『KGBスパイ式記憶術』(著:デニス・プーキン、カミール・グーリーイェブ/訳:岡本麻左子/水王社)は、単なる記憶術の解説本ではない。冒頭から、
「おめでとう。この文書を読んでいるということは、諸君はスパイスクールに入学を認められたということだ」
と、いきなり本の世界に放り込まれる。
しかも、心理学を学ぶ大学生がKGB(ソ連国家保安委員会)の諜報員にスカウトされキャリアを積んでいく日記とともに、記憶術の解説が展開される珍しい構成だ。合間では、段階に応じた脳トレ演習や記憶力テストなどがエージェントの指令さながらに繰り出され、妙な緊張感で楽しみながら記憶術を学べる。(文:篠原みつき)
記憶術の三大原則 「関連付ける、視覚的にイメージする、感情を伴わせる」
本書は、実際にKGBが行っていた訓練の一部を紹介し、ロシア・アメリカ・中国など世界13か国でベストセラーになっている。なぜこうした特殊な構成で展開しているか。それは、第一章で説かれている『記憶術の3大原則』、
1.「関連付ける」
2.「情報を視覚的にイメージする」
3.「感情を伴わせる」
を知れば自ずと分かる。以下に、詳細を要約して紹介しよう。
原則1 「関連付ける」
人間の記憶力で重要なことは、「情報を記憶できるかどうかではなく、記憶した情報を必要なときに呼び出して再現できるかどうか」にある。「クリスマス」と聞けばサンタやツリーを思い浮かべるように、脳は様々なイメージや概念を互いに結びつけるのが得意だ。
一流のスパイには、見聞きしたどんな些細な情報からでも重要な事柄を見抜き、その情報と既に知っている事とをリンクさせて解釈できる能力が不可欠だ。それは誰でも訓練すれば磨くことができる。
原則2 「情報を視覚的にイメージする」
記憶力を良くするには、想像力で視覚的にイメージすることが重要だ。抽象的な言葉や数字は覚えづらいものだが、目に見えるようにイメージすると覚えやすい。
例えば、味方と接触せずに情報を受け渡すため、手荷物ロッカーを使用するとしよう。ロッカーの番号は855411だ。どこにもメモしてはいけないし、今後数年間正確に覚えていなくてはならない。
本書では、「8」は太った女、「5」は一輪車、「4」は椅子、「1」は箒でイメージするとしている(もちろん自分が想像しやすいものでいい)。太った女(8)が一輪車(5)を2台椅子(4)にくくり付けて座り、2本の箒(1)を手にバランスを取っている。女が向かう先はロッカーのある駅だ。手触りや臭いなども想像できればより記憶が残りやすい。
ちなみに筆者は、この手法で今まで覚えていなかった自分の携帯電話の番号を覚えた。そんなに自慢できることでもないが、数字が苦手で最初から諦めていたことなので、ちょっと感動した。大切な数字の羅列が頭の中にあれば、いちいちメモを取りだす手間が省けて仕事も効率アップするだろう。
原則3 「感情を伴わせる」
記憶力は感情によって活性化される。私たちが、人生の節目となる出来事を思い出すことが出来るのは、子供の誕生や伴侶との出会いや別れに、強烈な感情を抱いたからこそだ。何の変哲もないことや興味を持たないことは記憶に残らない。
だから、記憶術の第三原則は「記憶した情報に感情を伴わせる」ということだ。前述のロッカーの暗証番号が覚えられるのは、イメージが奇抜でばかげているから。なので、バカバカしいとやる気をなくさないでほしい。奇抜であればあるほど感情が芽生え、しっかり記憶してすぐに思い出せるようになる。
一般のビジネスパーソンが、楽しみながらビジネススキルを鍛える本
本書が「スパイ式の記憶術」を紹介するにあたって、勉強に倦んで刺激を求める学生の心理を見せながら説く理由が理解できるだろう。物語によってイメージや感情が喚起され、単なる脳トレの解説よりも興味深く記憶に残りやすいのだ。しかも、エピソード中のワードが記憶力テストに突然出題されるので、注意深く読んでいくことになる。実に巧みな手法だ。
正直読む前は、一般的なビジネスパーソンに必要ない難易度の高いものという印象があったが、そうではなかった。本書の脳トレや演習問題にはさほど難しいものはなく、誰にとっても有用なビジネススキルを鍛えることにつながっている。もちろんレベルアップするほど記憶力を要求されるが、真剣に何度も取り組めば、注意力が上がり、視野が広くなり、コミュニケーションスキルや記憶力向上が期待できるだろう。まずは気負わず、楽しみながらの一読をお薦めする。