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【ネタバレあり】『アベンジャーズ/エンドゲーム』が描いた正義のあり方を考察

2019年05月05日 12:01  リアルサウンド

リアルサウンド

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 足かけ約11年、21作品の歴史を築いてきた、マーベル・スタジオのヒーロー映画。1年に2本ほどのペースで、ここまでの予算規模の大作がコンスタントに作り続けられ、しかもそれらが興行的な成功を収めている映画シリーズは、いままでに例がなく、映画史のなかでも偉業として語られていくことになるだろう。その一つの区切りとなる、ヒーロー集結作品のシリーズ最終作『アベンジャーズ/エンドゲーム』が、ついに公開された。


参考:『アベンジャーズ/エンドゲーム』は胸を張れる超大作に “ヒーローも人”というMCUのスタンス


 ヒーローたちの物語に決着がつく今回の作品は、非常に多くの語るべき面を持っているので、それらを一つひとつ扱っていくと膨大な字数になってしまう。ここでは、『アベンジャーズ/エンドゲーム』の最も際立った特徴を中心に、本作が到達した、正義とは何か、ヒーローとは何かという結論に絞り、ネタバレありで考察していきたい。


■『インフィニティ・ウォー』の衝撃


 まずは、本作につながる前作『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』における衝撃の展開について言及しなければならない。いままでシリーズ作品のなかで争奪戦を繰り広げてきた、強大な力を持つインフィニティ・ストーン。それらを全て集めた最強のスーパーヴィラン、“サノス”は、宇宙の法則すら司る強大な能力をその肉体に宿し、ヒーローを含めた全宇宙の生命を半分に消滅させてしまう。それによって、スパイダーマンも、ブラックパンサーも、スター・ロードも、それからニック・フューリーも、次々に塵と消えていく。


 そんな『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』のラストを目の当たりにした世界中のファンは大きなショックを受けた。筆者も、茫然として荷物を劇場の座席の下に置きっぱなしにしたまま帰途につくという失敗をしてしまったほどだった。だが、マーベル・スタジオの映画に疎い観客は、これの何がすごいのか、いまいちピンとこないかもしれない。「架空の物語なのだから、そりゃ、そんな展開もあり得るでしょう」と考える人もいるだろう。


 マーベル・スタジオのヒーロー映画は、興行的な成功を重ね、ガーディアンズも、ブラックパンサーも、スパイダーマンも、みんな続編が期待されているヒーローたちである。『インフィニティ・ウォー』では、それらの財産を突然、塵にしてしまったのだ。「いやいや、だとしても、どうせ“ご都合主義”で復活するんでしょう」と軽く考える人もいるだろう。だが、本作『エンドゲーム』は、11年の歴史の集大成となる作品なのだ。その一つのフィナーレを迎える作品において、そんな安易なシナリオを用意しているということは考えにくい。


 また『インフィニティ・ウォー』と『エンドゲーム』は、マーベル・スタジオ作品最高傑作との声も多い『キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー』を撮りあげ、さらに正義の分派、対立といった、シリアスなテーマを『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』で描いたルッソ兄弟の作品でもある。ファンはそこまで見越しているからこそ、衝撃を受けることができるわけである。


 そしてこの展開そのものは、いままでシリーズ全体を統括し、大きなシナリオを作り上げることで、大勢の監督に活躍の場を与えながらも、あくまでその手綱は握ってきたケヴィン・ファイギの試みによるもの。彼は11年間積み上げてきたものの一部を、絶望的なサプライズのために支払ったのだ。


■マーベル・スタジオならではの奇策


 本作の冒頭では、アベンジャーズのなかでは珍しく円満な家庭を作り出していたホークアイの悲劇によって幕を開ける。幸せな家族団欒の一場面が映し出されるなか、突然彼一人を残し、愛する家族が全員消滅してしまう。跡形もなくなった家族を探し回るホークアイの姿は、あまりに痛ましい。


 無作為に半分の生命が失われてしまった宇宙。この絶望のなかで、生き残ったアベンジャーズに残された道は、せめてサノスを処刑することで、消えた者たちのために、ほんのささやかな復讐をするくらいしかなかった。しかも、奇跡の力を持ったインフィニティ・ストーンはすでにサノスの手によって破壊されていた。「自分の役目は終わった」とばかりに、農場で穏やかな余生を送ろうとするサノスを数人がかりで拘束し、首を落とすヒーローたち。その姿は、失意にまみれたみじめなものだった。まさに、悪夢のような結末である。


