トップへ

『いだてん』に詰まったあらゆる“初めての一歩” 宮藤官九郎は戦争とどう向き合うのか

2019年04月21日 08:01  リアルサウンド

リアルサウンド

写真

 クドカンには感謝している。どんな世界的スポーツイベントが開催されようともいっさい興味の持てない私に、多少なりともスポーツと相見える余地をもたらしてくれたからだ。もちろん、このとびきり奇想天外な物語を介して。


 今ではなぜか日曜20時前になると、まだ『ダーウィンが来た! ~生きもの新伝説~』(NHK総合)が流れている内から、TV前に正座している自分に気づく。これほど視聴方法が多様化した今、突如湧き出した自分のこの律儀さに驚くほどだ。


 多分私はスポーツが嫌いなのではなく、その楽しみ方を知らないのだろう。しかしその分、歴史が好きだし、知られざる人間ドラマが好きだし、意表をつく展開が大好きだ。幸いなことにクドカンの脚本を手がけるNHK大河ドラマ『いだてん~東京オリムピック噺(ばなし)~』にはその全てが詰まっていた。


●突然変異的にイチを踏み出す発明


 彼は同じことの繰り返しはしない。だからかつて朝ドラで『あまちゃん』(NHK総合)が国民的なヒットを遂げたとて、大河ドラマで二匹目のドジョウを狙う真似などするわけがない。スポーツにはルールが付きものだが、私には時としてクドカンがやることなすこと、ゼロから突然変異的にイチを踏み出す発明のように思えることがある。すごく大袈裟に例えるなら、イギリスのパブリックスクールで、フットボールの試合に出ていた1人の少年がいきなりボールを抱えて走り出した瞬間(それがラグビーの起源となった)とでも言おうか。


 などと思っていたら、第2章の幕開けである第14回「新世界」では、生徒たちが日本に輸入されたばかりのドッヂボールに興じる姿が描かれた。競技者はただボールを投げるか、あるいは逃げ回るのみ。だが主人公の金栗四三(中村勘九郎)は思いがけずボールをキャッチしてしまい「この場合、どうするんでしょうねえ」と顔を見合わせる。観ていてとても面白いし、クドカン作品っぽい象徴的な場面だとも思った。こうやって何かが生まれる。それも突然変異的に。どんな偉人の伝説を描くよりも、こんな身近なことに直結する歴史を描いてくれた方が、私にとってはよっぽど重要だし、ドラマティック、つまり大河だ。


●そこには近代スポーツの「あらゆる一歩」が詰まっている


 思えば、西郷隆盛に続く大河ドラマの主人公が金栗四三だと初めて知った時も相当驚かされた。だが、熊本から上京した四三が、いつしか日本を飛び出し世界を目指す「第1章:ストックホルム大会篇」はさらに輪をかけて度肝を抜くものだった。


 初めてのオリンピック。まずは「日本体育の父」たる嘉納治五郎(役所広司)が「オリンピックとは何か」を関係各所へ説明して回るところから始まり、多くがまだマラソンの概念も理解せぬ内に、その未体験の競技をめぐって選考会が行われる。何もかにもが初めてづくし。そこに集った誰もが、まだ形の定まっていないものに果敢に挑み、それが正しいのか、間違っているのかもわからぬまま、もうただ無我夢中でワチャワチャする。などと書くと、そこには笑いと狂騒しかないように思えるが、その混沌も一線を越えると感動へと変わる。さらにオリンピックの開催地、ストックホルム入りしてからの展開は、全てが文句なしの大感動の嵐であった。


 奇しくもイチロー選手が引退会見を行ったのが3月22日。そこでの発言は一言一句が名言だったが、とりわけ私の心には「アメリカに来て、外国人になったことで初めて人の心を思いやったり、人の痛みを想像したり、今までになかった自分がそこに現れた」「本を読んだりして情報を得ることはできても、体験しないと自分の中から生まれてこない」という趣旨の言葉が深く響いた。そしてなんたる偶然か、翌々日放送の「第12回」では、まさにその言葉を体現するかのように、日本人初のオリンピック選手、金栗四三が、あまりに過酷なマラソンレースでフラフラになりながら死力を尽くす姿が描かれていた。


 白夜のせいで夜の一向に訪れぬその街で、彼は紛れもない外国人だった。そして数多くの「初めて」を経験した。彼の踏みしめたあらゆる歩みが、日本人としての第一歩。私の中ではその時、イチローと四三の姿が決して大げさではなく、オーバーラップして見えるかのようだった。


 そして第1章のクライマックス、あまりに過酷なマラソンで命を落としたポルトガルのラザロ選手に対し多くの選手たちが哀悼の意を捧げる場面には、彼らがつかの間、国家という枠組みすら超えていく姿が垣間見られたものだった。


●語り口はどう変わっていくか、戦争の時代をどう描くのか


 「ストックホルム編」は、ある意味、日本版『炎のランナー』だったと思う。競技の内容や結果のみに左右されることなく、その人が歩んできた「人生そのもの」を深く見つめる。この金栗四三をめぐるドラマは、まさに知っておくに越したことはない胸を揺さぶるものだ。そして彼は1912年のストックホルムのみならず、12年後のパリにも出場している。つまりアカデミー賞を受賞した名作『炎のランナー』の大舞台にてランナーたちが死力を尽くすそのすぐ近くで、四三もまた同様に国の威信をかけて走っていたのである。


 このあたりがどう描かれるのかも気になるが、まずは始動したばかりの「第2章」に注目したい。ここではストックホルムでの敗退を大きな材料として、帰国後の四三がスポーツ教育や人材育成に様々な提言を投げかける姿が描かれる。女性スポーツの台頭も大きな鍵を握っていくらしい。つまりこれまで以上に「初めての一歩」を踏み出すキャラクターたちでワチャワチャと賑わうことは確実。一方、日本にも世界にも、戦争の足音が忍び寄ってくる。その時、スポーツはどのような局面を迎えるのか。さらにはクドカン自身が戦争という題材をいかなるタッチで描くのかも非常に気になるところだ。


 兎にも角にも『いだてん』は古今亭志ん生(ビートたけし/森山未來)の語り口に乗せて、あっちこっちへと時代が飛ぶ。それで観ている方も相当疲れる。だがこれは心地よい疲れだ。そもそも歴史が線形に語られるべきものだなんて誰が決めたのか。それは単なる固定観念に過ぎない。むしろ自分(視聴者)に対して歴史が同時多発的に訴えかけてくる姿の方が、ある意味、正しいのかもしれないなとふと思ったりする。これもクドカンが今回のドラマを通して教えてくれたことだ。


 やがて志ん生の喋る「今=1960年」に近づくにつれ、語り口はうねる。さらに1964年の東京オリンピックに向けてドラマのスタイルも変容していくに違いない。鍵となる落語『富久』の内容も一度しっかりと頭に入れておいたほうがいいのかも。ゼロからイチを生み出す稀代の脚本家が、金栗四三の「スッスッハッハッ」というリズムを超え、いかなるルール破りの大跳躍を見せてくれるのか。クドカンは筆が乗り始めるともう止まらなくなるタイプの書き手だ。我々もまた、沿道に出てこの長丁場のマラソンを精一杯応援せねばなるまい。などとスポーツとは全く縁のなかった私がいつしかこんなことを言い出すのだから、一本のドラマは本当に人を変えるのである。(牛津厚信)