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BOYS END SWING GIRL、デビューまでの軌跡「僕たちは『フォーエバーヤング』に救われた」

2019年06月10日 11:41  リアルサウンド

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 『EXシアターTV』(テレビ朝日系)主催の企画「ROAD TO EX 2017」にてライブイベントに勝ち抜き、初代チャンピオンとなった千葉県成田市出身の4人組、BOYS END SWING GIRLがメジャーデビューアルバム『FOREVER YOUNG』をリリースする。


(関連:ユアネスが語る、バンドとして変わらず大切にしていること「真ん中にあるのは歌」


 インディーズ時代の代表曲をあえてタイトルに冠し、音楽やファンへの変わらぬ真摯な思いを込めた本作は、卓越した4人のバンドアンサンブルを基軸としつつも、ストリングスセクションの大々的な導入や、エレクトロミュージックとの融合、さらにはピアノとバイオリンのみで構成された楽曲など、非常にバラエティに富んだ内容となっている。スピッツやMr.Children、Oasisなどに影響された、冨塚大地(Vo/Gt)のソングライティング能力にも大きな進歩を感じさせる仕上がりだ。


 デビュー前、一度は活動休止になりながらも、そこから復活して快進撃を続けるようになるまでには、一体どのような葛藤があったのだろうか。メンバー全員に、結成の経緯から現在までをたっぷりと語ってもらった。(黒田隆憲)


■「限界集落にも届くような音楽をやりたい」
ーー冨塚さんと白澤(直人/Ba)さんの出会いが、初期BOYS END SWING GIRLの始まりだそうですね?


冨塚大地(以下、冨塚):はい。僕と白澤は小学校1年生の時から一緒で、サッカーも同じチームに入っていたんです。中学校は別々だったんですけど、高校で再会して。その時も同じサッカー部だったんですが、中学生の時に僕も白澤もギターをやってたので「バンド組みたいね」ってなって、それで声をかけて結成しました。


ーーサッカー部でバンドを組むって珍しいですね。冨塚さんがギターを好きになったのは、どんなきっかけだったのですか?


冨塚:実はずっとサッカー選手になりたくて、頑張ればプロになれるかもしれないっていうくらい、練習してたんですよ。でも中2の時、Jリーグの中学生チームにものすごい大差で負けてしまって。「こんな天才たちがいるなら無理だ」と思って、そこでサッカー選手になるのを諦めてしまったんです。それまでずっとサッカー一筋だったから、もう何もやる気が起きなくなってしまい、学校生活も上手くいかなくなっちゃったんですよね。だんだん不登校気味になり、家族には学校へ行くふりをして公園で音楽を聞く日々、みたいな。


 その頃は、BUMP OF CHICKENが好きでよく聴いていたんですが、中2の終わりくらいに母親がバンプのライブに連れて行ってくれて、そこでものすごい衝撃を受けたんです。「この会場の景色をステージから見たい!」って。その次の日から、「音楽でプロになろう」という気持ちでずっとやってきました。


ーー白澤さんは、ギターを始めて1週間も経ってないときに、SMAPの「夜空ノムコウ」を完璧に耳コピしたって本当ですか?


白澤直人(以下、白澤):はい(笑)。全然コードとか知らなかったんですけど、なんとなく出来てしまって。アコギから入ったのですが、もともと『20世紀少年』という漫画を読んでて、そこにThe BeatlesやThe Rolling Stonesなどが引用されているのを見て、「弾きたい」と思ったのがきっかけでした。で、冨塚と再会した時に「ギターが弾けるなら、ベースも弾けるだろ?」みたいな感じでそそのかされて(笑)、そこからベースをやることになったんです。


ーー二人を中心に、バンドが始まったのですね。


冨塚:僕がMTRで作った音源を白澤に聴かせて、「こんなことやっててさ。俺、マジで才能あると思うから一緒にやろうぜ」みたいな感じで始まったんです(笑)。その頃からオリジナル志向ではあったんですが、ライブハウスではコピーバンドの方がウケもいいだろうと思い、LUNKHEADやくるりをコピーしていました。


ーー後にメンバーとなったのが鍔本(隼)さんと飯村(昇平)さんですが、二人はどんなきっかけで音楽を始めたのですか?


鍔本隼(以下、鍔本):僕は斉藤和義やスピッツ、YUIあたりをお父さんが聴いていて、子供の頃から音楽は好きだったんですよね。で、高校に入って冨塚と出会って意気投合して、そこから本格的に聴くようになりました。ギターを始めたのもその頃からですね。


飯村昇平(以下、飯村):僕は、高校で軽音楽部に入ったのが楽器を始めるきっかけでした。ドラマーは、特になりたいというよりは成り行きに任せて……という感じだったんです。大学もそのまま軽音サークルに入って、白澤と出会ってこのバンドに入ったんですが、今思うと兄貴も父親も楽器をやっているし、血の繋がりってあるんだなと思いますね(笑)。


ーーバンド結成時にサウンドのコンセプトなどはありましたか?


