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『貞子』は楽しく怖がることができるジャンル映画に “ポップ化”以降の貞子の存在を検証

2019年05月31日 12:01  リアルサウンド

リアルサウンド

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 鈴木光司の小説を原作に、次々と人間が殺されていく呪いのおそろしさを巧みな演出で描き、話題を呼んだ映画『リング』(1998年)、そして『リング2』(1999年)。「Jホラー」ブームの火付け役であり代表作ともなった、この2作によって、ハリウッドでもリメイク作が作られるなど、世界でその恐怖演出は高く評価され続けている。その公開から約20年あまりを経て、オリジナルの監督・中田秀夫が、再び日本の『リング』シリーズの監督として帰還した。


参考:池田エライザ×清水尋也が明かす、映画『貞子』を通して気づいたこと 「なるべく嘘がないように」


 そのタイトルは、「呪いのビデオ」を見た者を7日目に死に至らしめるという、長い黒髪がトレードマークの強烈なキャラクターの名前をそのまま使用した、『貞子』。ここでは、久々のオリジナル監督による恐怖表現をひもときながら、貞子という存在についてや、映画としての出来がどうだったのかを評価していきたい。


 原題が『First Blood』である、シルヴェスター・スタローンの代表作 『ランボー』が、シリーズ4作目にして、ついに『Rambo』というタイトルになったように、続編で登場人物の名前がそのままタイトルになる『ジェイソン・ボーン』シリーズや『リディック』シリーズなどと同様、キャラクターの名前がタイトルとなる『貞子』もまた、シリーズのなかで絶対的な存在感を発揮してきたからこそ、掲げることができるタイトルといえるかもしれない。


 中田監督がシリーズを離れている間、日本の『リング』シリーズは他の監督によって4作作られてきた。人を呪う存在となるまでの秘話を描く『リング0 バースデイ』(2000年)、貞子の呪いが動画サイトにまで進出する『貞子3D』(2012年)、『貞子3D2』(2013年代)、そして「Jホラー」における、もう一つの代表キャラクターと貞子が死闘を繰り広げる『貞子vs伽椰子』(2016年)……。


 本作『貞子』については、公開前から一つの懸念があった。それは、20年の間に貞子というキャラクターが、映画の内外において、すっかりマスコット化し、あまりおそろしい存在ではなくなってしまったということだ。これは『貞子3D』から顕著になってきた動きである。


 フィギュアやTシャツ、キーホルダーが発売され、サンリオとコラボしてキティちゃんのようにリボンをつけてみたりなどは、まだ序の口。映画のプロモーションでは、プロ野球の始球式に登場したり、ミュージックビデオでギターを演奏したり、ハンバーガーのチェーン店で1日店長を務めるなど、その存在のポップ化は多岐にわたる。さらにパチンコの機種にまでなった『CRリング』シリーズでは、フィーバーすると貞子に脅かされるという、意味の分からない演出がある。


 本作は、たしかにポップ化以降の貞子を持て余している部分が見られる。ここではTVから這い出してくる怪物としてのイメージが強調され、初期に見られていたような“人間としての貞子”の側面は最低限に絞られているように見える。


 『リング』、『リング2』にも出演した佐藤仁美が演じる、貞子の恐怖に怯え20年間も病院の世話になっている女性・雅美に襲いかかる貞子。その、誰もが知るお約束の攻撃プロセスを見せるシーンは、ベテランのバンドが、ライブで往年のヒット曲をとりあえず演奏しておくサービスにも見える。これこそ存在の抽象化でありポップ化であるだろう。


 ホラー的には、見開いたときの大きな白目が見事な池田エライザが演じる主人公・茉優は、雅美の心理カウンセラーとして登場する。彼女が、貞子の呪いを受けた弟を探しに、貞子の故郷までやってくると、土地の老女は、「この洞窟には近づくな、“貞子の好物”がある」というようなことを言い放つ。“貞子の好物”……? ここにおいて、貞子はもはや徘徊する熊のような扱いになってしまっている。


 初期の貞子には「好物」のような表現が使われることがなかったことを考えれば、やはり彼女の存在は、以前とは変質してしまっている。おそらく、“貞子”はパブリックイメージのなかで次第に人間性が剥奪され、より純化された化け物へと接近している。そしてそれは、監督が貞子をどう表現したいかという意志すら超えて、ほとんど固定化してしまっているようにも思える。


 『ルパン三世』の原作者であるモンキー・パンチは、アニメーション作品において初めてシリーズの演出を務めたとき、ルパンが敵を後ろから刺すシーンを描こうとすると、「ルパンはそんなキャラクターではない」と、スタジオから却下されたのだという。ルパンと同様、映画における貞子もまた、一種の形骸化された概念としての存在になりつつあるのだ。


 だが、貞子の内面を平板化させたことで、本作ならではの面白さが発生しているところもある。それは、とくに込み入った説明もなく、明快なジャンル映画としてのホラー表現ができるという部分だ。筆者は公開初日に本作を鑑賞したが、20代までの若いグループの観客を中心に、劇場は盛り上がっていた。


 『リング』や『リング2』には、ブームを巻き起こす圧倒的な映像表現としての新しさがあった。『リング』におけるTVから長い髪の女が抜け出してくるショッキングなシーンはもちろん、呪いのビデオに依然として残る不可解な描写や、『リング2』で、そのビデオの世界に入ることで、逆に見つめ返されるという不気味さ、病院のなかでの異様なカメラワークなど、難解に感じられる場面がいくつも存在する。しかし、理屈は分からなくとも、それが極めて繊細な感覚で表現されているがゆえに、こわさを感覚的なところで理解できる気がするのである。だからこの2作は、深いところで恐怖心が揺さぶられる。狂気の入り口に導かれるような、危険な匂いが立ち込める瞬間がある。


 それに比べると、20年後の本作は先鋭的な作品とは言い難いかもしれない。多くのシーンが論理的に説明できるからである。その意味で、実験的な刺激は少ないものの、だからこそ楽しく怖がることができるジャンル映画に変貌したといえよう。それが、『リング』よりも肩の力を抜いた『貞子』の魅力というところだろう。


 しかし、そこは中田秀夫監督、アート的な見せ場も用意されている。恐怖によって精神に異常をきたし、ガタガタとおびえ続ける人物の視点から、カーテンごしに移動する人物をとらえたシーンは、恐怖映画と観客の関係を純化したような抽象的なものとなっている。見えないから怖い、いつ襲われるか分からない。しかしそれは、“きっと来る”のだ。この構図は、いつか迎える“死”に怯える、われわれの潜在的な恐怖そのものを描いているのではないのか。恐怖映画を観に劇場に行くという行為には、心の奥で“擬似的な死を体験したい”と願っているということなのかもしれない。本作のラストシーンには、そんな哲学的な問いを呼び覚ます力があったように感じられた。(小野寺系)