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特集上映、開催中! 『仁義なき戦い』『バトル・ロワイアル』など深作欣二監督の魅力を再考する

2019年05月16日 10:01  リアルサウンド

リアルサウンド

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 70年代に日本映画の一時代を築き上げた“東映実録路線”を想起させる白石和彌監督の『孤狼の血』がちょうど一年前に公開され大きな注目を集めただけに、当時そのムーブメントを牽引した深作欣二監督の作品群を振り返るには絶好のタイミングといえるのではないだろうか。2003年1月12日、『バトル・ロワイアルⅡ 鎮魂歌』の撮影半ばでこの世を去った深作監督の全61作品の映画の中から46作品、またテレビドラマ作品から2作品をラインナップしたレトロスペクティブ「映画監督・深作欣二」が現在、東京・京橋にある国立映画アーカイブで開催中だ。


参考:動画はこちらから


 デビュー作の『風来坊探偵 赤い谷の惨劇』や代表作である『仁義なき戦い』シリーズはもちろんのこと、類稀なる傑作『狼と豚と人間』や『北陸代理戦争』に『県警対組織暴力』、さらには『蒲田行進曲』や『宇宙からのメッセージ』、カルト的人気を誇る『黒蜥蜴』といった作風の裾の広さを感じさせる作品を一挙にスクリーンで堪能できるとは、何とも贅沢なことだ(もっとも、『ジャコ万と鉄』が上映されないのは残念ではあるが)。その多くの作品を、つい数年前まで浅草の六区通りあたりの劇場で退色したフイルムの3本立てで頻繁に観ることができていたとはいえ、すっかり世の中から昔ながらの“名画座”がどんどん消えていく昨今、その再会を喜ばずにはいられようか。


 言わずもがな“バイオレンス映画の巨匠”と言われる深作監督の作品群は、現在でも多くの映画作家に多大な影響を残している。代表的なところでいえば、新作がカンヌ国際映画祭でプレミア上映されることが決まっているクエンティン・タランティーノ監督がまさにその1人で、ちょうど深作監督が亡くなった年に発表した『キル・ビルvol.1』では冒頭に追悼テロップを流すほど。いわゆるプログラムピクチャーの時代に風穴を開けるような気迫に満ちた描写力と濃厚な人間ドラマ、そして映画という手法を通して“暴力”とは何を意味するのか投げかける。そして様々なテーマ性を備えながらも、映画が活劇であるという紛うことなき事実から決して目を背けることなく、雑然と入り乱れ合う登場人物たちをキャメラを介して捕まえていく。


 一寸の揺らぎもないその映画監督としてのビジョンは、ヤクザ映画のみならずすべての作品において一貫していたといえよう。それだけに『仁義なき戦い』シリーズをはじめ現在でも多くの作品が、リアルタイムではない世代へとしっかりと語り継がれているわけだが、その一方で徐々に存在感を失いはじめている作品も少なくない。筆者の世代にとって忘れがたい、深作監督の事実上の遺作『バトル・ロワイアル』ももしかすると、そのひとつではないだろうか。あの大騒動からもう19年、当時からその上辺だけのイメージだけがすくい取られ、今なお作品が持つ本来の意味をはき違えられてしまっている、あまりに悲運な作品のように思えてならない。


 高見広春(この作家は、同作以外に著作を発表していないはずだ)の極めてセンセーショナルな長編小説を映画化した同作。中学3年生のあるクラス42人が最後の1人になるまで殺し合うというプロットに、当時多くの大人たちが拒否反応を示し、その議論は国会にまで突入。90年代後半に社会問題とされていた少年犯罪を誘発するおそれがあるなどと言われ、国会議員向けの試写会が開催されたほどだ。そして2000年の12月16日に丸の内東映(現在の丸の内TOEI)をはじめ全国東映邦画系で封切られたわけだが、映倫の規定により中学生以下の入場を不可とするR-15指定(現在のR15+)を受け、話題に乗じて劇場に足を運ぶも入場を断られる中学生の姿が夜のニュースで報じられていたことを鮮明に憶えている(また、この時を境に映画のレイティングシステムについての認知度が急激に上がったことも見逃せない現象といえよう)。


