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『ある少年の告白』が描く深刻な問題と示される希望 ジョエル・エドガートン監督の作風から探る

2019年04月13日 12:11  リアルサウンド

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 一人の少年の告白によって明るみになり、アメリカを驚愕させた“ある事件”……。それは、一部の教会が神の名のもとに、人間性を強制的に変化させようとする、人権を無視した“プログラム”を行っていたという事実だった。のちに書籍化されベストセラーにもなった、この驚くべき実話が、ルーカス・ヘッジズ主演、ジョエル・エドガートン監督作品として映画化されたのが、本作『ある少年の告白』だ。


参考:溝口彰子&奥浜レイラ、『ある少年の告白』の魅力を語る 「新たな“変換期”をみせたと思います」


 現在も同様の被害者を生み続けているという、この事件はなぜ起こったのだろうか? ここでは、ルーカス・ヘッジズをはじめとする出演者たちが表現する人間ドラマが示すテーマや、出演もしているエドガートン監督の作風に光をあてながら、本作で描かれた深刻な問題や、示される希望について考察していきたい。


■エドガートン監督の描く社会の光と闇


 オーストラリア出身のジョエル・エドガートンは、演劇やドラマで頭角を現し、映画ではジョージ・ルーカス監督による『スター・ウォーズ』新三部作のなかで、ルーク・スカイウォーカーを育てることになる農夫のオーウェン・ラーズ役で注目を浴び、また『ブラック・スキャンダル』ではジョニー・デップ演じるマフィアに翻弄される捜査官を演じたりなど、その素朴な容貌から、どちらかというと地味な役にまわる、“いぶし銀”という言葉が似合う俳優だ。


 だが、劇場長編作品を初監督し、主演も果たした『ザ・ギフト』では、異様な行動によって、ある夫婦を脅かし続けるという、何を考えてるのか読みとりにくい不気味な男を演じることで強い印象を残した。そして、続く劇場長編2作目である本作でも、ある教会が行う異常なプログラムを主導し、参加者の人間性を高圧的に変えようとカウンセリングをする牧師の役をエキセントリックに演じている。


 この2作に共通するのは、社会や日常のなかに潜む“闇”である。誰かにとっては順調に見える環境が、他の誰かの目には地獄のように映っている。大勢の思う“普通の世界”からあぶれてしまった人々は、この社会に何を感じ、何を思うのか。ルーカス・ヘッジズが演じる、ある一人の少年を主人公にした本作は、迫害され孤独に陥る存在に対して、共感を持って寄り添っていく。


■人間性は誰にも矯正できない


 さて、アメリカの人々を驚かせた“プログラム”とは何なのだろうか。それは、同性愛など性的指向におけるジェンダー・アイデンティティを持つ人々を、“矯正治療”と称して異性愛者へと変えるというものだ。性的指向を第三者の手によって変化させるということ自体にも倫理的な疑問があるが、その“治療”の内容の多くは、専門家によって、非科学的であるだけでなく深刻なトラウマをもたらすものだということが指摘されている。


 2014年、プログラム経験者に17歳の自殺者が出たことを受け、当時のオバマ大統領が“矯正治療”をやめるように声明を発表し、アメリカの一部の州でこれを禁じる法律が成立したが、現在も34の州では法律が整備されず、これまでに70万人の人々がこのプログラムを経験したという。


 主人公である大学生のジャレッドは、アメリカの田舎町で、父親が牧師を務める家庭に育つ。父親・マーシャル(ラッセル・クロウ)は、ある出来事から、ジャレッドに同性愛者の傾向があると知り、教会関係者が運営する矯正治療を受けるように勧める。母親・ナンシー(ニコール・キッドマン)の運転する車に乗り込み、遠方にある施設へとたどり着くと、ジャレッドは「治療内容を口外しないこと」というルールに同意させられる。そこには同世代の参加者が何人も“治療”を受けていた。その内容は、唖然としてしまうくらいに、あまりに粗雑で稚拙なものだった。


 プログラムの実態を詳しく知らないとはいえ、親たちが、わざわざそんな施設へ我が子を送りこむのはなぜなのか。本作が示すのは、アメリカ社会がいまも引きずり続けている、保守的な考え方である。性的指向への多様的な見方については、以前よりも浸透してきているとはいえ、まだまだ理解が進んでいない状況だ。性的指向に限らず、保守的な社会において“普通”の枠から外れてしまうことは、差別や迫害を受ける危険すらある。そんな環境において、息子が“普通”の幸せを手にしてほしいという親の愛情によって、その指向を治療するべきだという考えが生まれてしまうのだ。


