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ビヨンセが本年度『コーチェラ』に与えた影響は? Netflix映画『HOMECOMING』から考える

2019年05月05日 14:21  リアルサウンド

リアルサウンド

 「コーチェラそのものよりも偉大だった」というニューヨーク・タイムズの評をはじめ(参照:https://www.nytimes.com/2018/04/15/arts/music/beyonce-coachella-review.html?smid=tw-nytimesarts&smtyp=cur)、多くのメディアで「歴史的」と大絶賛を浴びた昨年の『コーチェラ・フェスティバル』(以下、コーチェラ)でのビヨンセのライブ、通称「ビーチェラ」。そのライブパフォーマンスに加え、舞台裏の映像を多数収録したドキュメンタリー映画『HOMECOMING ビヨンセ・ライブ作品』がNetflixで公開された。


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 ブラックカルチャーの歴史と結び付き、ポップスターの創作活動の限界まで打ち破ったビーチェラの全てを伝えるこの映画を、今年のコーチェラへの影響と共に考察する。


・歴史の積み重ねに接するということ


 既に各所で解説されている通り、ビーチェラ当日のセットリストには、偉大な黒人の先達や、サウスのヒップホップを中心としたブラックミュージックの様々なスタイルへのトリビュートが織り交ぜられ、22年に渡るビヨンセのディスコグラフィがブラックカルチャーの歴史に繋げられている。マルコム・X、ニーナ・シモン、フェラ・クティから、ブラックナショナルアンセムとして知られる賛美歌「Lift Every Voice and Sing」までそのリストを見渡すだけでも私たちは歴史を学べるだろう。今回公開された映画ではさらに、W・E・B・デュボイス、アリス・ウォーカーなど多数の活動家の言葉が散りばめられることで、「ブラックカルチャーの中でのビーチェラ」という位置付けが強調されている。


 なぜビーチェラはこれほどまでにブラックカルチャーや女性を賛美する内容になったのか。一つには初の黒人女性のヘッドライナーとしての使命感があっただろう。ビヨンセは作中のインタビューでこう語っている。


「代弁者がいなかった人たちが、舞台にいるように感じることが大事なの」「黒人女性は過小評価されている。ショーだけじゃなく、過程や苦難に誇りを持ってほしい。つらい歴史に伴う美に感謝し、痛みを喜んでほしい。不完全と正当な間違いを喜んでほしい」


 一方で、この映画はビヨンセをモチベートした私的なストーリーも伝えてくれる。ビーチェラには、マーチングバンドからバトンガール、衣装における大学の社交クラブまで、歴史的黒人大学(Historically Black Colleges and Universities、以下HBCU)のカルチャーが象徴的に持ち込まれた。作中でビヨンセは、父がHBCUの一つであるナッシュヴィルのフィスク大学に通っていたこと、彼女自身テキサス州のサザン大学で何年も練習しスポーツイベントでのマーチングバンドに憧れを持っていたことから、「HBCUに行くことをずっと夢見ていた」と明かしている。


 この映画は、単にビーチェラとブラックカルチャーとの結び付きを伝えるだけでなく、アートに接することは歴史に接することであり、自分たちもその積み重ねの中にいるのだということを教えてくれるのだ。


 今年の『コーチェラ』で、ビーチェラのそんな側面を受け継いでいたアーティストを挙げるなら間違いなくジャネール・モネイだろう。私たちの中にある不完全さを祝福するというテーマの昨年のアルバム『Dirty Computer』の楽曲を軸にし、たくさんのバックダンサーを従え、ソウル、ファンク、ヒップホップまで網羅したジャネールのパフォーマンスも、先駆者たちが築いた歴史への尊敬が込められたものだった。


・ビーチェラを総監督したビヨンセ


 この映画を通して最大の驚きは、ビヨンセ本人がビーチェラの全てを監督していたことだ。舞台裏を映した映像では、ビヨンセがダンサー、バンド、カメラマンなどに直接指導する場面が何度も挿入される。それは「建物が揺れる音や足踏みの音や、皆の掛け声まで録音しないといけない」という技術的な点から、『コーチェラ』へ出るにあたって持つべき意気込みをダンサーたちに直伝する場面まで幅広く、「これ以上作っても無駄よ」と厳しい言葉を出す時さえあるほどだ。


 また、「手間を尊敬する」ビヨンセはダンサー、ライト、階段の材料、ピラミッドの高さや形、(衣装の)素材など全てを自ら選んだことを明かし、「細部全てに意図があるの」とも説明している。色、シルエット、視覚効果が何を意味しもたらすのか、個々のダンサーの個性はどう生かせるか、詳細全てが、ビヨンセ本人が関わって、研究されていたのだ。


 つまり、共演者たちを鼓舞することから、ステージ細部への拘りまで、この映画はビヨンセ自身が2時間のパフォーマンス全てのクリエイティブコントロールを握っていたことを伝える。そんなことがわかると、よりビーチェラを通してビヨンセが表現したかったことがダイレクトに伝わるし、観客である私たちさえステージに立っている演者たちと同じようにその興奮を感じられる。


 「舞台の総監督となるビヨンセ」を今年の『コーチェラ』で受け継いでいたのは、ヘッドライナーの一人、チャイルディッシュ・ガンビーノだ。「これはコンサートではなくて俺の教会だ」と宣言し、ゴスペル色の濃いファンクミュージックと共にスピリチュアルな空間を演出。照明やスクリーンに映る映像のカメラワークは、私たちがライブパフォーマンスではなく、既に高度に編集された映画そのものを見ている気分にさせた。シンガー、ラッパーであり、俳優、コメディアン、脚本家でもある彼の拘りを尽くしたパフォーマンスは、まさにビーチェラと同じく「体験」と呼ぶべきものだった。


 映画の中でダンサーの一人は「HBCUでのホームカミングはスーパーボウル。それはコーチェラだ。長い間会ってない人たちが帰ってくる。伝統があり、前年より良いホームカミングかみんなが注目している。全要素が集まる」と語っている。ビーチェラを超えられるか? 長い歴史の中で自分は何が出来るか? この映画は、ビヨンセが『コーチェラ・フェスティバル』を、いままでよりもずっと特別な舞台に変えてしまったことを伝えている。(山本大地)