2019年05月21日 21:01 弁護士ドットコム
東京・池袋で4月中旬、高齢男性(87歳)が運転する乗用車が暴走して、母子が亡くなった事故をめぐって、インターネット上で不満・批判がくすぶっている。
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報道によると、男性は事故で、胸の骨を折る重傷を負って、逮捕されずに入院した。5月18日に退院して、警視庁目白署で任意聴取に応じたという。
この事故をめぐっては、男性が元通産省官僚で、勲章を受けた経歴などがあったことから、事故直後から退院後まで「上級国民だから逮捕されないのか」という反発があがっている。
はたして、現時点で男性は逮捕されていないが、なぜなのだろうか。秋山直人弁護士に聞いた。
この事件で被疑者(男性)が逮捕されないことに対する批判の背後にあるのは、逮捕されることが、犯した罪に対する「制裁」の意味を持つという意識ではないでしょうか。
また、そのような意識を背景に、同じような事故を起こしたのに、一方で逮捕される運転者がいて、他方で逮捕されない運転者がいるのは不公平ではないか、その不公平の理由が、元通産官僚という経歴にあるのではないか、という不満ではないでしょうか。
しかし、そもそも逮捕とそれに引き続く勾留は、犯した罪に対する制裁の意味を持つものではなく、捜査機関(警察・検察)が起訴・不起訴の判断をするのに必要な捜査をおこない、証拠を収集する上で、身柄を拘束する必要がある場合におこなわれる手段です。
ですので、捜査機関が逮捕・勾留を請求するかどうかは、被疑者に制裁を与えるべきかという観点ではなく、捜査をおこなう上で必要かつ相当か、という観点からの判断になります。
また、逮捕・勾留によって被疑者の身柄を拘束することは、被疑者に多大な不利益を与え、その人権を強く制約することになりますので、刑事訴訟法における任意捜査の原則からも、身柄拘束については慎重な運用が求められます。
つまり、身柄拘束せずに任意捜査で必要な捜査がおこなえるのであれば、そのほうが望ましいということです。
今回の事件は、多数の死傷者が出た誠に痛ましい事故であり、被疑者の刑事責任は厳正に追及される必要があると思いますが、その問題と、逮捕・勾留をして捜査する必要があるかの問題はまた別の問題です。
刑事訴訟法上、勾留については、要件として、(1)罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由(犯罪の嫌疑の存在)を前提として、(2)住所不定、(3)証拠隠滅のおそれ、(4)逃亡するおそれが必要です((2)~(4)についてはいずれかがあれば満たします)。
今回、(1)を満たすことはあきらかですが、(2)は満たさず、(3)または(4)の理由があるか、が問題となります。
報道によれば、捜査機関は、防犯カメラやドライブレコーダー等の客観的証拠をすでに入手していると思われます。目撃者の供述も確保しているでしょう。被疑者は、すでに任意の事情聴取には応じているとのことです。そうすると、(3)の証拠隠滅のおそれは低いと判断しているものと思われます。
また、(4)逃亡のおそれについても、被疑者が87歳と高齢で、身元もはっきりしていることから、現実的に逃亡するおそれは低いと判断しているものと考えられます。
このように、逮捕・勾留の必要性が低い一方で、被疑者が高齢であり、ケガもしていることから、逮捕・勾留によって身柄を拘束することが相当ではないと判断しているのでしょう。
それから、事件全体の捜査状況も影響している可能性があります。今回の事件は、被害者多数で、事故状況も複雑であり、捜査には時間がかかると推測されます。
いったん被疑者を逮捕し、引き続いて勾留すると、検察官は、逮捕から最大23日間以内に起訴するか不起訴とするかの判断を迫られますので、被疑者の身柄を拘束する必要性が低い一方で、捜査期間に厳しい制限がかかるのは避けたいという捜査機関側の判断がある可能性もあります。
以上のように、逮捕・勾留の要件の面と、必要性・相当性の面から、捜査機関は今のところ逮捕・勾留を見送っているのではないかと思います。もっとも、今後も逮捕・勾留されないという保障はありません。
なお、被疑者が逮捕されないことで世論が沸騰する背景には、逮捕された被疑者は「容疑者」と呼称される一方で、逮捕されない被疑者は肩書き付きで呼称されるといった取扱いの差異があります。
刑事訴訟法上では、逮捕されてもされなくても「被疑者」であることに変わりはなく、在宅のままで起訴されて公判で実刑判決を受ける可能性もあるわけですから、逮捕されたかどうかでこのように呼称に差異を設けるのは合理的ではありません。
この際、マスコミは、被疑者の呼称を、逮捕されても、されなくても「被疑者」に統一したらどうかと思います。
(弁護士ドットコムニュース)