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桑田佳祐の音楽愛とエンターテイナーとしての矜持 『ひとり紅白』は何が図抜けているのか

2019年06月07日 19:41  リアルサウンド

リアルサウンド

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 桑田佳祐による、日本の大衆音楽の歴史の集大成。数十年にわたるクロニクル、そこに描かれた情景の数々を、一人で歌いきることによって壮大なエンターテインメントにした音楽の一大絵巻。


 そういう、ものすごい映像作品がリリースされる。それが『Act Against AIDS 2018 平成三十年度! 第三回ひとり紅白歌合戦』。昨年に開催された同名のライブをパッケージした一枚だ。


 「ひとり紅白」とは、桑田佳祐が長年取り組んできたエイズ啓発活動「Act Against AIDS(AAA)」の一環として2008年、2013年、2018年と3回にわたって開催されたライブイベント。タイトルの通り紅白歌合戦を模した構成で、「白組」と「赤組」の双方全てを桑田佳祐一人が担当。戦後の和製ポップス、歌謡曲、グループサウンズ、ニューミュージック、そしてJ-POPへと連なる数十曲を一人で歌うというステージだ。


 映像作品はその最終回となった昨年開催のライブを収録したものなのだが、その初回限定盤がさらにすごい。こちらは「~ひとり紅白歌合戦三部作 コンプリートBOX – 大衆音楽クロニクル~」と副題がつき、全3回分の「ひとり紅白」を完全パッケージしたコンプリート版。合計171曲が収録される大ボリュームだ。さらには桑田佳祐のインタビューや全楽曲年表も含むコンプリートブック「ひとり紅白歌合戦読本」も収録される。


 平成という時代、特に90年代のCDバブルの狂騒が終わった00年代以降は、日本のポップスの名曲を歌い継いでいく文化が広まった時代でもある。たとえば櫻井和寿と小林武史らによるBank Bandや、小田和正による『クリスマスの約束』などの企画、そして当初は「カバーブーム」とも称された数々のカバーアルバムのリリースは、ポップソングが単なる流行として消費され懐メロとして特定の世代の記憶に結びついていくのでなく、それぞれの曲が時代を超えて歌い継がれる「スタンダードソング」として定着していく風潮を作り出していった。


 「ひとり紅白」もそういう時代の流れの中での作品に位置づけられるとは思うのだが、そうした参照軸をもとに考えても、この「ひとり紅白」はとにかく図抜けている。ここまで徹底的にやり尽くしたものはないし、桑田佳祐という人の音楽愛と時代を捉える洞察力、さらにはエンターテイナーとしての矜持をひしひしと感じるものになっているのだ。


 そこで、ここからは、いくつかのポイントをあげながら、「ひとり紅白」の何がすごいのかを解説していきたい。


 まず1つ目のポイントは、そもそもの「大衆音楽」というテーマ設定だ。ここで「歌謡曲」とか「J-POP」という言葉を使うと昭和や平成といった時代性に縛られてしまうけれど、「大衆音楽」というキーワードならば戦前から現在に至る流行歌の変遷を一つのテーマで括ることができ、それを一貫したステージにすることができる。


 だからこそ、選曲の時代の幅はとても広い。全3回の171曲のうちで最も古いのは藤山一郎「東京ラプソディー」。まだ戦前、1936年のナンバーだ。他にも岡晴夫「憧れのハワイ航路」(1949年)、高峰秀子「銀座カンカン娘」(1949年)など、戦後まもない頃の流行歌や和製ポップスが歌われる。


 また、選曲の中核となっているのが60年代から70年代の昭和の歌謡曲の数々。美空ひばり、ちあきなおみ、山口百恵、沢田研二、久保田早紀などなど数々の歌手の名曲が次々と歌われる。ここで特筆すべきは、たとえ年代は同じでも「グループサウンズ」と「フォーク~ニューミュージック」をきっちりわけてコーナーにしているということ。ここからは、桑田佳祐が「歌謡曲」と「フォーク~ニューミュージック」を別の系統の大衆音楽として捉えている、ということが読み取れる。


 「歌謡曲」の定義は人によって様々ではあるのだが、多くの人が指摘するその特徴は「レコード会社を主体にした作曲家、作詞家、編曲家、歌手の分業制によって生まれる流行歌」という点にある。バンドスタイルのはしりになったGS、自作自演のシンガーソングライターたちが主体になったフォーク~ニューミュージックとはその点が異なる。おそらく、桑田佳祐自身が歌謡曲という文化に対して強い敬意があるからこそ、こうした構成になっているのだろう。


