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堂本剛は時間も空間も超えた大きな流れの中で歌う 『東大寺LIVE 2018』映像から感じたこと

2019年04月12日 09:11  リアルサウンド

リアルサウンド

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 堂本剛が40歳の誕生日となる4月10日に『堂本剛 東大寺LIVE 2018』DVD&Blue-rayをリリースした。本作は、昨年9月15日に奈良・東大寺で開催された、1日限りの奉納演奏の模様を収録したもの。ふるさとの奈良は、堂本にとって「自分のことを愛してあげられる時間が増える」(NHK総合『SONGS』9月29日放送回インタビューより)と語る特別な場所だ。


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 近代的な楽器と鐘の音が共鳴する、幻想的にライトアップされた東大寺。投影されたカラフルな映像は、まるでアニメでタイムマシンに乗ったときに描かれる背景のようだ。時間も空間も超えた大きな流れの中で、歌う堂本。彼にとって、ここは生まれた場所であり、やがて回帰したい場所なのだろう。生と死も、時代の終わりと始まりも、メビウスの輪のように表裏一体の地続きであることを改めて気付かされるようだ。


 赤や青の光に染まる大仏の姿を拝みながら、さらに脳がジンワリとしてくる。かつてこんな風景を寺院で見たことがあるだろうか、と。そしてハッとした。自分の中で“東大寺”と“音楽”をセパレートしていたのだと気づいたからだ。「東大寺でライブ?」と、どこかで思い込んでいたのだ。


 「東大寺さん」「大仏さん」。堂本の口から発せられる言葉は、敬意と親しみが同時に聞こえてくる。歴史や伝統へのリスペクトはあっても、近寄りがたいという感覚はない。彼が東大寺も音楽ライブも、もっと自然な存在で、フラットにとらえているのが伺える。ただ“そこにある”を、そのまま受け入れること。現代社会を生きる私たちは、なかなかその作業ができなくなっているように感じた。


 システマチックに効率化を目指す社会では、画一的なわかりやすさばかりが先行し、曖昧さがどんどん削ぎ落とされていく。できあがった形式にとらわれて、その枠組みの中でしか物事を見られなくなってしまう。自分がどこでセパレートしているかも、気づかないほどに。


 異なるカラーが混ざり合うグラデーションの中で、異なる意見を咀嚼する楽しむ余裕、お互いを許し合う柔軟さ、偶然的に生まれた何かを面白がるゆとり……そんな曖昧さを受け入れる心にこそ“愛”が宿るのではないだろうか。


 〈愛を見失ってしまう時代だ〉。堂本は16年前に、ソロデビューシングル「街」で、すでにそう歌っている。「ジャニーズだから」「アイドルだから」とセパレートされたイメージばかりが独り歩きし、押しつぶされそうになった堂本の心を解放したのは音楽だった。だが、その音楽作品に対しても「アイドルの堂本剛が、本当に作ってるのか」などという冷ややかな反応が起こり、彼を傷つけてきた。


 そんな堂本が愛してやまないのが、FUNKだ。『SONGS』では、MCの大泉洋にFUNKの魅力を伝えるべく、即興演奏を披露した。コーラスメンバーと〈Oh(大) Spring(泉) Yo(洋) Mo-jya Mo-jya(もじゃもじゃ)〉のみの歌詞を繰り返し、堂本の表情を見ながらバンドメンバーが心の赴くままに音を奏でる。気づけば会場には、FUNKとは何かとか、堂本が何者だとか、そんなことにとらわれる人は誰ひとりおらず、ただただそこに鳴り響く音に観客も大泉も体を揺らして酔いしれた。


 「ゆるく、雑談しながら、良い意味で適当にやったほうが、カッコいいものが最終的にできあがる」。公開されたレコーディング風景を見ても、堂本の周りにはいつだって余白が作られていた。締切が迫る中でも、床に置かれたギターケースを見つけて、「座椅子みたい」「席外してる」などと仲間同士で笑い合うのだ。


 生きていることそのものを、そして誰かと心を通わすことで鳴る音に身を委ねる。それが、堂本の奏でる音楽だ。『東大寺LIVE』のDVD&Blue-rayリリースを受けて、ラジオ『堂本剛とFashion & Music Book』で、堂本は「言葉では説明していないけれども、感じ取っていただけるものが、たくさんあるんじゃないかなと思うので、是非、じっくり、その空間にたたずんでもらえたらなというふうに思っております」と語った。


 ただ、感じるままに音楽を味わう。それは、そのまま生きることと向き合う作業なのかもしれない。混ざったり、揺れたり、時には涙で言葉につまったり……音を感じようとする姿勢が、言葉以上に伝わることもある。現代社会に生きづらさを感じている人にこそ、セパレートせず、フラットな感覚で、堂本の鳴らす音に身を委ねてほしい。(文=佐藤結衣)