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“たった一度の情事”が愛し合う恋人たちを破滅に至らせる 『追想』音楽が担う重要な役割

2019年05月10日 18:11  リアルサウンド

リアルサウンド

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 愛し合う恋人たちを破滅に至らせるもの。それは、打ち克つことのできなかった甘い誘惑の時もあれば、和解しがたい軋轢の時もあるだろう。あるいは、不慮の事故のような時もあるかもしれない。5月10日にDVDがリリースされる、イアン・マキューアンによる小説『初夜』(2009年、新潮社)の映画化作品『追想』(2018年)におけるそれとは、たった一度の情事である。これから蜜月の日々を過ごすことになるであろう希望と共に初夜を迎えたフローレンス(シアーシャ・ローナン)とエドワード(ビリー・ハウル)は、初めての行為をうまく致せなかったがために、わずか6時間で結婚生活を終えてしまう。本作は彼らの過ごした時間を手繰りながら、そのたった一度の情事に秘められた一部始終を描き出していく。


参考:『ふたりの女王 メアリーとエリザベス』“孤独な女の王”としての2人の生き方 現代にも通ずる物語に


 幕開けと共に流れてくるシル・オースティンの「Slow Walk」は、ここで描かれる悲愴的な物語に、あまりに似付かわしくない。静謐な空気を保ち続けるこの映画を“嵐の前の静けさ”と一言で形容することすら可能だと思えるのは、幼き恋人たちの慎ましく繊細にはぐくまれた愛が、惨事によって燃えることなく鎮火してしまうからだけではない。スウィンギング・ロンドンの到来や、性解放が大声で叫ばれていく、まさにその前夜の時代背景の中に彼らが位置し、その時代的な空気感こそが、二人の愛の佇まいを表しているからだとも言える。


 初夜を迎えたエドワードの試練は、まず脱衣から始まる。彼は、フローレンスの着ているワンピースをなかなか脱がせることができない。ベッドの上で直立に横たわる彼らの衣服は脱がされることを知らず、文化的なコードである衣服が張り付く彼らの身体は、理性のもとにひどく萎縮している。おそらく、ジャック・ドワイヨンの『ラブバトル』(2013年)などは、本作の対極にある作品だろう。一糸纏わぬ姿でまるで取っ組み合いをするように泥臭く性を貪る男と女の姿を捉える同作は、本能そのままの動物的な性を賞賛するものだった。


「可聴域からは外れずに、意味がわかりそうでわからない境界線上を駆けあがっていくバイオリン=声。言葉より原始的な歯擦音と母音で、それがしきりになにか言おうとしているようだった」――イアン・マキューアン『初夜』


 三島由紀夫の小説『音楽』では、不感症に悩む女が「感じられないこと」を「音楽が聞こえない」と換言する。つまり、ここでは性的快楽が音楽へと喩えられている。性という主題と音楽とが分かち難く結びついたこの小説のように、本作でもまた、音楽が重要な役割を担い、大部分で音楽が流れ続ける。保守的な家庭で育ち、バイオリニストであるフローレンスはクラシックを嗜み、歴史学者を目指す、自由な精神の持ち主であるエドワードはロックを好む。音楽の違いは、つまり属する文化の違いでもある。白人と黒人の心の交流を描いた映画『最強のふたり』(2011年)もそうであったように、映画において音楽は時に、異なる境遇に置かれた二人の違いを端的に示すモチーフとして機能する。本作の場合、音楽の趣向が異なることは、つまり性的不和の比喩でもある。


 フローレンスを演じたシアーシャ・ローナンは、過去にもイアン・マキューアン原作映画に出演している。それが『つぐない』(2007年)である。同作を監督したジョー・ライトは、そのオーディオコメンタリーの中で、ローナンが幼少期を演じた人物の老年期の顔をクロースアップで映し出したショットに、「人間の顔は美しい。老人の顔は美しい」と発言している。本作では、フローレンスの老年期をそのままローナン自身が演じているが、時が刻まれた、美しい老いた顔が彼女の奏でる音楽と共に映し出される。ちょうど、かつてのブリティッシュ・ニュー・ウェイヴの映画たちがそうであったように、本作は原作者が脚本も担当しているが、マキューアンは映画化に際して、小説のその後を描くことを決めた。それが老年期のパートである。エドワードは彼女が舞台で奏でる音楽を聴き、涙を流す。くだんの小説『音楽』の結末では、不感症の女が性的問題を解決できたことを、「音楽が起こる」と表現される。音楽を通して心を通わせた彼らは、初夜で成し遂げられなかった行為を、音楽を通してようやく成し遂げたようである。


 道端でたやすく喧嘩に走ってしまうような粗野な彼のことを、彼女は確かに愛していた。彼もまた、いつも眉間にしわを寄せ、難しいことを考えている真面目な彼女のことを、確かに愛していた。ただ、掛け違えてしまったボタンを是正するには、彼らはあまりに幼く、愚かだったのだ。特に彼にとっては、脳損傷を患った母親を見てきたがために、女性は不可解な存在であり、受難の対象でもあったのかもしれない。


 初夜を終え、広大な海に両脇を挟まれたチェジルビーチの細長い浜の上、二人は断絶を迎える。このシーンのラストショットで彼女はフレームの外へと撤退し、彼はその場に立ちすくみ続ける。青のワンピースを装う彼女の姿は、彼には底の知れない海のように見えただろうか。(児玉美月)