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美智子さま奇跡の瞬間をカメラマン振り返る!発煙筒、火炎瓶にも毅然とした対応を

2019年04月29日 20:00  週刊女性PRIME

週刊女性PRIME

ご結婚の儀の朝、ご家族と。昭和34(1959)年4月10日

松本徳彦「私の最初の皇室取材は、美智子さまのご婚約内定発表(写真①)のときの正田邸前でした。

 編集長に言われ五反田に飛びましたが、すでに新聞社のカメラマンの脚立がズラリと並び、私は右端でした。

 撮影に夢中でしたが、初めて拝見した美智子さまはおきれいだという印象でした。

 父親の英三郎さんは恰幅がよく財界の重鎮という感じで、母親の富美子さんも上品な婦人だなという印象を持ちました」

山下芳彦「私の皇室の撮影のいちばん古いものは、常陸宮妃華子さまの父方の実家・青森での取材だと思います(昭和39年8月)。かなり涼しかったことが記憶に残っています。

 のちに私は、『馬術情報』という雑誌の対談企画の撮影で常陸宮邸を訪問したのですが、華子さまに、青森での提灯行列のことを話したら“そうですか”と喜んでいただきました」

今井隆一「私は美智子さまが秋篠宮(当時・礼宮)さまを出産して退院されるときが初めての取材でした(写真②)。

 東宮御所の玄関前に待機していましたが当時、携帯電話も無線もなく、いつになったら帰ってこられるのか現場はピリピリしていました。

 ようやくお帰りになると、秋篠宮さまを抱いた美智子さまが車の窓を開けてくれて、何とか撮影できました。自分のために開けてくれたのでは、と思いましたね(笑)

小島愛一郎「私は大阪万博(昭和45年)のころでしたね。そのころは黒田清子さん(当時・紀宮さま)を出産した後で、40歳前の落ち着いた母性的な美しさがあるように思いました」

松本「私の時代は週刊誌の黎明期で、皇室取材も手探り状態で苦労しました。

 お出ましも、公式の大きな行事は宮内庁に問い合わせると教えてくれましたが、百貨店での展覧会のような公務は、発表されませんでした。

 だから主催者に直接問い合わせをするなど、アンテナを常に張っておかなければならない状態でしたね」

山下「私が週刊女性に在籍していたころは、公式行事はすべて宮内庁から日本雑誌協会に通知がありました。

 そこから私たち出版社にファックスが送られてくるので、その中から出欠を選ぶことはできました」

小島「今はメールで、その案内も来るそうですね。

 でも、そんな公式の型どおりの取材だけだと、週刊誌にとっては物足りないですよね」

松本「だから、私たちのころは宮内庁に直接、取材を申し入れていました。

 両陛下と皇太子(当時・浩宮)さまが軽井沢に静養に行かれたときのことです。

 地元の釣り堀に、魚がすぐ釣れるようにエサをやらないでほしいと前もって頼んでおきました。

 そして、宮内庁の職員にご一家が釣り堀にいらっしゃるように交渉して、当日はポンポンと魚を釣ってもらうところを撮影させてもらいましたね」(写真③)

小島「私の時代には、宮内庁にそういう要請をすることは考えられませんでしたね(笑)。 

 すべてが決められた時間に、決められた場所で撮影するという形になっていました」

今井「私の若い時代にもまだ交渉するようなことはありましたね。

 出版社の何社かで日本雑誌協会を通じて宮内庁に、美智子さまのこういう写真を撮りたいという交渉をしに行った記憶があります。

 札幌プレ五輪大会で両陛下が手を取り合ってのスケート撮影も、国民に親しんでもらいたいという意識があったと思います」(写真④)

松本「葉山のご静養のときもそうでした。海岸を散策する場面の撮影がありましたが、皇太子さまが波を怖がる可能性があったので、浮輪のようなおもちゃを置いておくように頼んだんです。

 すると、やはり興味を示していただきました(笑)。

 そのときの写真が、その年の優れた写真を選ぶ『アサヒカメラ年鑑'62』に掲載されたのはうれしかったです。 

 皇室の写真が選ばれることは珍しく、それだけインパクトがあったのでしょう」

今井「私が印象に残っているのは栃木県奥日光の刈込湖での幻想的な1枚ですね。

 奥日光は戦争中に陛下が疎開していた場所で、そこに旅行に出かけられたときのものです。

 そこで、地元の関係者を含めて“いい絵”を撮れるように知恵を絞ったのではないでしょうか。

 当時、両陛下と報道陣が行けるように整備したそうですが、刈込湖までは車で30分はかかりましたね。周囲には人家や電柱や看板がまったくない風光明媚なところで、いい写真が撮れたと思います」(写真⑤)

山下「私は皇室の撮影を始めた最初のころ、撮影中に昭和天皇に声をかけて大目玉をくらったことがあります。

 確かホテルニューオータニでの行事で、昭和天皇が庭園の池のコイにエサやりをなさっているときのことだと思います。

 お顔の位置がよくなかったので、思わず“こっち向いてください”と言ってしまったんです。

 芸能人の取材のときとは違い、皇室の方々に声をかけるとか目線をいただくことは禁止されていますから。

 昭和天皇はこちらを向いてくれたので、気にされていなかったと思いますが、あとで宮内庁の職員に注意されてしまいました」

小島「それも今では考えられませんね(笑)。

 ところで、週刊女性には陛下と美智子さまのご成婚パレードの写真がほとんど残っていませんが、理由をご存じですか?」

松本「写真の管理状況も否定できないと思いますが、主婦と生活社で労働争議があったからかもしれません」

一同(驚愕)