 筆者は当時小学6年生ですでに生粋の映画少年だったわけだが、レイティングシステムの存在は知っていたとはいえ、成人映画館でなければくぐり抜けてきた経験と、入れるに違いないという絶対的な自信があったので、様々な策を講じて幾度も入場することに成功した(具体的にはあらかじめ前売り券を購入し、年齢チェックが手薄になりがちな混雑時になだれ込むように入場したり、銀座まで父親を引っ張って切符を買わせたこともあった)。“観てもいい”と定義された年齢になるまでの数年間(深作監督が亡くなった後の三百人劇場や新・文芸坐での特集上映の頃もまだ達していなかったわけだが)に、何十回とこの作品を観ては、その度に「何故この作品を中学生が“観てはいけない”のだろうか」という疑問を抱いていた。


 たしかに、過度な流血や首が飛ぶシーンもあれば凄惨な殺傷シーンもあるが、それは他のハリウッド映画でも頻繁に見受けられる程度のものだ。もっぱら映倫の審査基準について考察すれば15歳未満鑑賞不可となることも今ではすんなり納得できるのだが、その当事者であった時分にはそうはいかないものだ。しかしながら、同作の公開時に出版されたメイキング本の「バトル・ロワイアル・インサイダー(BRI)」(太田出版刊)の中には深作監督と脚本・プロデューサーの深作健太が映倫の審査委員と議論した内容が記されており、それを読んである程度の合点がいった。“観てはいけない”映画など本来あるはずがないが、自主規制を敷く側のロジックも把握しておこうと子供ながらに考えたわけだ。もっとも、作り手がどのような意図を持って描写したのか、それが観客に伝わらない限り、誤解されてしまうというのは映画に限った話ではない。視覚的にも聴覚的にも、その与えられた上映時間の中でそれをいかにして観客に提示するのかというのが映画の宿命である。とはいえ同作に関しては、前もって生じられた先入観によってスクリーンに映し出されるすべてが歪められた状態で届いてしまったようにも思える。


 深作監督は同作に、自身の戦争体験を重ね合わせているのだと、当時様々なところで語っていた。前述の『BRI』に掲載されているインタビューで「戦争は終わったけれども、戦争そのものがもっていたバイオレンスな感覚というのはくすぶり続けている」と語っている。また、アクション映画はゲーム性の強いものであり、監督の十八番であるバイオレンス映画は自己の肉体に引き寄せてドラマを作り上げるものであると定義している。劇中に登場する中学生たちは皆、誰かを殺さなければ自分が殺されてしまうというシチュエーションの中で蠢き回る。誰も殺さずに生き残るためにはどうするべきかと葛藤する主人公に、生き残るために何の抵抗もなしに殺していく者や、自ら死を選ぶ者、仲間たちと脱出を試みようとする者、そして想いを寄せる相手を探し守ろうとする者。理不尽な戦争という暴力に、半ば強制的に身を置かれてしまった若者たちが、それでも生きようとする姿が現代の、極めて空想的なプロットの中で積み重ねられていくのだ。


 そこにあるのは、『仁義なき戦い』の頃やそれ以前から深作監督の映画に根付く暴力への絶対的な批判にほかならない。暴力でしか生きる術を見出せない人間が味わう哀しさや苦しさ。あらかじめ“善”と“悪”が決め打ちされることなく、その両者が1人の人間の中だけで常に表裏一体の関係性を保ちながら右往左往していく、そうした人間描写のリアルが毅然と画面に表れている。登場人物のほとんどが命を落としながらも、その中に誰1人としてゲーム感覚や作品の都合で命を落とす者は映し出されていない。けれども、表面的な部分で語られてしまうのは、やはり深作監督の映画らしく、それがどこまでも活劇というスタイルの中で描かれてしまっているからなのかもしれない。


 もう『バトル・ロワイアル』公開後に生まれた世代でも“観てもいい”年齢になっている今(しかもニュープリントで公開当時のような画面を味わえるとなればなおさらに)、もう一度この20世紀終わりの日本を騒然とさせた青春映画が現代社会に投げかけるメッセージを考える必要があるのではないだろうか。同作以外にも深作監督作品に込められたテーマは、時代を問わず、人間が存在する限り通用する普遍的なものであることは間違いない。  (文=久保田和馬)