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菊地成孔の『グリーンブック』評:これを黒人映画だと思ったらそりゃスパイクも途中退場するよ。<クリスマスの奇跡映画>の佳作ぐらいでいいんじゃない?

2019年03月31日 12:01  リアルサウンド

リアルサウンド

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■これ何映画?
 本作は一体、カテゴリー何映画か? 「南北戦争は終っちゃいねえ系の人種差別糾弾映画」全然違う。「(流行りの)バディもの」まあ、ギリ違う。「感動の実話映画」実際に実話だけれども、やはり違う(この点は、ある意味すごい)。「心温まるヒューマンドラマ」まあ、括りが大雑把すぎて、もうほとんどそれでいいじゃないかと思いかけるが、やはり違う。


 筆者は本作を「クリスマスの奇跡」映画、特に「ニューヨークのクリスマスの奇跡」映画の佳作だと思う。歴史上のクラシックスから、誰も知らないマニアックな小品まで、「ニューヨークのクリスマスの1日を描いた、あるいは、クライマックスがニューヨークのクリスマスであるしかも(だからこそ)、奇跡的な何かが起きる映画」の歴史は存在する。『素晴らしき哉、人生!』だとか『34丁目の奇跡』みたいなのだけではない。『ダイ・ハード』も『ホーム・アローン』も『第十七捕虜収容所』だってこの系譜にある。


 このカテゴリーの最大の属性は「善意しかないこと」である。「ニューヨークのクリスマス」映画に、悪意があってはならない。絶対に。何故なら、クリスマスに奇跡が起こるのである。神の、ちょっとした采配によって。


 筆者が勉強不足なだけで、クリスマスに奇跡が起こるかと思ったら、逆にトラウマになるような陰惨な事が起こる映画とか、ニューヨークのクリスマスの一夜を舞台にした、人が何百人も死ぬ戦場アクション映画、主演である子供か若者が難病で苦しみぬいた挙句、ニューヨークのクリスマスの夜に衰弱しきって息をひきとる絶望的映画とかもあるのかも知れない。世の中には、ただ単にひっくり返せば凄い事でもしたかのように錯覚してしまい、それで得意になっている気の毒な人々もいるから、そういう気の毒で安っぽい(考えも覚悟も薄い単なる童貞的なトゥイストは、全て安っぽい)産物も、地下にはあるだろう。


 しかし、悪夢的な『バットマン リターンズ』だって、物語上は結構な悲劇的結末である『8人の女たち』だって、筆者の見る限り、大変な愛と、理知的な善意に満ちている。ティム・バートンは『バットマン・リターンズ』や『シザーハンズ』を、「ちょっとトゥイストしたクリスマスの奇跡映画=善意の塊」であろうとして、若気の至りで果たせきれなかった事を、後年、『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』によって雪辱しようとしているように思える。


■この縛りが、マハーシャラ・アリを
 「新・黒人映画の監督(ニュースクーラー)」とすべきであろう、バリー・ジェンキンス(『ムーンライト』『ビール・ストリートの恋人たち』)の盟友であり、「新・黒人映画」の象徴という格から、金に転んで牙を抜かれた、つまり、ある瞬間のエディ・マーフィーや、あらゆる黒人俳優、または、ゴダールとキツいビーフ関係に陥り(お互いボコボコにディすりあった)、未だに決別したままのジャン=ポール・ベルモンドに比するべき、転向の瞬間を見せた。とすべきかどうか? 筆者の判断では、「(演ずるピアニスト)ドクター・ドナルド・シャーリーが、ゲイだったかどうかの微妙な判断を、ほんのちょっとした、しかし確実な力加減によって、きちんと押さえている。事によって、硬派であり、牙が抜かれた。とするのは早計では、、、、ないかな」程度である。


 話をAAA(米国アカデミー賞)に限定すればするほど、「黒人映画」は可視化しやすい。厳密には「黒人映画のスクーラー分類だが、映画ファンにヒップホップ業界のジャーゴンを使って通じるかどうか甚だ疑問なまま&、ちょっとしたルール違反になるが、筆者が他誌にスパイクの『ブラック・クランズマン』に書いた記事を引用する(編集部注:初出「タワーレコードintoxicate vol.138(2019/2/20)」/Mikiki)。


