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『名探偵コナン』は平成の時代をどう描いた? 「真実はいつもひとつ」に込められた二重性

2019年04月30日 12:01  リアルサウンド

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 物語評論家のさやわか氏の著書『名探偵コナンと平成』(コア新書)が、現在発売中だ。


参考:本年度最高のスタート『名探偵コナン 紺青の拳』 シリーズ初の興収100億円に向けての課題とは?


 『名探偵コナン』は、1994年に連載がスタートし現在原作は96巻まで刊行されたご長寿シリーズ。アニメ、映画、時には実写化と様々なメディアミックスが展開され、日本を代表する国民的作品となった。本書では、その『名探偵コナン』をヒントに、平成という時代を推理している。


 著者であるさやわか氏に、劇場版シリーズの人気の理由や23年間の歴史、これから始まる令和時代の展望などを中心に話を聞いた。


――『名探偵コナン』(以下、『コナン』)と平成が結びつくと考えたきっかけを教えてください。


さやわか:単純に設定が変わっているなと思ったんです。これだけ長く続いているシリーズなのに時間が進んでいなかったり、たくさん殺人が起きているというのはよく言われるところですけど、「似たような作品って他にないじゃん」と。最初は、たとえば『こち亀』(『こちら葛飾区亀有公園前派出所』)なんかは、その時代の風俗やテクノロジーなどを両津勘吉が持ち出して、最終的に大原部長に怒られるという定番の展開がありますが、時代とともに変遷していく作品という点では似ているんじゃないかと思ったんです。でも、『こち亀』は作中時間がいつなのか限定していない。ところが『コナン』は明確に「なりたいんだ!! 平成のシャーロック・ホームズにな!!」と宣言していて、しかもそれが主人公の目的に結びついているんですよね。さらに新一は時間を止められてしまっていて、意図的に子どもみたいな状態に据え置かれていることを考えると明らかに意味深い。平成という時代は語りにくいとか、昭和に比べて捉えどころがないと言われますが、まさにその足踏み状態を『コナン』は象徴しているんじゃないかと。


――本書では、原作者・青山剛昌さんの原体験と映画文化との関連性も指摘されています。


さやわか:『踊る大捜査線』の時に、いわゆる映画からテレビ映画への変遷という語られ方がよくされていました。本書でも『「踊る大捜査線」は日本映画の何を変えたのか』(幻冬舎新書)を引用しましたが、そこに『コナン』が同時期に成立しているという話を挟むことでよりわかりやすくなる。『コナン』の作中には、映画館がシネコンに変わっていくといった時代性みたいなものが書いてあって、時代の変遷を描きながら映画というものを語れるようになっているんです。


――そこには青山さん自身の映画への愛が反映されていると。


さやわか:そう思います。『踊る大捜査線』の2作目では、お台場をテーマパークとして捉えているのですが、その後思ったほど人が住まなくて、副都心として栄えなかったという平成時代のネガティブな部分を描ききれていないんです。でも『コナン』は移りゆく都市の寂しさを描いてしまいます。作中に登場する映画館も昔ながらのさびれた映画館からシネコンに変わるんですが、「じゃあ、あの映画館のおじさんはどうなったんだろう」と思わされるんです。シネコンの話では、映画はカップルで見るだけではなくて、1人で訪れる人が増えており、さらに、1人で来た白鳥警部が、同じく1人で来た女性と恋に落ちるかと思いきや、その女が犯人だったという話もある。そういったシネコンに来れば夢が訪れるわけでもないというところも、無意識に描いてしまっています。


――なるほど。


さやわか:青山さんは良い意味でも悪い意味でも、おそらく社会を風刺しようとは思っていないのではないでしょうか。黒の組織が悪いやつだとしても、そこで「悪とはいったい何か?」 というシリアスな問題を描くのではなく、あくまでエンタメでやろうと思っているはずなんです。ところが、無意識に世相が反映されてしまう。たとえば第4章に書いた「殺人犯にどういう人間が多いか」という部分には、青山さんは意識していないでしょうけど、結果として、平成時代の「悪」の姿を提示する形になっています。