冨塚:最初の頃は、BUMP OF CHICKENとLUNKHEADがお手本でした。鍔本にもそれでレスポールを買うように頼んだんですよ(笑)。でも、あるきっかけがあって「『紅白』に出たい」と思うようになったんです。それで「『紅白』に出たバンドといえば、Mr.Childrenやスピッツだな、家でもずっとお母さんが流していたし」ってなって(笑)。そこからそういう要素も取り入れてみようと思いました。青春時代に聴いていたロックと、それよりもっと前の幼少期に聴いていたポップスを混ぜて、その中間のような音楽にしたいなと。


ーー『NHK紅白歌合戦』に出たいと思った「あるきっかけ」というのは?


冨塚:曾おばあちゃんの家が、天津小湊という千葉の限界集落にあって。ケータイなんて誰も持っていないような田舎なんですよ。それこそ普通にイノシシが歩いているような場所なんですけど(笑)、それでも『紅白』は観ているんですよね。だったら、そこにも届くような音楽をやりたいなと。


■「(曲作りは)小説などを書くのに近い」
ーーBOYS END SWING GIRLの楽曲からは、今挙げてくれたような邦楽だけでなく、Oasisあたりの洋楽の影響も強く感じます。


冨塚:おお、嬉しいです。


飯村:大学時代、一番コピーしたのがOasisなんですよ。ただ、今はUKよりもUSの方が好きですね。たとえばデイヴ・グロールやテイラー・ホーキンスのような、カラッとしてて男らしいドラミングにハマってます。


冨塚:結構、洋楽の中でも好きなものはメンバーで違っていて。


白澤:僕は、最初はThe BeatlesやThe Rolling Stonesが好きで、その後どんどん変わっていきました。今はゴスペルなんかも聴いています。


鍔本:僕はこの間、ジョン・メイヤーのライブに行きました。あとはチャック・ベリーとか、古いブルースを聴いてます。


冨塚:ほんと、鍔本の車に乗るといつも違う音楽が流れてるんですよ。いろんな音楽を見つける才能が、彼にはあるなと思っています。最初は僕が彼に音楽を色々進めていたんですが、気がつけば今は僕が教えてもらっているんですよね。


ーー順風満帆に活動をしていたのかと思いきや、実はデビュー前に一度、活動休止をしているんですよね。話によると、MVの監督にお金を持ち逃げされたとか……。


冨塚:そうなんですよ。しかも2回もそういう目にあっていて。1度目はお金の持ち逃げ、2度目は撮影当日に連絡がつかなくなってしまうという……(苦笑)。今は本当にお金が必要だったなら、仕方ないかなとも思ってますけどね。本当に仲が良かったし、今でもその人が作る映像が一番いいと思っているので。怒りとかは全くなくて、今はとにかく元気でやっていてほしいなと思うばかりです。


ーーそう思い至るのはすごいことだなと思います。


冨塚:もちろん、バンドとしてはキツかったですけどね(笑)。撮っていたMVは自分たちにとって勝負曲だったし、撮影も終わって告知もして、いざ公開というタイミングで消えてしまったので。ファンには「MV出します」と公表していたのに、結局発表できませんでした。


 そういう、あと一歩という時にくじかれる経験って、今までも結構あったんですよね。いいところまではいくのに、最後の詰めが甘いというか。コンテストに参加しても、優勝できずに2位止まりとか……。そんな時に僕の声が出なくなってしまい、活動休止することにしたんです。


ーーそうだったんですね。


冨塚:メンバーとの話し合いの結果、活動再開を決めた時は、もう誰かの力を借りるのではなく、自分たちでやろうと思い、レーベル<NazcaRecords>を立ち上げて、そこから全国流通のミニアルバム『KEEP ON ROLLING』を出しました。それがきっかけとなり、今の事務所と出会うことが出来て、ようやく一区切りついた感じです。


ーーその頃みなさんは、ちょうど大学を卒業する年だったんですよね。進路のことなど不安はなかったのですか?