■以下引用(原稿に加筆修正)
 本稿が出る頃には雌雄は決しているだろうが、少なくとも今年のAAA(米国アカデミー賞)最優秀作品賞レースに於いて、本作『ブラック・クランズマン』と、狂ったように面白いが、タイトルも内容も基本的に狂っているとしか言いようがない、“アメコミ映画初のノミニー”『ブラックパンサー』が激突していること、そして作品賞のノミネートこそ逃したが(AAAのアソシエーションに強く抗議したい。お前ら正気か?)バリー(俺たちに明日はなく、従って『ラ・ラ・ランド』に作品賞はない)・ジェンキンスの『ムーンライト』に次ぐ、そして『ムーンライト』よりも遥かに高い一般性と完成度に満ちた傑作『ビール・ストリートの恋人たち』が、脚色賞、助演女優賞、作曲賞のノミニーとして脇から迎撃するという構図を見せる2019年SSのブラック・ムーヴィー状況は非常に豊かで喜ばしい。


 『ブラック・クランズマン』は一見ブラックスプロイテーション映画のパロディ・コメディの態だが、その実ガッチガチの怒れる社会派であり、「骨太で滑稽で怒っている」オールドスクーラーであるスパイクが、自分の生徒であり(スパイクの先生業は伊達でもバイトでもなく、ニューヨーク、コロンビア、ハーバードで常勤。映画についての教鞭を執っている)、ニュースクーラーとして次代を担う、ジェンキンス、(ジョーダン・)ピール等の台頭と、彼らの師へのリスペクト&プッシュ、そして「Twitterをやってる二人目の大統領(オバマは「やってない」に等しく、実際には「Twitterを一般人の様に活用した最初の大統領」)」であるトランプに対する怒りから突如迷走状態を抜け、いきなりギンギンに勃ちまくった快作であり、一方『ブラックパンサー』は、マーベルのラインナップの中でも飛び抜けて変わった作品で「そら恐ろしいような未来型のブラックスプロイテーション映画であり、ブランニュースクールである」と評価できる。


 AAAもBETA(Black Entertainment Television Awards) も、公民権運動ジャスト50周年である2014年にはブラック・ムーヴィーは寧ろ鋭意製作中で、明けて15年(因みに、本作でも一部クリアランスされて引用される、KKKルネッサンスを推進した『國民の創生』からジャスト100周年!)に『グローリー/明日への行進』が独り暴れしつつも今ひとつ(作品賞受賞は、協会員によるアンチ・トランプの側面もあったかなかったか、メキシコ系アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥの『バードマン』)、空けて16年はブラック・ムーヴィーなく、白人によるカソリック教会告発映画『スポットライト』が作品賞受賞、更に空けて17年はジェンキンスと並ぶブラックムーヴィーのニュースクーラー、ピールによる佳作『ゲット・アウト』を、<オタクの市民権>『シェイプ・オブ・ウォーター』に制され、記憶に新しい18年は、前述の「『ムーンライト』が壇上で『ラ・ラ・ランド』をストライクアウト」事件があり、今年になだれ込んだ。スパイクから続く(と、筆者が仮説&命名する)「南北戦争は終わっちゃいないぜ」映画の、新旧入り乱れた真の豊穣までは、公民権法制定50周年から、更に4年の熟成を必要とした。


 ニュースクーラーがオールドスクーラーに対し、審美的でクールで知的でソフトタッチになり、場合によっては加重差別としてのゲイ感覚を持ち込むことは、黒人音楽も黒人映画も変わらない。本稿は『ブラック・クランズマン』の批評が目的なので詳述は避けるが、事をバリー・ジェンキンスだけに絞っても、前述の要素を総て持っており、ファンクやヒップホップではない、フランス近代の様な音楽と、ブラックスキンを光学的な新しさによって照らし直し、ゲイ感覚満載のシルキーでカラフルなソフトタッチと、まるでフランス映画の様な美しく可愛い衣装(『ビール・ストリートの恋人たち』の「恋人たち」は、あきらかに『ロシュフォールの恋人たち』に起因しており、作品自体の骨組みと、画面の質感は『シェルブールの雨傘』に近似している)、しかし内包されている怒りは震えるほど。うっかり「マイルスの音楽みたいだな」と口走ろうとすると、実際に「カインド・オブ・ブルー」が、思ってもいない、審美的なセンスで引用されるという有様。


