トップへ

蒼井優と竹内結子の姉妹が“自分の人生”を取り戻す 『長いお別れ』が描く家族と個のつながり

2019年06月10日 08:01  リアルサウンド

リアルサウンド

写真

 直木賞受賞作家・中島京子原作に、『湯を沸かすほどの熱い愛』で日本アカデミー賞で優秀作品賞ほか6部門を受賞した中野量太監督が監督・脚本を手がけた『長いお別れ』。


 認知症を患った父・東昇平(山﨑 努)と、それに向き合い受け入れ進んでいく家族の姿を追った7年間にわたる物語だ。ただこれが「闘病記」には終わらず、家族が再結集し、それぞれが抱える問題を見つめ直し自分を再確認しながら取り戻していく話とも言えるだろう。


 この作品のテーマの1つに「繋がり」が挙げられるように思う。


 まず長女の麻里(竹内結子)は夫の海外赴任先に同行したいわゆる「駐在妻」。家族から「悠々海外でいいよね」なんて言われながらも、実際は言語の壁もあって慣れない生活、そこでの孤独に耐えながら必死に適応しようと奮闘している。


 しかしそんな麻里の苦労を知ってか知らずか、冷静沈着な夫は彼女とろくに話し合う時間を持とうとせず、「家族と言えどもそれぞれが自己責任のもと人生を進めていくもの」だという持論を展開する。麻里とはかけ離れた家族観の持ち主のようである。


 おそらく見ず知らずの土地で、麻里が所属しているコミュニティは「家族」のみで、人との「繋がり」を感じられるのも家族のみという閉じた環境。だが、実家から召集がかかった際に「家に帰るね」と思わず口走った麻里に対して、旦那から「君の帰る家はここじゃないのか」と問われるシーンも。


 この環境下で仕方のない部分もあるのだろうが、麻里自身が「あるべき夫婦像」や「理想の家族像」に縛られすぎているようにも見受けられる。またそれを夫婦で共有はできておらず、「本気で向き合いたい」と願っているはずの麻里自身が実は家族に対して本音を全くぶつけられていないのだ。


 自分に無関心かに見える夫、学校もサボりがちな息子に対して、父親にテレビ電話で泣きながら相談する場面がある。「私、ほんとはお父さんとお母さんみたいな夫婦になりたかった」。これまで家庭内の問題を見て見ぬ振りしたり、自分だけで解決するのだと気負ってきた麻里がようやく本音をこぼした瞬間だった。


 一方、妹の芙美(蒼井優)は、最初父親の認知症に対して最も拒絶反応を示していた。自分で立ち上げたワゴン販売のカレー屋の運営も恋愛も上手くいかない33歳。中学校の校長先生まで務め上げた父親が望むような職業や生き方を選択してこなかった自分に対して負い目を感じているようでもある。これまで自分の思うように生きていて、どれも中途半端に終わってしまっており、何も成し遂げられていない中で弱っていく父親を見るのは辛かったのだろう。自分の時間軸だけで生きていた過去に対して少し責任を感じているのかもしれない。


 父親に自分の仕事について打ち明けることになった際にも「期待外れだよね、私。お父さんは教師になって欲しかったんだもんね」と申し訳なさそうに切り出す。そこで、父親が「立派だ」と言い切ってくれたことが彼女にとって何よりの再起のきっかけになったのは明らかだ。その瞬間、おそらく彼女の中で初めて芽生えた感情が「諦めたくない」だった。


 これまで「自分の人生」としか考えてこなかった芙美の時間が、「お父さんの残された時間」と接続された時に、彼女の中でこれまでにはなかった「覚悟」が生まれたのではないだろうか。


 父親が認知症になってからわだかまりが解消されていくにつれ、芙美の自信が取り戻されていく様子も如実に描かれている。「認められている」「応援してくれる人がいる」ことの心強さ、安心感の中で本当の意味で好きなことに邁進できるようになっていく芙美は、これまでとは違って肩に力が入りすぎておらず自然体になっていく。


 また、辛い恋愛の痛手を負った後に彼女が父親に言う一言がとても印象的だった。「繋がらないって寂しいね」、さらに続けて「震災の後に“繋がりたい”とか“絆が大切”とかそういう風潮になってるんだもん」と涙を堪えながら言う。一見自由に振舞っているかに見える芙美だが、本当に欲しいものには手を伸ばせず、素直になれず核心をつかずに自分から距離を置いてしまう。


 そういう意味ではさすが姉妹だけあって、2人とも自己完結型で背負い込んでしまいがちなところは似ている。かたや勝ち組に見える姉も、かたや自分の好きなように生きているかのように傍目には映っている妹も、実際には「こうなりたかった」憧れや理想があり、ただその通りには運ばない人生を懸命に生きているのだ。


 それぞれがこれまでの厳格な父親には決して打ち明けられなかったであろう本音や弱みを認知症の父親にこぼし、ただそこに存在して受け止めてくれる姿に救われ、助けられているように感じた。


 作品を通して、認知症を決して悲観視しておらず、少しずつ記憶を失くしていくものの、その中で「取り戻していく」家族の時間があることを教えてくれる。認知症の父親を理解しようとしていたら、家族全員が知らず知らずのうちに自然とルーツを辿り、彼らにとって象徴的な「はじまりの地点」であり「立ち返るべき場所」に辿り着いているかのようだ。穏やかながら、多面的に集合体としての「家族」と個々の「構成員」のどちらもが映し出されており最後の最後まで見入ってしまう作品だ。(文=楳田 佳香)