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AKB48、坂道グループ……今、世の中が求めるアイドルグループのあり方を改めて考える

2019年05月01日 08:01  リアルサウンド

リアルサウンド

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 2010年代、女性グループアイドルシーンの中心にはAKB48がいた。


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 AKB48は、所属するメンバー個々が自己表現の方法を模索するためのフィールドとして、アイドルというジャンルを整備した。重要なのは、そこでメンバーたちが模索するアウトプットが、必ずしも歌唱やダンスといった音楽活動に直接紐付いたものだけでなくてもよいということだった。


 所属メンバーたちは、有名性のきわめて高い組織の一員として活動することを媒介にして、自らの適性を世にアピールしつつその先の道をつかんでいく。指原莉乃がさまざまな媒体で卓越した平衡感覚を発揮しメディアのスターたりえたのも、吉田朱里らが動画配信やSNSでの立ち振る舞いで支持者を開拓したのも、AKB48が単にダンス&ボーカルグループとしてでなく、個々にとって間口の広い自己表現の土壌として存在したためである。あるいは柏木由紀のように、長い年月をかけてアイドルという表現スタイルそのものを洗練させ、このジャンル自体の可能性を広げる道を選ぶこともできる。当事者たちがそうした自由度の高い文化実践を行ないうることが、AKB48というエンターテインメントの特性である。


 ところで、2010年代の女性アイドルを特徴づけたのは、ライブやイベントでアイドルとファンが空間を共有する「現場」、および絶えざるアウトプットやコミュニケーションの場としての「SNS」だった。従来、アイドルが主戦場にしていたテレビメディア等と異なり、現場やSNSは、既存メディアへのコネクションをもたずとも表現のチャンネルを無数に設けることができる。数多くの女性グループアイドルが日本中に生まれ活況の様相を呈したのも、そうした環境下でのことだった。


 そして、現場とSNSを最も駆使したのもAKB48だった。AKB48や全国各地に展開するその姉妹グループはそれぞれに常設劇場をもち、日々「現場」を生成していく。またメンバー個々のレベルで複数のSNSや動画配信のアカウントをもち、時間を問わず己のキャラクターや志向性を発信してゆく。それらのアウトプットが同時多発的になされ、時に彼女たち同士の関係性がパフォーマンスされることで、AKB48は一大群像劇として大きな訴求力をもつようになった。


 この群像劇としての側面が多くのファンを引きつけ、オーディエンスの興味を持続させるうえで重要なパートを担ってきたことは間違いない。ただしまた、この群像劇はいわば「選別のエンターテインメント化」によって駆動され続けてもいた。


 AKB48は楽曲リリースごとに、表題曲のメンバーに選出される/されないという選別を経ることが通例になっている。そして、選別のルーティン化そのものがエンターテインメントにとりこまれて、「選抜総選挙」に代表されるアトラクションとして定着してゆく。必然的に所属メンバーたちはこの選別の場にコミットすることが求められる。やがてAKB48グループの「総選挙」は多くの媒体が毎年恒例のビッグイベントとして大々的にとりあげるようになる。選別のエンターテインメント化は、呼び物としてさしあたりは成功をおさめたといっていい。


 AKB48が社会を席巻する存在となり、その流れをくんでマスメディアではアイドルに関わりのないさまざまなジャンルについても、AKB48にならい「○○総選挙」と銘打つランキング企画を頻出させるようになる。こうした「総選挙」という枠組みの定着に象徴されるように、選別や競争は2010年代の女性アイドルグループの代表的な特徴のひとつとしてイメージされていた。


 しかし、高橋栄樹が連続して手がけたAKB48のドキュメンタリー映画などで批評的に映し出されたように、選別のエンターテインメント化はメンバーたちの心身に過剰な負荷をかけるものでもあった。また、イベントとしての祝祭的な盛り上がりが生まれる一方で、人格の客体化がいかにも強調されるような見え方に対しては、さまざまな批判や疑念も投げかけられた。


 ある意味で、その選別のエンターテインメントへの疑念もしくはためらいを、このジャンルの内側から表現しているのが、2010年代後半に女性アイドルシーンの中心的存在になった乃木坂46ということになるかもしれない。