■閉鎖空間の人間ドラマを演じる俳優たち


 だが、そんな矯正を強いることは、あまりに大きな心理的負担を与えることになってしまう。自分の指向に悩み、矯正に応じたジャレッドだったが、その治療内容があまりに一方的で、人権を蹂躙するものだということを理解していく。ジョエル・エドガートンが演じる牧師は、ジャレッドたちの人間性を否定し、彼ら教会にとって異常だと考える行為すべてを“罪”だと決めつけ、連日にわたって責め続ける。


 ロックバンド「レッド・ホット・チリ・ペッパーズ」のメンバーであるフリーが演じるのは、元犯罪者の施設職員だ。彼はそのコワモテの外見と態度で威嚇し、さらには差別的言動によってプログラム参加者に恐怖を与え、心を傷つけていく。たとえ参加者が“矯正”を望んでいたとしても、こんなおそろしい人物に接する必要はないはずだ。その様子は、一部皮肉めいたコメディーのようにも感じてしまう。


 世界的なYouTuberとしても知られる、シンガー・ソングライターのトロイ・シヴァンが演じる参加者は、施設のなかで暴力的な処置を回避するためには、参加者自身もこの茶番のような“喜劇”を演じざるを得ないということを、ジャレッドにアドバイスする。そんな環境に閉じ込められるということが、最悪の“悲劇”だといえるだろう。


■ルーカス・ヘッジズの演じる少年の苦悩


 人間としての誇りを傷つけられていく参加者たちは、互いに長く話し合うような接触を禁じられているため、相談することもままならない。ジャレッドは面会に来た母親にも真実を言うことができず、一人で悩み続ける。孤独な環境で次第に追いつめられていくルーカス・ヘッジズの演技が見事だ。


 本作で初主演を果たしたヘッジズは、ラッセ・ハルストレム監督の『ギルバート・グレイプ』(1996年)の原作者を父に持ち、ウェス・アンダーソン監督の『ムーンライズ・キングダム』(2012年)、『グランド・ブダペスト・ホテル』(2014年)に出演、そして『マンチェスター・バイ・ザ・シー』(2016年)によって、20歳にしてアカデミー賞助演男優賞にノミネートされた若手俳優である。


 過酷な状況のなかでも、「自分とは何なのか」ということを悩み続け、前に進んでいこうと現実に抵抗する主人公の物語は、文学的なテーマに通じている。『エデンの東』(1955年)のジェームズ・ディーンや、『暴力脱獄』(1967年)のポール・ニューマンのように、ジャレッドを演じるルーカス・ヘッジズは、本作によって、そんな系譜に連なるアイコン的な存在になったといえよう。


■社会の縮図としての家族の物語


 本作が描くのは、矯正施設の過酷な環境だけではない。施設の外の社会にも、偏見や暴力が渦巻いている。そして、施設に入れた父親や、それを黙認することで加担してしまった母親とジャレッドの関係にも焦点があてられる。本作の家庭のように、子どもに深い愛情を感じているような両親がいたとしても、このような悲劇は起こる。それは、一部の家庭が考える“幸せ”のかたちが、限定された不自由なものでしかないからである。


 ここで気づかされるのは、このような矯正施設が存在する本当の理由とは、一部のアメリカの家庭が、マイノリティとなった家族のありのままの人間性を認めようとしなかったということだ。演技力のあるラッセル・クロウとニコール・キッドマンが、ジャレッドの両親を演じているのは、この問題において家族の関係こそが最も重要だということを示しているように思える。


 そして、マイノリティが迫害を受け、女性が意見を言えず、父親が強権的に振舞うという、ここでの家族の構図は、ある意味でアメリカ社会全体の縮図であるともいえよう。社会には様々な種類のマイノリティが存在し、全体を構成する一部となっている。それを認めない人々がいることで悲劇が生まれ、社会全体もそのバランスを欠き、悪化していく。それを変えるためには、社会を構成する様々な人々が、それぞれに多様性を認めていくしかない。多かれ少なかれ、誰にでも偏見があり、それが誰かを傷つけたり、自分自身のことを認められなくなる場合もある。それを克服していくためには、できるだけ多くの立場に立った人たちの声を聞いて、自分の考え方を日々更新していくしかない。


 ジョエル・エドガートンは、その光と闇を持つ作家性によって、迫害されはじき出される者の視点から、アメリカのみならず世界中に共通する、この重要なテーマをしっかりと描ききっている。そして、弱者が虐げられる現実が映し出された本作をきっかけに、観客にも世界の見方を日々変えてくれることを期待しているように思えるのだ。(小野寺系)