 このままでは物語は、ヒーローの敗北に終わってしまう。そこから巻き返し、映画作品を成立させるのには、やはり消滅してしまった生命を復活させるしか道はない。だが、本作のシナリオのなかからだけでその方法を導き出すのでは説得力が薄く、それこそ「ご都合主義」だと言われてしまうだろう。そこで用意したのは、他のシリーズ作品において伏線を張っておくという試みだ。具体的には、『アントマン』及び、その続編『アントマン&ワスプ』において、“量子の世界”を事前に描いておくことである。(参考:『アベンジャーズ』シリーズへの重要な布石? 『アントマン&ワスプ』で描かれた量子力学を考察)


 以前書いたように、極小の量子の世界は、人類の発見してきた物理法則が通用しない場所だ。その不思議さを紹介することで、本作では、この無秩序と思える法則を利用して、ミヒャエル・エンデの『モモ』を引用した「“時間どろぼう”作戦」をヒーローたちに立てさせることを可能にする。生き残ったヒーローがチームを組み、サノスが集め始める以前にインフィニティ・ストーンを集めてしまうことで、宇宙に復活の奇跡を起こそうというのである。そもそもインフィニティ・ストーンによる大虐殺そのものが荒唐無稽過ぎる能力だった。ならばそれを修復する荒唐無稽な力が存在しても良いのではないか。


 マーベル・スタジオの映画は、一作、一作が大作である。それを利用して伏線を張るというのは、なんとダイナミックな映画の利用法だろうか。これは、各作品の内容がクロスオーバーし、しかもそれぞれが大ヒットを達成している余裕があるからこそできる、マーベル・スタジオならではの、いままでの映画づくりではあり得なかった方法だ。だからこそ本作のシナリオは唯一無二であり、少なくとも、よくある「ご都合主義」とは別のものになっているといえるだろう。


 そして、ヒーロー側だけがこのようなズルい裏技を使っていいのかという疑問については、悪役側にも同じようなチャンスを与えることで、結局は現状に不満を持つ者同士の、過去の書き換え合戦、改変地獄に陥るはずだという問題を描いてもいる。これにより、復活劇はより緻密で納得のいくものになったといえよう。


■ヒーローたちの意外な人間的成長


 そんなチャレンジングな内容ではあるが、本作は一つの映画作品として楽しめる要素も多い。なかでも打ちひしがれて失意のなかで5年間引きこもり、自宅でネットゲームにはまりながら、ビールとピザでまるまるとした体型になって自信を失ったマイティ・ソーのダメっぷりがケッサクだ。久しぶりに合流したアベンジャーズの面々に、「あの頃は俺もジェーン(ナタリー・ポートマン)と付き合ってたんだ……」と、神のくせに昔を懐かしんで感極まるシーンは、笑えると同時にせつなさが漂う。ついには、アライグマのような姿のロケットに「しっかりしろ」と平手打ちをされてしまう。


 また、怒れる超人ハルクが、年を重ねてすっかり落ち着いて、あの姿で理知的な紳士のようになっているのも面白い。アントマンことスコットが食べようとしていたランチのタコスが吹き飛ばされると、通りがかったハルクが代わりのタコスを、自然な態度で分けてくれるのである。もはや、最も気配りのできるヒーローではないか。


 暗い過去から自由になったブラック・ウィドウことナターシャが、アベンジャーズという“家族”を持つことで生きる希望を手に入れたり、いままで真面目一辺倒だったキャプテン・アメリカが、年齢なりの余裕を身につけ、要領の良さで窮地を切り抜けたりと、各ヒーローの特徴に、全く逆の性質が備わっている。そんな人間的成長が頼もしい。


 アイアンマンことトニー・スタークも、その一人である。最愛の娘が誕生し、小さな彼女を寝かしつけるときに「3000回愛してる」と言われ、思わず泣きそうなほど感激してしまうトニー。自信家で自己愛の強い彼だが、身近に守るべき存在が生まれたことで、世界を救うことへの決意が、ここでより強固になるのである。そして、自分の父親もまさしくそうだったということを、深いところで理解することになるのだ。