――『コナン』のジェンダー観も独特ですよね。


さやわか:『コナン』は女性の扱い方がすごく難しい作品です。青山さんはとても映画がお好きな方で、『ルパン三世』の中でも『カリオストロの城』はもとより『ルパンVS複製人間』が、あとは黒澤明の『椿三十郎』が好きという方です。その嗜好からすると、古風な男女観でエンタメをやるのは自然なことなんですね。蘭と新一の関係を見てみると、映画では「らーん!」「新一ー!」と互いに叫ぶシーンが定番になっていて、恋愛の要素が強く押し出されますが、ちゃんと調べるまでは、なぜこの作品が女性に支持されているのかわかりませんでした。


 なぜなら『コナン』が描いているのは、ある種保守的な恋愛観だし、毛利小五郎のような昭和の親父みたいな人もいるし、男性主義的な感じですよね。男性向けのラブコメは本来そういった構造を持っているものだと思いますが、にも関わらず女性に支持されていて、映画も女性がたくさん観にきている。


 詳しく漫画版『コナン』を読んでみるとわかるのですが、必ずしも女性がジェンダーギャップのなかで保守的な行動にがんじがらめにされているという話ではないんです。青山さんがよく描いているのは、ちょっと勝気な強い女性というような女性像なんですけど、その強さが連載が長期化するにつれて多様化していきます。新一が「蘭を守らなきゃ」と言っているのは、実は初期で終わっていて、蘭は強いと。他にも灰原やベルモットなど重要な意味を持った強い女性というのが次々と出てくるんですね。ベルモットが「A secret makes a woman woman(女は秘密を着飾って美しくなる)」と言うように、多面性、多様性を背景としたミステリアスさを持っているから女性の方が強い、とおそらく意図せずに、時代にあった価値観を提供しているんです。物語の趨勢を変える可能性を持っているのは女性なんですよね。


――灰原哀、ベルモット、キール、世良真純などは物語の中心人物ですね。


さやわか:そうですね。つまり、彼女たちはある種、保守的な価値観の物語の中にいるんだけど、でも女性が進歩的に描かれているから女性にとって楽しく読めるものになっているという構造なんです。僕は男性なので、その構造を慎重に考えて分析しないと取り出せないんですけど、おそらく女性の読者や観客はそれを肌感覚でわかっているはずです。女性は陰日向から翻弄するような立ち回りをすることしかできなかったというのが、平成の社会を象徴しているような気がしたんです。外国の作品においては、映画やドラマ、ゲームにおいても裁判官や市長や検察官、兵士など、女性がたくさん出てきますよね。でも日本だとそういう役回りになるのは男性ばかりが中心です。『コナン』はラブコメというのもあって、女性があらゆる場所で役割を持たざるをえない話になっています。だから佐藤刑事みたいな人たちがクローズアップされるような形に結果的になっています。もともと青山さんはそれを全く意識していなかったんだろうと思います。佐藤刑事や高木刑事だって、TV版から重視されるようになったキャラクターなので。でも結果的に女性キャラクターが世界観の中心に来るようになっているというのは面白いですよね。


――一方で男性キャラは作品を重ねるごとに変化が見られる気がします。本堂瑛祐のようなキャラクターの登場についてはどう考えていますか?


さやわか:瑛祐辺りから、怪しい人が明らかに怪しいんじゃなくて、気弱そうな男の子なんだけど、頭脳明晰な部分が垣間見えたりと、男性っぽい、女性っぽいとかだけではない、多面性を使い分けられるようなキャラクターのバリエーションが明らかに増えましたよね。一面的ではないゆえに、「こいつは敵かな? 味方かな?」という描き方を盛んに繰り返すようになっていて、それで読者の興味を引っ張るというパターン。キャラクターの作りはシリーズを通して洗練されてきています。その結果として、安室透や世良真純のようなキャラクターの深い内面を生む形になっているのかなと思います。


――映画としても劇場版『名探偵コナン』は平成を代表するシリーズになっていますよね。


さやわか:『コナン』の映画は色んな要素が詰め込まれていますよね。人も死ぬし、爆破もするし、クイズも出る。昔ながらの映画に見慣れた人間からすると、「この要素いらないだろ」と思ってしまうんですが、そうではないんです。ごちゃごちゃに重なり合っていることの正当性を『コナン』映画は提示しています。本書でも『ベイカー街の亡霊』のストーリー解説をあえて真面目にやっているんですが、なぜかというとあの話はストーリーラインがわかりやすいからなんですよね。昔の映画に近い。初期の作品はミステリーを中心としてレイヤーの少ない構造になっているので、どちらかというと見やすい。でも世の中が一元的なものではなくなったというのを如実に象徴しているのが現在の『コナン』映画だと思います。


