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自衛隊の海外派遣、「解釈改憲」を重ねた歴史…もはや改正は不要か?

2019年05月03日 09:01  弁護士ドットコム

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日本国憲法は1947年(昭和22年)に制定されて以降、2019年5月3日で71年目の憲法記念日を迎えました。これまで、憲法は一度も改正されませんでしたが、憲法を取り巻く環境や、関連する法令、憲法解釈はめまぐるしく変化してきました。今年は、令和という新しい元号を迎えて、最初の憲法記念日となりますが、やはり憲法問題の主な論点としては、昭和、平成と同様に、憲法9条改正問題があります。


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憲法改正がなされない中で、日本政府は憲法解釈を少しずつ変え、自衛隊の任務は拡大してきました。国会答弁や、質問主意書に対する回答、そして各種法令と、その解釈は変わっています。今回、安全保障分野、特に自衛隊の海外における活動に対する憲法解釈の変遷を振り返ります。(ライター・オダサダオ)



●「海外派兵」に歯止めをかけた1954年の参議院決議

憲法第9条の解釈が問題となったのは、自衛隊の成立と時を同じくしていました。1950年の朝鮮戦争の結果、日本に駐留していた米軍が朝鮮半島に派兵されました。当時はまだ日本の治安に対する不安があった時代です。1948年には、共産党や在日朝鮮人による大規模な暴動(阪神教育事件)が起こり、警察だけでは対応出来ず、米軍が鎮圧せざるを得ませんでした。こうした状況の中で、1950年に警察予備隊が発足しました。



警察予備隊は、警察を補完するものでしたが、重武装化され、保安隊を経て、自衛隊に改組されました。こうした中で、議会で不安視されたのが、海外派兵の問題です。自衛隊という重武装の組織が出来ると、かつての戦争のようにまた日本が海外に出ていくのではないか。そのような不安から、自衛隊発足直前の1954年に参議院で「自衛隊の海外出動を為さざることに関する決議」が出され、海外派兵に歯止めが掛けられました。この時の憲法解釈があるから、今でも海外派兵は禁止されています。



しかし、翌年、早くも自衛隊の海外派兵が議論されました。1955年に重光葵外務大臣が訪米し、ダレス国務長官と会談を行いました。その際、日米安保条約の改定が話し合われました。当時の日米安保条約は、日本で内乱が発生した際に、米軍が出動するという内乱条項が入っているなど、日本にとっては問題のある条約でした。この条約の改定を当時の鳩山一郎政権は試みていたのですが、重光外相は日米安保条約を相互条約として、日本にも防衛義務を負わせることで、改定に持ち込もうとしました。



しかし、これはダレスによって、あっさりと拒否されました。日本は憲法上、武力行使は出来ず、ましてや前の年に海外派兵禁止決議が出されていたからです。重光は可能であるとして、ダレスを納得させようとしますが、ダレスには「重光の憲法解釈は分からない」と言われるほどでした。



帰国後、重光の提案は大問題となります。重光は、これを否定しますが、外交文書公開や近年の研究で重光が提案したことは明らかになりました。海外派兵禁止決議は、自衛隊の海外出動に対する歯止めとして効いていたといえるでしょう。



●「海外派兵」ではなく「海外派遣」を可能にした1980年の政府答弁

自衛隊が海外で武力を行使することは、憲法上認められていません。しかし、2019年現在、自衛隊の部隊は海外で活動し、訓練も海外で実施しています。こうした活動と憲法との整合性が議論されたのは、冷戦下のことでした。



冷戦下の日本では、自衛隊の海外出動は、日米安全保障条約との関連で議論されていました。当時はまだ現在のようにPKOなどの活動はほとんど行われておらず、行われていたとしても、停戦監視などに限られていました。また、日本の国際貢献については、まだそれほどの意識はありませんでした。



1970年代後半以降、日米安保が強化されました。ベトナム戦争によって、アメリカのプレゼンスが低下していたことと、1979年にソ連がアフガニスタンに侵攻したことで、新冷戦がはじまったためです。こうした中で、日米防衛協力の指針(いわゆるガイドライン)が出来たり、環太平洋合同演習(リムパック)に参加したりするなど、日米の防衛関係は強化されていきました。