松本「昭和34年2月に始まった主婦と生活社のストライキは318日間続き、労働運動史に残っているほど有名です。

 両陛下のご成婚(昭和34年4月10日)はその時期で、私は組合員だったので、その間は取材活動をしていません」

山下「ハプニングといえば、山形県の国民体育大会のときもそうでしたね。

 男が発煙筒を投げつける事件がありましたが、美智子さまは、少し陛下をかばうようにされただけでした。

 何があっても冷静さを心がけていらっしゃるのかもしれません」(写真⑥)

松本「私も陛下と美智子さまの動じない姿は記憶に残っています。

 大阪の仁徳天皇陵に参拝に行かれたときに、参道に見物客が押し寄せて、両陛下の目の前にあふれ返ったのです。

 しかし、両陛下にまったく慌てた様子がなかったのは印象に残っています。あれが帝王学なのかもしれません」(写真⑦)

今井「沖縄の火炎瓶事件のときのことも覚えています(昭和50年7月15日)。

 ひめゆりの塔で献花されたときのこと。過激派から火炎瓶を投げつけられたときも、最初は騒然としましたが、すぐにおさまりました。

 両陛下はその後の公務を中止するものと思っていたら、日程を変えずに、そのまま続けられたのはすごいと思いましたね。 

 不測の事態が起きても動じることのないような教育を受けられているんですかね。

 特に美智子さまは民間出身にもかかわらず、さすがすごい方だと思いました」

小島「皇室の撮影はたまにそういう決定的なシーンが起こるので、気が抜けないですね。 

 以前、長崎の五島列島に常陸宮ご夫妻の取材に行ったときに公式取材が終わったので、他社のカメラマンと釣りに行ったんですよ。

 すると、ご夫妻がおしのびで海岸にお出かけになったと聞いて、真っ青になりました。

 地元紙が撮影しているかもしれず、資料として地元紙を買うのですが、怖くて持って帰れませんでした(笑)」

今井「地方の自然が豊かなところや海外では、美智子さまもリラックスされていました。

 私は両陛下のマレーシア、シンガポール訪問(写真⑧)とヨルダン、ユーゴスラビア(当時)、イギリス訪問(昭和51年6月)にも同行しましたが、外国のほうがより近い距離からいい写真を撮れたと思います。

 当時、サングラスをかけたり、サファリルックをされる美智子さまは珍しかったので、いい取材だったと思います。

 フィルムを大量に持っていくのは大変でしたが」

山下「時代は変わりますが、皇太子さまと雅子さまの婚約が決まってから(平成5年1月19日)、ご実家の小和田邸(東京・目黒区)前の取材は大変でしたね。

 雅子さまが家を出入りする姿の撮影で、カメラマン何人かでローテーションを組んで回していましたが、ハードな日々でした」

小島「結婚前ということもあり、宮内庁の取材規制がなく、各社による取材なので、大勢の報道陣が毎日詰めかけていました。

 週刊女性は女性誌ということもあり、雅子さまのファッションにも注目して撮り続けました。

 昭和天皇が入院されたとき(昭和63年9月~)は寒い中、皇居の半蔵門に8時間交代で張り込みを続けたのも大変でしたね」

山下「皇太子ご夫妻のご結婚直後の地方へのお出ましには、ほとんど毎回、2名のカメラマンが同行していました。

 事前に撮影場所や人数を宮内庁に通知して、テレビや新聞のカメラマンがいる中で、現場に集合してから抽選でカメラ位置を決めることが多かったですね。

 このころには指定された場所以外での撮影はできず、声かけもできないので運が左右することもあります」

今井「撮影位置による運、不運はありますよね。沖縄の火炎瓶事件のときは、私たち雑誌のカメラマンは取材位置が後方だったので、炎が巻き起こったのは見えたのですが、決定的瞬間は押さえられませんでした」

山下「そういう意味で私が最も印象に残っている1枚は、皇太子ご夫妻が平成5年に徳島県の全国身体障害者スポーツ大会に行かれたときです。

 阿波浄瑠璃の木偶人形を視察される公務で、私は抽選でカメラ位置のいちばん隅を引いてしまい内心、最悪だなと思っていました。

 ところが、ご夫妻は私の位置の目の前で、人形を操られたので、こんなこともあるものだとよく覚えています」(写真⑨)

小島「私がよく覚えているのは、美智子さまが全国豊かな海づくり大会で愛媛県を訪問されたときですね(写真⑩)。

 前の月のお誕生日に、月刊誌や週刊誌のバッシング報道が原因だったのか、お倒れになった美智子さまは、一時的に声を失っている状態でした。

 そんな中、声を取り戻されるかもしれないと同行しました。現場では、居合わせた女性たちが病状を心配して、“美智子さま頑張って~”と声をかけたり、かなり熱気を帯びていたのを覚えています。

 声を回復されたのは、しばらくしてからでしたが、美智子さまを心配する人たちが多く、その注目ぶりはやはりすごいのだなと思いました。

 退位後は、お出ましを控えるという話も聞きますが、上皇后としてまた違う一面の美智子さまを拝見したいですね」

松本徳彦(まつもと・のりひこ)◎昭和11(1936)年生まれ、83歳。昭和32(1957)年、主婦と生活社入社。著書に『越路吹雪』(淡交社)など。日本写真家協会副会長

今井隆一(いまい・りゅういち)◎昭和16(1941)年生まれ、78歳。昭和40(1965)年、主婦と生活社入社。第17回NHK関東甲信越地域放送文化賞受賞

山下芳彦(やました・よしひこ)◎昭和17(1942)年生まれ、77歳。昭和40(1965)年、主婦と生活社入社。著書に『写真集高田好胤』

小島愛一郎(こじま・あいいちろう)◎昭和19(1944)年生まれ、75歳。昭和45(1970)年、主婦と生活社入社。市川写真家協会会員