 例えば海外の映画、マーベル作品や『アナと雪の女王』『ズートピア』はジェンダーギャップやジェンダーバランスを考え抜いて作っています。明言しなくても、その要素が物語の趨勢に関わっていたりする。現実社会の問題が綺麗に脚本レベルで反映されたものとして着地しているんですが、『コナン』は日本映画としてそれらと全く同じことをやるわけでもなく、ごちゃごちゃに入り組んだ形を提示することで対抗しているんだなと僕は思ったんですよね。


――最近の作品は特にハリウッドライクですね。


さやわか:意識はしていると思います。『コナン』の場合は、アニメだからこそ、ハリウッドなら実写でやるだろう列車大爆発やダムの大爆破というものを描けてしまうんですよね。つまり、『踊る大捜査線』や実写版『進撃の巨人』『鋼の錬金術師』ではできないことが、『コナン』はできる。だから日本映画の中でも『コナン』こそが一番アクション映画的に、またハリウッドライクになっていくというのは、僕は必然だと思います。


――公開中の『紺青の拳』はシンガポールが舞台だったりと、海外市場も意識しているのでしょうか?


さやわか:例えばハリウッド映画の場合、作中に出てくる味方はハリウッド資本が好ましい国の人間でした。昔なら日本人、今なら中国人ですよね。『オデッセイ』で急に中国人が助けてくれたりと、そういう目配せをハリウッドはちゃんとやっていていますし、近年は人種問題にもきちんと配慮してキャスティングに盛り込んでいます。日本はあまりそういったことを考えておらず、「今回は京都に行ってみようか」とかそんな感覚で作っていたんですけど、近年の『コナン』映画の場合は、ハリウッド式にロケーション設定をしている印象があります。つまり、海外市場も視野に入れているのではないでしょうか。もちろん、観光としてその場所にいった感覚を重要視しているという明確な意思も感じます。そのやり方の方法論を、20作品通して見出してきたのだと思いますね。もちろんミステリーとして完全無欠なものを作り、場所も動かない映画も面白いかもしれません。でも大衆娯楽としての意味を考えると、行ったこともない外国で派手に暴れまわるというのは、大事だと思います。


 近年、『コナン』映画は「アクション性が高まった」と言われることが多いですが、観光映画化しているという側面もあると思います。もともとコナン映画は早い段階で20億規模の興行収入があって、ドル箱シリーズでした。そのさらに上を目指していった結果、作品としての規模感をどう作っていくかという部分に焦点が変わっていっています。


――アクションシーンは『ワイルド・スピード』のように年々派手になっていきますね。


さやわか:ハリウッド映画でも色々ぶっ飛んでいるシーンってとにかく目が気持ちよくて、本当は映画ってただそれだけでも良いはずなんですよね。物語をあれこれ分析することもできるんですが、「本当は娯楽ってそういうものじゃないじゃん」と、『コナン』はやっちゃうんです。例えば『純黒の悪夢』は、とにかく前半30分で観客を掴みにいくという、ハリウッド脚本術の文脈に即しています。一方で、オープニングの基本的な設定説明もいまだに続けていますよね。いかにもハリウッド式の娯楽と、昔ながらの『コナン』をいびつに取り混ぜる感じ。そういうものとして進化することを選んでいるんですね。


――また劇場版では、原作を追い越してその本筋を先取りしたりもしています。


さやわか:最近は、観客も原作を追い越した描写を期待して観に行くようになっていますし、青山剛昌先生自身が、脚本や設定、コンテ、原画にものすごく配慮しているので、だからこそ追い越すことが可能になっています。本にも書きましたが、メディアミックスとはいえ、他の作品であれば原作の優位性があって、そこからの派生作品としてアニメが位置付けられます。だから「原作改変」「改悪」という言い方になるんです。ところがコナンは同じ世界観を共有しつつ、同じところもあるし違うところもある。場合によっては蘭が空手で関東大会で優勝する話は、映画で先に提供され、原作がそれを逆輸入するということを青山さんは自然にやっているんです。どっちが元だということをあまり意識していないというか、取り込んだ方が面白いじゃんという、快楽主義なんですね。


