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『スターフォックス64』が教えてくれた“対戦”の楽しさ 学校の看板を賭けた隣町の少年との勝負

2019年04月19日 17:01  リアルサウンド

リアルサウンド

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 ゲームに関する記事を書いておいて何だが、私は「対戦」が苦手である。生来の気質もあるが、育った環境も関係しているだろう。実家の最寄りのゲームセンターがファイナル・ファイト状態だったのである。小・中・高校生が集っていたが、トイレに行けば即カツアゲを食らい、対戦格闘ゲームで年上に勝つなどの“粗相”をすれば、最悪リアルなストレート・ファイトへ発展。世間的には格闘ゲームが流行していた時代だったが、私も一発カツアゲを食らってから足が遠のいてしまった(この時は私の財布に200円しか無かったせいで、「いや~、こりゃ貰えないよ」と不良の子も許してくれたが)。私は怖くて近寄れなかったが、「新人の不良の子が挨拶に行く場」という『マイ・フェア・レディ』的な、いわば不良の社交場と化したゲームセンターもあった。当時の私にとっては恐怖を超えて都市伝説の領域で、若い子が先輩に下克上パンチを放つも、簡単に受け止められて、「やめとけよ」……そう余裕の笑顔で警告されたと、漫画のような逸話も耳にした。


参考:1ターンごとにガチャを回しているようなワクワク! 『メギド72』の斬新な戦闘システム


 こういった理由に加えて「単純に手先が不器用」「友だちが少なかった」等の理由もあり、私は対戦や協力という文化その物に触れることなく育った。触れることがなかったので、当然ながら腕前が上達することもなく、たまに他人の家で格ゲーをやっても強パンチ/キックだけに終始する始末。そんな様であるから、ヘタクソと罵られたのは一度や二度ではない。ゲームでボコられ、財布をボコられ、メンタルもボコられ、対戦から足が遠のいていく一方だった。まさに負のスパイラル。両親が『鉄拳』(95年)と間違えて『三國志Ⅴ』(95年)を買ってきたのも致命的だった。少年時代の私は『三國志Ⅴ』を起動しては、領地の農民を苦しめ、家来に無謀な突撃を繰り返させて憂さを晴らす、仄暗いゲーム・ライフを送っていた。そんな私が唯一、思い入れがある「対戦」をしたゲームがある。前置きが長くなったが、今回はそのゲーム……人の心を失いつつあった私を救ってくれた『スターフォックス64』(97年)について書きたい。


 『スターフォックス64』は、その名の通りニンテンドー64専用で発売されたタイトルで、ギネスに載るほどの売り上げを記録したシューティング・ゲームの金字塔的な名作である。プレイヤーは雇われ遊撃隊のリーダー、フォックスとして戦闘機アーウィンを操り、様々なステージに挑戦していく。ストーリーやキャラクターの掛け合いも楽しいが、本作の大きな魅力は単純明快ながら、やり込み甲斐のあるプレイ感だろう。


 前述のように前から来る敵を撃ち落とすのが基本スタイルだが、この敵の配置が絶妙なのだ。「倒さないと危険な敵」と「見送ってもいい敵」が混在し、前者を倒すだけでもクリアは可能だが、いわゆるスコア・アタックをやるなら後者も仕留めなければならない。危険な敵を素早く排除できるように腕を磨き、通り過ぎていく敵に攻撃を叩き込む。このギリギリ感が非常に楽しい。また一定範囲の敵を爆風で倒す「ボム」も奥が深い。複数の敵をまとめて撃墜するとスコアが加算されるため、1点でも高いスコアを狙うなら、最も多くの敵を巻き込める場面でボムを放つ必要がある。何度も何度もプレイして、敵の位置や登場するタイミングを把握し、狙い通りに敵を一網打尽に出来た時の「やってやったぜ!」という喜びは非常に大きい。まさに一人でやり込むことに特化したゲームだ。