冨塚:ありました。周りが就職活動を始めて、進路がどんどん決まっていくのを見ていて、焦りましたね。とにかく辛い時期でした。それでもう「限界かな」と思いつつ、絞り出すようにして出来たのが「フォーエバーヤング」という曲だったんです。この曲に自分たちは救われたというか、この曲を作ったおかげでここまでやってこられたのかなと。


ーーその「フォーエバーヤング」には、〈君を泣かせた後で気付くんだ 愛されてた喜びに〉というフレーズがありますが、ここには辛い時期も支えてくれたファンへのメッセージが込められているようにも感じました。


冨塚:活動休止前、自分の声が出なくなって、ライブも中止せざるを得なくなってしまった時は、「歌の歌えない自分なんて無価値だ」と思っていました。でも、たとえ声が出たとしても、聞いてくれる人がいなかったら無価値だということに、気づいたんですよね。


 活動休止前はまだ、お客さんが観に来てくれることに対して、「俺たちはすごいんだから当然だ」という気持ちが少なからずどこかにあって。そこから活動休止して何も出来なくなり、「自分はどこにも存在していないんじゃないか?」という不安や孤独を感じていました。でも、復活した時に、僕らを待っててくれた人たちを見て、やっと気づいたんです。「ああ、自分は聞いてくれる人の中にいるんだな」と。その気持ちがきっと「フォーエバーヤング」には入っていると思います。


ーーなるほど。


冨塚:おっしゃっていただいたような「ファンへのメッセージ」については、自分一人で作った時には、そこまで考えていなかったのですが、バンドで合わせて、お客さんの前で演奏することによって、みんなの曲に育って行ったという感覚があります。先日、この曲の新しいMVを公開した時、みんなが自分のことのように喜んでくれていたのは、本当に嬉しかったです。


ーーその曲のタイトルを冠したメジャーデビュー作『FOREVER YOUNG』がリリースされますが、今回はストリングスを大々的に導入したり、ピアノとバイオリンだけの曲があったりと、バンドアンサンブルにとらわれないアレンジが施されていますよね。


冨塚:最初の頃は、それこそ“4人で奏でるロックバンド”というところにこだわっていたし、4人以外の音が入っていること自体「ありえない」と思っていたんです。でも「縛られることはやめよう」と思った途端、なんでも出来るということに気づいたんですよね。今回、いくつかの曲ではjamさんという、Superflyなども手がける作詞家の先生に手伝っていただいたり、アレンジャーの方に入っていただいたりしているんですが、自分たちの可能性を、ヘンテコなプライドで縛り付けてしまうのはもったいないと改めて感じました。


飯村:アルバムの中に「MORNING SUN」という曲が入っていて、これはインディーズ時代の4枚目のミニアルバム『NEW AGE』(2018年)のリード曲だったんです。バンド史上、最も攻めた曲の一つなんですが、去年「MORNING SUN」を発表した時の、お客さんの反応を見て、吹っ切れた部分はあると思います。「何をやっても、俺らは俺らだ」と自信を持てるようになったというか。


ーー普段はどんな風に曲を作っているのですか?


冨塚:まずは、曲のテーマを決めます。「誰に何を歌いたいのか?」というのを一番大事にしたくて。大枠を決めてから、ディテールを作り込んでいく。ゴールがどこにあるのかを決めてから、それに合うコードを探したりするので、もしかしたら、小説などを書くのに近いかもしれないですね。たとえばリード曲の「Goodbye My Love」には、〈映画の半券〉というフレーズが出てきます。映画の半券が、衣替えしたコートのポケットから出てきて、「ここにまだ君はいたのか」と思うのですが、これは実際に半券を発見したところから物語を膨らませました。そうやて出来たデモをスタジオでメンバーに聴かせて、アレンジを一緒に詰めていくという流れです。


■「ナニモノ」は「1曲の中で“人の一生”を表した」
ーーなるほど。「縋 -sugare-」は、都会の無関心と、ネット社会の残酷さの中で身動きが取れなくなっている人のことを歌っているように感じました。特に〈最初から羽根のなかった僕〉というフレーズは意味深ですよね?


冨塚:この曲は、聴いてくれた人の想像に任せたいなと思っています。あまり僕自身が語りすぎないようにしたくて。僕の好きなアーティストって、あまり自分の楽曲の解説はしないんですよ。ミスチルの桜井(和寿)さんも、バンプの藤くん(藤原基央)も。でも僕は、自分の曲解説がすごく好きで(笑)、ついつい語ってしまうんですけど、この曲だけは、みんなに委ねたいなと。みんながどう捉えてくれるのかが楽しみです。


ーー「Boo!! Let it go!!」はライブで盛り上がりそうですよね。


冨塚:この曲はガンガン解説したい!(笑)。レッテルを貼ってくる人たちへの怒りの曲です。世間のイメージというのは、それぞれの人たちが「当てはめたいもの」を勝手に当てはめているというか。その人がどうかはあまり関係ないんですよ。それって「クソ食らえだな」と思って書きました(笑)。というのも僕自身、爽やかなイメージを持たれることが多くて。それ自体は嬉しいことでもあるんですけど「それだけじゃないよ」っていうのを、ここで一発言っておきたいなと思って、ジャブをかましました。


