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樹木希林の名言集がベストセラーに 演技と実生活に見る、異質なものを同居させる力量

2019年04月27日 12:01  リアルサウンド

リアルサウンド

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 昨年9月15日に妻の樹木希林が亡くなったのを追うごとく、約半年後の今年3月17日に夫の内田裕也も逝った。それぞれ芸能界で異彩を放ち、存在感が大きかった2人をふり返る報道が盛んに流された。樹木については死後、関連書籍が相次いで刊行され、なかでも過去のインタビューや対談から発言を抜粋した『一切なりゆき 樹木希林のことば』(文春新書)は、ベストセラーとなっている。


 この名言集には、75歳でこの世を去るまで多くの作品に起用され、記憶に残る演技をみせてきた名女優らしい含蓄のある言葉が収録されている。「モノを持たない、買わないという生活は、いいですよ」と執着心のない心境にたどり着いたことを話し、「俯瞰で見ることを覚え、どんな仕事でもこれが出来れば、生き残れる」と芝居の心得を明かす。これらの発言からは、自分の欲望や感情に拘泥しない冷静さが感じられる。彼女が常識にとらわれない自由な感覚を持てるのは、その冷静さがバックボーンにあるからだろうと思わされる。


 しかし、もう一方では、内田家の墓を永代供養するために「結婚相手は長男はダメよ」と考えていたという。このため、娘・也哉子の夫・本木雅弘は、婿養子になったのだ。また、樹木は「世の中につながる結婚というのはダメになったときの責任も重大」ともいっていた。夫婦や親子の結びつきを家という単位で考え、世の中との関係でとらえる姿勢は、意外と古風である。


 同居するよりも遥かに長い時間を別居していた内田裕也との不思議な婚姻関係は、相手を縛らず、互いの自由を最大限に認める進歩的な態度にみえる。だが、同時に、どんなことがあってもとにかく家族の絆は維持しなければならないとする、保守的な考え方も感じられるのだ。一切をなりゆきに任せているようで決して譲らないところがある。進歩的なのか保守的なのかわからない。


 どう考えても、夫のほうが野放図だったはずである。だが、樹木は「妻という場所があるから、私自身も野放図にならないんです」と述懐し、「あのとき離婚しなくてよかったな」と内田がもらしたことを語るのだ。やはり、2人の関係は普通ではない。ロック界で有名な夫婦というと、妻が意図的に別居期間を設け、放蕩生活を送った夫が愚かさを自覚し戻ってくるようにしたジョン・レノン&オノ・ヨーコの例がある。その逸話には妻の計算がうかがわれたが、内田裕也&樹木希林の関係は計算の範囲に収まっていたようにはみえないし、ジョン&ヨーコ以上にロックンロールな夫婦だったのかもしれない。


 樹木希林は、映画『万引き家族』(2018年)など晩年の凄みのある演技で名女優という印象を残して去っていったけれど、もともとはコミカルなイメージで世間に知られるようになった人である。悠木千帆の芸名で活動を始めた彼女は、森繁久彌と共演した『七人の孫』(TBS系/1964年から放送)などを経て、1965年から放送された『時間ですよ』(TBS系)で注目度が高まった。堺正章などとのギャグのかけあいで人気ものとなった彼女は、『寺内貫太郎一家』(TBS系/1974年から放送)ではまだ30代はじめだったのにおばあちゃん役を演じた。息子役の小林亜星より歳下だったのに老けメイクをし、同時代のアイドルでスターだった沢田研二のポスターを見つめ「ジュリー!」と身悶える怪演で笑いを誘ったのだ。


 そうして悠木千帆の名が世間に浸透したというのに、彼女は1977年にチャリティ・オークションで芸名を売り、樹木希林に改名してしまう。すぐ後にはドラマで共演した郷ひろみと「お化けのロック」(1977年)、「林檎殺人事件」(1978年)をおどけたしぐさでデュエットして話題になったし、新しい芸名もすんなり認知された。そして、1981年には勝手に離婚届を提出した内田に対し無効を訴え、婚姻関係の継続を主張したあの騒動が起きたのである。後にはある種の美談みたいに語られた2人の関係だが、騒動になった当時は、すでに破綻している結婚をなぜ維持しなければならないのか、わけがわからないものだった。この頃の樹木は、コミカルだが変わり者といったイメージだった。トリッキーな存在だったのである。


 彼女が1978年から長年出演したフジカラーのCMシリーズでは、岸本加世子が写真写りに関し「美しい方はより美しく、そうでない方はそれなりに写ります」と樹木にいったセリフが流行語になった。このセリフが象徴的だが、樹木はテレビドラマや映画において「美しい方」を脇役として盛り上げる「そうでない方」のポジションだった。吉永小百合が薄幸の芸者、樹木が不器量な年増芸者を演じた『夢千代日記』(NHK/1981年から放送)が、代表例だろう。ヒロインが原爆に被爆した過去を持つ、重いテーマを含んだドラマであり、樹木も笑いを誘うだけでなく哀しみをたたえた役柄だった。


 また、ふり返れば、1986年に放映されたNHK朝の連続テレビ小説『はね駒』への出演が、樹木の役者人生で節目になっていたのではないか。ヒロインの斉藤由貴が演じたのは、明治・大正期に新聞記者になった進歩的な女性。母役の樹木は娘を優しく見守りつつ、家族の大切さを説いていた。進歩的な考えに理解をみせながら保守的な態度を示すこの母親像は、晩年の樹木のイメージにもつながるものだ。


 歳を重ねるにつれ求められることも変わり、シリアスな演技へと移行していったが、そうなっても、どこかとぼけた感じ、変わり者のたたずまいは失わなかった。映画『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』(2007年)は、離れていてめったに会うことのないオトンとなぜかつながっているオカンの闘病に、息子が寄りそう内容だった。同作で樹木はオカンになり、彼女の若い頃を娘の内田也哉子が演じたが、『一切なりゆき』に「まさに、『私と也哉子と、時々、裕也だった』」という発言が収められているくらい、自身の家族とオーバーラップする物語だったのである。


 こうして樹木希林の歩みをたどり直すと、名言集や実生活にみられた進歩性と保守性の同居は、コミカルな変わり者であることとシリアスな演技の同居と呼応しているようにみえる。若い頃の『寺内貫太郎一家』では、老けメイクによるフェイクのおばあちゃんだった。それに対し、亡くなる3カ月前に公開された『万引き家族』では、大きな嘘を抱えながらも確かにつながっている家族のおばあちゃんだった。物理的なフェイクから、なにがしかの真実を含んだ嘘へ。演技のこの深まりは、樹木が自身のうちに異質なものを同居させる力量があったからこそ可能になった。そう思うのである。(文=円堂都司昭)