こうした中で、自衛隊の海外における活動が憲法上許されるのかということが議論されました。1979年12月14日の衆議院外務委員会で佐々淳行防衛庁参事官は、リムパックの参加については、個別的自衛権の範囲であるという答弁を行い、合憲であるとしました。



翌年の10月28日に出された政府答弁書では、海外派兵についての政府見解が示されました。「海外派兵とは、武力行使の目的を持って武装した部隊を他国の領土、領海、領空に派遣することで、これは自衛のための必要最小限度を超えるもので許されない。武力行使の目的を持たずに部隊を海外に派遣することは憲法上許されないわけではない」(「衆議院議員稲葉誠一君提出自衛隊の海外派兵・日米安保条約等の問題に関する質問に対する答弁書」(1980年10月28日))として、武力行使の目的でなければ、自衛隊海外派遣が可能との見解を示しています。



こうした中で、実際に自衛隊の海外派遣が検討されたのが、1987年のことでした。当時、イラン・イラク戦争で両国とも、互いの領海に機雷を敷設し、それが周辺を航行する船の安全を脅かしていました。アメリカは、イランに対抗するために、クウェート船籍のタンカーの護衛や、機雷の除去に乗り出します。アメリカは、各国に掃海艇の派遣を要請し、日本にも要請してきました。



この時、日本政府は、掃海艇派遣は断りましたが、当時の中曽根首相は、戦時下でなければ掃海艇が機雷の除去を行うことは憲法上可能であるとの答弁を行いました。この時の法的根拠で、4年後に自衛隊の掃海艇がペルシャ湾に派遣されます。  



●1991年の湾岸戦争でぶつかった「9条」の壁、停戦後に海外派遣

1990年にイラクがクウェートに侵攻すると、アメリカを中心とする多国籍軍がイラクにクウェートからの撤退を要求しました。結局、イラクはこれに応じなかったので、そのまま湾岸戦争となります。



この時、日本はアメリカの同盟国として、アメリカへの支援を要請されました。しかし、この時はアメリカへの支援の体制が整っていませんでした。冷戦下で、日米安保条約が想定していたのは、ソ連への対応でした。日米防衛協力関係もこのことを念頭において、強化が図られていました。日本国内の米軍基地や、日本周辺でアメリカに協力することは想定していても、中東の砂漠で日本が協力することは想定していませんでした。この時、日本は、準備が整わないまま、アメリカへの支援を考えなくてはなりませんでした。



そして、このとき立ちはだかったのが、憲法9条です。1991年1月に多国籍軍がイラクを空爆し、湾岸戦争が始まりました。戦争が終わった後であれば、日本は協力が出来ますが、戦争開始以前はそれが難しい状況でした。憲法9条に触れてしまうからです。例えば、戦争が始まる前に、米軍の物資を運ぶ船をチャーターしましたが、ここで武器弾薬の輸送は禁止されました。運んだものが戦争に使われたならば、戦争協力となってしまうからです。日本政府は、船舶を1隻チャーターし、「平戸丸」と命名して、多国籍軍への輸送協力任務にあてました。



しかし、この船には武器弾薬は積めず、使い勝手が悪い、しかも、日本の支援表明が遅かったために、米国の不評を買ってしまいました。湾岸戦争の多国籍軍支援は、憲法9条、とりわけ、戦争協力という問題が大きな問題となりました。今以上に、憲法9条の解釈は厳格だったと言えましょう。



結局、日本政府は、資金協力や、物資支援にとどまり、人的な支援を行うことは出来ませんでした。日本の資金協力は、多国籍軍の司令官ノーマン・シュワルツコフ将軍が、自伝で「日本の支援がなければ多国籍軍は破綻していた」というほど、貴重な支援でした。しかし、日本の支援に対して、アメリカ国内、特に議会やメディアからは猛反発を受けます。当時は、日米経済摩擦が華やかな頃でしたので、ジャパンバッシングの材料を与える格好となってしまった側面もあるでしょう。