――ユニバース的発想をひとつの作品群の中でやってしまっているという。


さやわか:そうだと思います。『スパイダーマン:スパイダーバース』は、「それぞれのスパイダーマンが居て別にいいじゃん」という考え方でしたよね。観客や読者もそれを楽しむ余裕がある。いわゆるメタ構造なんですけど、日本人は「オリジナルは誰なのか」と深刻なものとして捉えがちですよね。で、コナンは「どっちがオリジナルじゃなく、どっちもオリジナル」としている。やはり映画に青山さんが関わっているというのがすごく大きいはずなんです。


――原作者が映画に大きく関わるのはひとつのヒットの特徴でもありますよね。


さやわか:そうです。他にも世良真純が出てくるシーンで、世良の部屋にベットがひとつ追加されているんです。「“領域外の妹”がいるからベットをもうひとつ置いておいてくれ」と、青山先生が指示したらしいんですが、それも原作の物語の伏線になっている。原作者が入っているからこそやれるんですよね。宮野明美の設定のように、TV版と矛盾してきたりする部分もあるんですが、それ含めて「ここは別の時空の出来事」「ここは共通」というさじ加減でできるのは、アメコミ的かもしれません。


――本の中では、「『名探偵コナン』は二重性を描いている」という言葉が強調されていました。


さやわか:『名探偵コナン』は同じ場所に複数のものがあるということだけを書いている。そのことに、僕は執筆途中で思いついて、「真実はいつもひとつ」という言葉に繋がってきました。コナンは「真実はひとつ」と言っていますが、作品としては二重性、多重性みたいなものが重視されている。これは逆に面白いなと思いました。


――その矛盾が魅力の根幹にありそうですね。


さやわか:そうなんですよ。そもそも「真実はひとつ」と言いながら、コナン自体は「見た目は子供、頭脳は大人」に分裂していて、ひとつの存在じゃない。そこが作品の面白さだと思いました。これだけ矛盾した歪な構造になっていながらも爆発的人気があるというのは絶対に意味がある。それで、本の全体を二重性とか多重性というテーマで形作るように書いています。たとえば男女の関係のところでは、評論家の橋本治さんの『その未来はどうなの?』(集英社新書)を引用しているのですが、橋本さんも「男性は女性に権利を与えた、と考えているが、男性は自分自身は変化しないで女性に対して譲歩しているだけ」ということを指摘しています。


 譲歩というのは、同じ場所に2つのものがいることを認めるのではなく、どっちかがその場から撤退するということで、それは平等には結びついていない。社会が変わっていっているにも関わらず、「ここには1個のものしか存在しない」と考えることこそ、世の中を機能不全にしているんだと思います。『コナン』はそれを描いていて、さらに言うと、全てのミステリーは実はそれを書いているんですよね。「こいつが気に入らないから譲歩させる」、すなわち排除というのが殺人事件なので、そうではなく存在を認めつつ生きていくというのが殺人事件の起こらない社会です。毎回、コナンが犯人に対して厳しく指弾するのはこれですよね。


――そうなると令和時代のコナンはどうなっていくのでしょう?


さやわか:令和時代にはさすがに完結すると思います(笑)。でも作品が時代性を伴いながら描かれるのは今後も変わらないと思います。映画の舞台挨拶で「令和のシャーロック・ホームズになります」と宣言したことがネットニュースになるのも、「平成のシャーロック・ホームズ」という言葉で時代と並行してきたからこそだった。令和においても、やはり青山さんがその時代に起きた感覚を取り込んでいくと思うんです。本に書いたように、青山さんが意図しなくても、震災やフェイクニュース問題は『コナン』の事件の起き方に明らかに影響を与えている。それと同様、元からあった黒の組織の設定がどうであれ、令和の社会を反映した作品として完結すると思います。最終的には、勧善懲悪になると思うんですが、ただ社会にある嘘を正すという構造が『コナン』の求めたものだと思うんです。だから現実社会がそういうものになっていけば、それを肯定的に描いて終わると思いますし、社会がそれを否定するなら、憎しみながら終わっていくのかなと。


(取材・文=安田周平)