 「AKB48の公式ライバル」として生まれた乃木坂46もまた、原則としてAKB48と同じく選別のルーティン化が活動に組み込まれている。ただし、このグループにとって選抜メンバーの発表とは、祝祭的なムードに彩られる時間ではない。デビュー以来、『乃木坂って、どこ?』とその後継番組『乃木坂工事中』(ともにテレビ東京系)でシングルリリースに先立って放送される選抜発表で映し出されてきたのは、名目上は晴れがましいはずのポジションに「選抜される」ことに対して、喜ぶよりも戸惑い、憔悴をあらわにするようなメンバーたちの姿だった。それは、ポジションの如何以上に、選別にさらされること(がコンテンツ化すること)への違和を保ち続けているようにもみえる。かつて生駒里奈がメディアの取材に応じてしばしば語ってきたのは、選ばれることの喜びよりも辛さであり、「皆がセンターを目指す」ことを相対化する価値観だった。


 近年、『乃木坂工事中』ではかつて番組一回分をフルに使うことが通例だった選抜発表に割く時間が削減され、選別そのものがことさらに物語化されにくくなっている。また、乃木坂46に続く「坂道シリーズ」のグループとして生まれた欅坂46や日向坂46では、もはやそうした選別の枠組み自体を留保したメンバー構成を模索している。


 2010年代の終盤に至って、女性アイドルシーンは「坂道シリーズ」を軸にして特集され、語られることが多くなった。女性アイドルグループの代表的な特徴のひとつになってきた「競争」的なアングルに順応するのではなく距離をとり、いくぶん相対化するようなこれらのグループが大きな支持を集めているのだとすれば、そこには世の中がアイドルグループに何を求めているかについての、パラダイムの変化をみてとることもできるかもしれない。


 他方、視点を変えれば、現在までAKB48の大きな武器としてある「現場」やSNSは、坂道シリーズの各グループが48グループほど駆使できていない要素でもあった。とりわけ2010年代前半にAKB48の熱狂のありかとして論じられてきたのは「現場」がもたらす一回性や共時性の感動や面白みだったが、同時期、乃木坂46は頻繁にライブを行える場をもたず「現場」の少ないことがウィークポイントとしてたびたび語られた。また、48グループに比べて坂道シリーズはメンバー個々人のSNS等のアカウントが限られ制御されているため、個々人の自己表現の模索という点でいえば、48グループと同型の自由度を持ち得ているわけではない。


 対して、坂道シリーズが自らの強みとしてきたものに、膨大な映像作品や独特のビジュアルデザインの追求など、アートワークにおける蓄積がある。それらのクリエイティブはメンバーを演技者として育成するための土壌にもなり、またアートワーク単体でしばしばメディアからの注目を集めるなど、坂道シリーズというブランドがマスに訴える強みもになった。あるいは、乃木坂46が継続的に保ってきた演劇への志向は、欅坂46の楽曲パフォーマンスにも虚構の群像表現として昇華され、アイドルシーンの外にまで届く新鮮な驚きを生んだ。「現場」が生成するドラマとは異なる、いわば「作品」の水準でのインパクトが坂道シリーズのストロングポイントになった。


 もっとも、「競争」的なアングルへのスタンスやビジュアルデザイン等の志向において、現在坂道シリーズが世の中と共振しているのだとしても、これを単純に48グループ対坂道シリーズといった固有名詞同士の盛衰や優劣という観点に落とし込んで終わりにすべきではない。あるグループのどのような性質が社会に広く受け入れられているのか/いないのかを見極めることは、社会一般の感覚との乖離をしばしば引き起こしがちなアイドルというジャンルのあり方を点検する、重要な機会となる。


 NGT48の事件は、グループアイドルを運営する組織がもつ深刻な問題点を問う最新の、また決定的な契機となった(はずだし、そうせねばならない)。他方で、アイドルというジャンルが慢性的に問題を抱えているとしても、このジャンルの枠組み内でメンバーたちが模索してきた自己表現の発露やその成果、可能性までも等閑視されるべきではない。それぞれのグループが作ってきたクリエイティブも、メンバー個々人が開拓してきた文化実践も、その意義は正しく評価されねばならないし、そのことと運営組織やジャンル全般に対する批判とは無論両立する。基本的にマスに開かれた存在であるアイドルグループの何が受容され、何が受容され難いのか。それを見つめることは、単なる栄枯盛衰だけでなく、アイドルというジャンルをいかに社会に位置づけ直すかを捉えるための、必須のプロセスになるはずだ。(香月孝史)