ーー(笑)。「Wonder Light」はアルバムの中でも特にキラーチューンですよね。


冨塚:嬉しいです。僕は洋楽の中で、好きなバンドを2つ挙げるとしたら、The BeatlesとOne Directionなんですよ。どちらも世界的に人気のあるグループで、「Wonder Light」は、One Directionみたいにしようと思って作り始めました。確か(鍔本)隼が「One Directionみたいな曲が欲しい」って言ったような気がします。実際に出来上がった時は、すごくロックな感じになってしまい、もう少し“One Direction感”を出したくて、キックをエレクトロな感じにしました。


ーーメロディも、冨塚さんの声のレンジの広さを活かしていますよね。


冨塚:そう言ってもらえて嬉しいです。実際、作っていて楽しかったですね。


ーーこの曲をはじめ、裏メロのように動き回る白澤さんのベースラインも印象的です。


白澤:歌メロとユニゾンしたり、同じリズムを刻んだりするのが好きなんですよね。歌が高い音程を歌っている時や、特徴的なリズムで歌っているときは、ベースって低音でシンプルに支えるのが定石とされてますが、そこであえて一緒のリズムやメロディを弾くことで、いい意味での違和感につながればいいなと思っています。そういうところはいつも意識しながらフレーズを考えているので、今作ではそういうアプローチが随所でできたのかなと。自分的にはとても満足がいっています。


ーーピアノとバイオリンだけで演奏された「クライベイビー」は、冨塚さんの歌い方にソウルやR&Bの影響を感じました。


冨塚:その辺は意識しました。ちょうど、『ボヘミアン・ラプソディ』を観て、QUEENにハマっていた時期だったんですよ(笑)。そのちょっと前に、母親からQUEENのレコードをプレゼントされて聴いてはいたんですが、実際に映画を観て、「本当にすげえな、この人たちは!」と感動しました。人生がそのまま音楽に反映されているのってカッコいいなと。自分もそうありたいと思いながら作りました。


ーー「ナニモノ」は、他人と比べてしまう自分の葛藤を歌っていますよね?


冨塚:この曲は、2年くらい前にできた曲で。ちょうど、僕らの年代が社会人2年目の頃だったんですよね。みんな、新卒1年目の頃はよく集まって愚痴を言い合うなどしてたんですが、2年目になると落ち着いて、頻繁に会わなくなってきて……。みんなはそれぞれ頑張っているのに、自分はこのまま音楽を続けていけるのかどうかがすごく不安だったし、「ナニモノでもない自分」をとても辛く感じていて。そのことを曲にしてみました。


 ちなみにアレンジは、すべて白澤がやっています。初めての試みだったんですが、楽曲の浮遊している感じというか、どこにも行けない雰囲気が表現されていて、すごいなと思いました。


白澤:自分の好きな、ヒップホップやチルビートの影響を取り入れてみました。ただ、ずっと同じリズムパターンをループさせているだけだと単調になってしまうし、全体を通してドラマチックな展開にもしたかったんですよ。具体的に言うと、1曲の中で「人の一生」を表してみました。最初に赤ちゃんとお母さんの声をサンプリングして、後半は心電図の音が入ってきて、最後はその「ピー」という音で終わるっていう。


ーーああ、なるほど。そういうことだったんですね。


冨塚:僕も今、初めて聞きました(笑)。それを知るとさらにスゲエな……。


ーー「Alright!!~令和若者讃歌~」は、そんなみなさんの同世代で、社会人となって頑張っている人たちに向けた応援歌ですよね。


冨塚:そうなんです。「ナニモノ」を書いた時には、今言ったように友人たちに対して“引け目”を感じていたんですが、よく考えれば自分は彼らに助けられてここまで来たんだよな、と。ライブハウスでまだ動員もほとんどなかった頃から、会社帰りで疲れているにも関わらず、欠かさず応援に来てくれたり、僕らがデビューするきっかけとなった『ROAD TO EX 2017』に出場した時も、めちゃめちゃ応援してくれたり。彼らがいなければ、今の自分たちはいないということに気づいたんです。だから、「今度は俺が彼らのことを応援する曲を作らなきゃ」と思って。それで作ったのが「Alright!!~令和若者讃歌~」です。


ーーそれにしても、これだけバラエティに富んでいると、ライブで再現するのは大変そうですね。


冨塚:この曲たちを、どうやって届けるかは課題ですね(笑)。いつかはサポートメンバーをたくさん呼んで、クワイアもフィーチャーした大編成でのホールツアーなんかもやってみたいです。もちろん、この4人の演奏があってこそというか、お互いのプレイや楽曲をリスペクトし合っているからこそ、8年も続いているわけだし、そこは常に忘れず自分たちの可能性を広げていけたらいいなと思っています。(取材・文=黒田隆憲)