 そして多くの人がそうだったように、私も本作に夢中になった。最初は攻略本に従って普通にクリアし、トゥルーエンド、分岐ステージ制覇などをしている内に、気がつけばスコア・アタックの虜になっていた。好きなゲームは幾つもあるが、やり込んだという点において本作を超えるゲームにまだ出会っていない。「1点でもスコアを高くするにはどうすればいいのか?」と、必死に敵の配置を分析し、自機を滑らかに動かすために練習を重ね、同じステージに何度も挑戦する。スコアが伸び悩めば、伸びるまで更にやり込む。生まれて初めて味わう「ゲームの腕前が上達する」という快感に流されるまま、誰に見せるわけでもないスコアを伸ばすため、延々と鍛錬を重ねる。そして、2年が経った。
 ある日、何気ない会話から“それ”は始まった。「加藤はゲーム苦手よね」という会話の中で、たしか自分で言ってしまったのだと思う。「ちょっと古いけど、『スターフォックス64』だけは自信あるよ」と。恥ずかしながら、イキったのである。今になって思えば、自分で言うほどのレベルではなかった。2018年現在、ネットに上がっているプレイ動画を見れば、当時の私がやっていたのは文字通り児戯に等しい。しかし、話していた友人は思わぬ言葉を吐いた。「隣り町にメチャクチャ上手い子がいるのよ。そいつと対戦してみない?」


 やべぇ……と思った。私はスコア・アタックに夢中だったが、『スターフォックス64』には対戦モードもあったのだ。狼狽する私をよそに、友人はあっという間に場をセッティングしてしまった。子どもはお祭りに餓えている。しかも「学校の看板(※いつの間にか背負わされた)を賭けたゲーム対決」なんて、まるで漫画のような展開だ。絶対に裏で金を賭けていた奴もいたと思う。


 迎えた勝負当日。友人の部屋には入りきらないほどの人間が集まった。日ごろ全く交流のない同級生や、さらには対戦相手の学校の応援まで来たのだ(このことからも絶対に裏で金が動いていたと思う)。しかも、友人の母は優しく、子どもたちにカルピスを振る舞った。完全にお祭りだが、私は胃に穴が開きそうだった。ただでさえ対戦が苦手な上に、見ず知らずの、しかも別の学校の人と対戦するのである。おまけに……普通に私が勝ってしまったのだ。ギリギリの勝負ではなく、アッサリと決着はついてしまった。二年間やり込んでいた成果が良くも悪くも発揮されたのだ。


 あの静まり返った空気は今でもハッキリ覚えている。勝者と敗者。勝負をすれば、当然その二者が出る。しかし、結果をどう受け入れるかは別の話だ。私はゲームセンターで敗北に納得がいかず暴れる人を見ていた。他人の家に集まってゲームをする時でもそうだ。私は負け慣れていたが、時には負けて逆ギレする者がいた。静まり返る室内で、わざわざ隣町から来てくれた対戦相手はこう言った。「こいつ凄いよ! もう一回やろう!」


 確かに自己紹介したはずだが、彼の名前も顔も思い出せない。彼が放った言葉が正確かも曖昧だ。しかし、とにかく対戦相手が素直に私を称えて、そこから何回も対戦したのは違いない。対戦はやがてスコア・アタック勝負になり、私が負けて彼が勝つステージもあれば、その逆もあった。お互いテクニックを披露しながらゲームを遊び、やがて各々の門限が迫る頃、「そろそろ帰るか」と普通のテンションで解散となった。その後、彼とは会っていないし、手配をしてくれた友人とも受験やら何やらで気がつけばバラバラになっていた。今になって思うと勿体ない気もするが、小中学生の友情はそんなものだろうとも思う。


 私は対戦が苦手だ。今でも基本的にゲームは一人で遊ぶ。しかし、私は本作を通じて知った。私でも勝てるゲームがあること、負けても対戦相手を素直に称賛できる人がいること、自分自身が負けても楽しいこと、そして楽しい「対戦」があること。私は『スターフォックス64』というゲームを、そしてあの日の対戦を決して忘れないだろう。(加藤よしき)