こうしたこともあり、日本では人的支援の必要性が議論されます。湾岸戦争の停戦後の1991年4月26日に海上自衛隊の掃海艇部隊がペルシャ湾に出動しました。新しい法律を作る必要もなく、既存の憲法解釈で実行可能な人的貢献策でした。



●自衛隊海外派遣の拡大、2014年の法整備で活動に法的根拠与える

1991年のペルシャ湾掃海艇派遣は、犠牲者を出すことなく、無事に任務を終了しました。世論調査を見ても、当初予想されていたような国民の反発も無く、最初の自衛隊海外派遣は、政府としてみると、成功だったと言えるでしょう。これを受けて、日本政府は、自衛隊海外派遣の範囲を拡大します。1992年6月にPKO協力法が成立し、同時に国際緊急援助隊法が改正されました。自衛隊の活動がPKOや国際緊急援助活動に拡大されます。



これ以降も、自衛隊の海外における活動は拡大を続けていきました。緊迫化する朝鮮半島情勢を受け、1997年には日米ガイドラインが改正され、1999年には周辺事態法が成立し、日本周辺有事の際、日本が米軍の後方支援を行うことが定められました。2001年には、9月11日の同時多発テロをきっかけにして、テロ対策特別措置法が、2年後の2003年にはイラク特措法が成立し、自衛隊の海外における活動がまたも拡大しました。2009年には、ソマリア沖で問題となっていた海賊に対処するため、海賊対処法が成立しました。1991年のペルシャ湾掃海艇派遣以降、自衛隊の活動は拡大を続けています。



この間、個別の法律が制定されたものの、憲法自体は改正されませんでした。自衛隊の活動についても、任務がどんどん拡大する一方で、法的根拠については、個別の法律やその時々の憲法解釈に寄っているという、いびつな状態となってしまいました。これを解消する為に、2014年に当時の安倍政権は、集団的自衛権の行使についての憲法解釈を変更し、2015年に平和安全法制(いわゆる安保法制)を成立させました。これは、賛否両論がありますが、拡大を続ける自衛隊の活動に法的な根拠を与えると言う側面があったことは否定出来ません。



●日本周辺の国際環境が悪化、今後はどうなる?

1946年に憲法第9条が出来て以降、日本政府は、憲法を改正することなく、その時々の情勢に対応して、法的解釈を変えて乗り切ってきました。時には、国会での答弁、時には新たな個別法を制定し、肝心の憲法には手を触れないまま、今日を迎えています。その是非はともかくとして、日本が憲法を改正することなく、解釈変更によって乗り切ったことは事実です。新しい元号を迎え、日本が憲法とどう向き合っていくのでしょうか。



平和安保法制が出来たことで、これまで課題とされてきた問題が一気に片付いたことは事実です。このことは、今後憲法改正のモチベーションを下げる結果を生んだかもしれません。しかし、平和安保法制は憲法9条の問題をすべて解決したわけではありません。



平成の時代の国際環境は、地域紛争やテロとの戦いが中心で、そこでは日本は脇役に過ぎませんでした。しかし、近年、中国の台頭や朝鮮半島情勢の緊迫化により、日本周辺の国際環境が悪化しています。言い換えれば、日本は最前線に立っていると言えます。しかも、日本の同盟国、米国のトランプ政権は、日本に役割分担を求めており、何か問題が発生した時には、日本が矢面に立つことになるでしょう。トランプ政権が交代したとしても、アメリカが日本の役割を肩代わりするとは思えません。日本が矢面に立つのは、変わらないでしょう。



こうした状況の中で、憲法9条をどうしていくべきなのか。この問題に解答はありませんが、今後もこの問題が憲法問題の中心となっていくでしょう。



<参考文献> 加藤博章「自衛隊海外派遣の起源」(博士論文、名古屋大学)2018年 鈴木尊鉱「憲法第9条と集団的自衛権―国会答弁から集団的自衛権解釈の変遷を見る」『レファレンス』第61巻11号(2011年11月)



(弁護士ドットコムニュース)