■サノスの大虐殺に正義はあったのか


 さて、本作が描こうとした大きなテーマとは何だったのだろうか。以前筆者は、前作『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』における“真の衝撃”とは、大殺戮者であるサノスであっても、家族を愛する感情があり、“正義”を掲げることによって、宇宙を救うために行動していたということを述べた。(参考:【ネタバレあり】『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』の“真の衝撃”を読み解く)


 サノスによって正義という概念が揺るがされるなかで、本作は、それに代わる「本当の正義とは何か」ということを描かなければならない作品である。サノスの理想を実現させた世界は、本作では暗く荒れ果てたものとして描かれる。それを端的に表しているのは、ホークアイの悲劇であろう。家族を全て失った彼は、絶望のなかで人殺しなど裏家業に従事することになってゆく。このような家庭の崩壊、人間性の破壊が、宇宙全体で無数に起こったはずだ。こんな事態を引き起こすことが、“正義”などと呼べるだろうか。


 人間が半分に減れば、あらゆる活動が衰え、持続可能でクリーンな社会が実現するかもしれない。その一方で、あらゆる可能性も半減する。その消えたなかには未来を救うアイディアを持った者もいるかもしれないのだ。


 本作に訪れた世界は、現実の社会の未来を予感させるものでもある。力のある者によって、多様な価値観や可能性が、問答無用で排斥され、制限される。民衆が力を合わせて未来を切り拓いていくのでなく、力を持ったごく一部の人間による決断が、市民の運命を決めるのである。愛する家族をすら犠牲にしたサノスの行動は、「もう一つの“正義”」などではなく、正義を騙った“悪”に過ぎなかったのだ。本作では、その正体がついに露見し、その裏に隠されていた邪悪な感情がはっきりと姿を現す。


■アベンジャーズが復権させる正義


 「正義の暴走は恐ろしい」という常套句がある。正義を信じている者たちは罪悪感がないために歯止めがきかないので、何をするか分からないと。そして、戦争はお互いが正義と信じている同士の殺し合いであるのだと。それは、ちょっと聞くと正しいように思える。だが、例えばナチスドイツの行った大量虐殺というのは、果たして本当に正義を信じた者による決定だったかといえば、そんなことはないはずだ。正義の暴走が恐ろしいのではなく、もともと“悪”でしかあり得ないものを“正義”だと偽り、それを力によってなし崩しに押し通そうとすること、そして、一人ひとりが善悪の判断を怠って思考停止に陥り、そんな悪に従ってしまうことこそが、大きな問題なのではないだろうか。


 たしかに、正義をなそうとする際に問題が生まれることはある。それが、『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』で問題になった、ソコヴィアでのアベンジャーズの活動による被害だった。(参考:正義VS正義の戦いを描く『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』正しいのはどちら?)


 ここで分派した正義は、対立が起こったとはいえ、根っこの部分で相通じるものがある。そして、意見が食い違うからこその多様的な価値観が存在するという意味では、健康的だとすらいえるかもしれない。それらはサノスの語るような、意図的に犠牲者を生み出す“正義”とは全く異なるものである。


 思想や哲学というのは、ヒーローたちがそうしたように、対立し議論を深めながら、より良い方向へ近づくために日々模索していくものであろう。それを指して危険性を述べながら、「どっちもどっち」だと言ってしまうのは簡単だ。しかし、それでは正義も悪も一緒くただという思考へ誘導されてしまい、正義という観念自体が意義を持たなくなってしまう。その意味では、サノスとの最終決戦のなかでキャプテン・アメリカが全てのヒーローたちに向かって号令する言葉は、“正義”というものは確かに世の中に存在するのだということを、宣言しているようにも聞こえてくる。


 さらに、キャプテン・マーベルや、スカーレット・ウィッチをはじめとした、決してサポートにはとどまらない女性陣の強大なパワーや活躍は、ヒーローの多様性を物語るものだ。そしてキャプテン・アメリカが、彼自身の象徴であり、正義の象徴である盾を渡す人物は誰なのかという点にも注目してほしい。


 アメリカでヘイトクライムが急増し、世界の国や地域で排外主義的な思想が広がりを見せ、多様化と単一化の戦いが激化するなか、本作は「どっちもどっち」などという思考停止状態へと逃げようとせず、しっかりと多様化の側の重要性を示し、何が正義か、何が悪かということを、現時点での社会や思想をベースにして、渾身の力で描いている。それを世界中の観客、そして子どもたちに示したことが、本作の最大の功績であると思える。(小野寺系)