 さらには、スピッツ「ロビンソン」(1995年)やSMAP「世界に一つだけの花」(2003年)、一青窈「ハナミズキ」(2004年)、いきものがかり「ありがとう」(2010年)といった平成に入ってからのJ-POPの名曲たちも歌われる。


 これらを全て、同じバンドによる演奏と桑田佳祐の歌によって披露されることで、「和製ポップス」も「歌謡曲」も「ニューミュージック」も「J-POP」も、すべからく「日本の大衆音楽」であるという説得力を持って伝わってくる。


 そして2つ目は、桑田佳祐の歌手としての圧倒的な底力だ。


 普段、サザンオールスターズでもソロでも、基本的に桑田佳祐が歌うのは自作の曲がほとんどだ。なので基本的に彼の歌声は「桑田節」としてのメロディや言葉と紐付いている。しかし「ひとり紅白」では、ほぼ全てが他人の曲。つまりはシンプルに歌手としての力量が表に出る機会なわけなのだが、そこで痛感するのは彼の歌の卓越した表現力。歌いまわしを原曲に寄せたり、あえて変えたり、女性のために書かれた曲を男性として歌ったり、そういう「歌手・桑田佳祐」としての真骨頂が見られるステージにもなっている。


 加えて、幕間のおふざけ的な人形司会者のアテレコのやり取りや、サザンオールスターズのメンバーが勢揃いで歌うドリフターズや、大トリで和田アキ子の楽曲を歌唱するお祭り騒ぎ的な展開や、いちいち挟み込んでくるユーモラスな展開も興味深い。正直、かなりストイックなことをやっているのだから、そういう見せ方に徹しても誰も文句は言わないはずなのに、おどけた演出をちょいちょい挟んでくる。そういうマインドも「桑田佳祐らしさ」なのかもしれない。


 そして3つ目のポイントは、桑田佳祐の鋭い音楽的感性と時代への目配せだ。


 筆者としては、「ひとり紅白」の最大の見どころは、第3回の本編ラストに披露されたカミラ・カベロ「Havana feat. Young Thug」(2017年)の歌唱だと思っている。この曲は2019年のグラミー賞のオープニングでリッキー・マーティン、J.バルヴィンをゲストにパフォーマンスされた楽曲で、つまりは今のラテンミュージックの世界的な盛り上がりを象徴するようなナンバーだ。その〈Havana Havana~〉というサビのフレーズを〈駄目なバナナ~〉として替え歌にして歌う。


 しかもそれを歌うのは「ポルノ俳優からバナナ農園勤務へと転身した男=神良壁郎(かみら・かべろう)」という設定だ。つまり“バナナ”を下ネタのモチーフにしつつセーフセックスを呼びかけ「Act Against AIDS」のテーマを回収するという仕立てである。


 これには本当に脱帽した。


 以前にも当サイトで「ヨシ子さん」とリアーナやドレイクなどダンスホールポップの同時代性を指摘したことがあるのだが、(参考)それと同じく、グローバルな音楽シーンの同時代性に対しての極めて鋭いアンテナを感じる選曲である。


 たとえば第2回の「ひとり紅白」では、レディ・ガガ「Born This Way」を“ジジイ・ガガ”になりきって三波春夫の「東京五輪音頭」とマッシュアップしているのだけれど、そこにも同じく、音楽的に鋭い感性を感じる。


 加えて、こうした選曲に筆者が感じたのは、歌謡曲を単なる懐メロにしないという桑田佳祐の思いだった。


 そもそも、戦前の和製ポップスから歌謡曲に至る日本の大衆音楽の歴史は、その時点での最先端だった様々な洋楽の影響を翻案することで生まれている。歌謡曲というのは一つのジャンルではなく、その向こう側にスウィングジャズやビッグバンドジャズがあったり、サンバやマンボのようなラテンミュージックがあったり、ハワイアンやソウルやディスコがあったりする。


 そう考えるならば、桑田佳祐がカミラ・カベロをカバーするというのは、すなわち「最新型のラテン歌謡」なわけである。


 そして、最後に。いろいろ分析して書いてきたけれど、何よりすごいのは、そういう歴史を踏まえた3時間以上にわたるステージを、観客がただただ何にも考えなくてもシンプルに楽しめるエンターテインメントに仕上げてしまう桑田佳祐のエンターテイナーとしてのパフォーマンスだ。


 つくづく、金字塔的な試みだと思う。(文=柴那典)