の主題でありながら本作とは対極にある。


 かつて、リチャード・ギア主演の法廷劇『真実の行方』(1996年)で当時新人であったエドワード・ノートンが、臆病な青年アーロンと凶暴な青年ロイを鮮烈な演技でもって演じてみせたように、一人の役者が一つの映画で別人格を演じるには、当然その演技力が大きな要となる。特に本作のラストシーンには、エルゴートの完成された演技なしには成立し得なかったであろう、映画的なレトリックが用意されている。サスペンスの様相を装って幕が開けた本作は、映画が進むにつれ、人間の深遠なる内的世界へとダイブしていく。本作における二つの人格は、前掲の『嗤う分身』や『真実の行方』、あるいは人間の善と悪の顔が前景化する二重人格を描いた古典映画『ジキル博士とハイド氏』のように、対を成すようにしてわかりやすくは存在していない。一つの身体において分化された人格におけるそれぞれの多面性は、未分化なものとして入り混じっている。ジョナサンとジョンは、それぞれ弱くも強くも見え、同じように過ちを犯したり嘘をついたりもする。


 何気なく差し込まれた一瞬のショットがある。ジョナサンが電車のなかで、ふと片方の靴紐だけが解けてしまった少女を見つめる。この描写に、彼にとってのジョナサン/ジョンの関係性に対する心象が端的に表象されているのではないだろうか。左右対称であるはずの、あるいは左右対称でなくてはならない二つのものの、形が崩れてしまった一方。この結ばれていない片方の靴紐は、ジョナサン自身の劣等感が投影されたメタファーたり得る。無い物ねだりをするように、ジョンを羨ましく思えていたジョナサン。しかし、ジョナサンとジョンが正確に半分の時間で生活できるよう操作するナリマン博士(パトリシア・クラークソン)が、「ジョンの方が強いと思っていた」と口にするように、やがて奔放で強く見えていたジョンの輪郭が脆弱性を帯びてくると、彼らは互いを本当の意味で理解し始めようとする。


 二つの人格を抱えた一つの身体は、茫洋たる道のどこへ向かっていくのか。ジョンが行方知れずになったとき、それでもジョナサンがジョンにメッセージを残し続ける姿は、懸想する相手に人知れず恋い焦がれる姿のようにも見える。あるいは、ジョンが「星が出てたよ。見せたかった」と、昼の時間に生きるジョナサンが決して見ることのできぬ美しいものを見せたいと願っていること。それらは愛の営為に違いなく、ジョナサンとジョンは世界の誰よりも互いを愛している。それなのに。彼らは魂を一つの肉体で変位させながら生きており、触れ合うことも、抱きしめることも叶わない夢である。結末がどこまでも美しい余韻を残すのは、そこを超えていく希望を捧げてくれるからだろう。だからきっと私たちはこの映画のことを、SF的設定に仮託された果てなき愛の映画、と言う他ない。 (文=児玉美月)