 こうした、伝統を踏まえたニュースクーラー、前述の“マーベルの鬼っ子”である『ブラックパンサー(「連合赤軍」って名前の正義のヒーロー集団が出て来るエンターテインメント大作みたいなモンだからして)』のような遺伝子操作的作品に対し、堂々とスパイクが立ち上がった。ストーリーは検索すれば嫌っちゅうほど読める。デンゼル・ワシントンの倅は、真剣な顔して走ってるだけで笑える、最強のブラックスプロイテーション俳優だし、バディ役のアダム・ドライバーも手堅く達者で、前述『國民の創生』だけでなく、『風と共に去りぬ』、極端にエグイ、デモ行進中の、自家用車による轢殺事故を撮影した素人スマホ映像や、KKKのウィザードがトランプ支持を明言するニュース映像まで豊富にコラージュした、オールドスクーラーのお手本みたいな映画だ。何せ、この、実話を基にした脚本の映画化権は、他ならぬピールが持っていて、スパイク向きだと監督を依頼したのだから。


 唯一の悪点は、テレンス・ブランチャードのOSTが、ブラックスプロイテーション映画のパロディなのか、社会派のシリアスでリアルな感触なのか腰が引けてる所、せっかくのソウル/ディスコ/ファンク・クラシックスの、出のタイミングがグルーヴ悪く、腰が動いたり首を突き出したりが気持ちよく出来ない点で、これ実は『ドゥ・ザ・ライト・シング』から始まっている「スパイクは実は真面目なシネフィルで、音楽的にはノリ悪い」という、マルコム Xにも似た(マルコムは青年期までダンスが踊れなかった。踊れる様に成って、あのマルコム Xになった)属性が、作品の性質上、目立ってしまってる所だけ。良いよそれでもプロフェッサーS。『シャフト』よりも『夜の大捜査線』よりも、何しろお前がオールドスクーラーだ(引用終わり)。


■つまりこう云うことだよブラザー
 合衆国には映画におけるヒップホップがある(「ヒップホップの映画」ではない。ラッパーの伝記映画とかね)。スパイクをそのオールドスクラーとし、バリー・ジェンキンスをニュースクーラーとし「ブラックパンサー」は、ブランニュースクーラーだとする(あれはマーベルだからヒップホップ映画の筈ねえじゃん。と言われても仕方がないんだが、詳述は後ほど、あれはブランニュースクラーで良い)。そして、やっと新旧の才能が激突し合うバトルフィールドでありプレイグラウンドである、即ち、「ヒップホップの場所」がやっとAAAに設けられたのである。そんなもん、クルーが全員ガチンコになるのが普通の話だろ。


■そしたら(笑)
 全然ヒップホップじゃない、白人様ご謹製である「ニューヨークのクリスマスの奇跡」映画が、鳶が油揚げをさらう格好でオスカーをさっと持って行ってしまったのだ(笑)。スパイクは、作品賞が本作に決まった瞬間、会場を後にしている。ハメられたなプロフェッサーS(笑)。しかしだ。ラッパーの端くれとして言わせてもらうけど、例の「ホワイトアカデミー」発言をちゃんと聞き入れてもらったとでも思ってホットになったんだとしたら、悪いがヤキが回ったとしか言いようがないね(笑)。


 と云う長い前提を読んで頂かないと、本作の意義も完全には通じない。ストーリーの評価だけするなら、これは善人ばかりが出てくる、心温まる作品。それだけだ。


■ストーリーはワンツイストのみ
 アフロ・アメリカンとイタリア移民の友情。いろんな描き方があるだろうが、ここではアフロ・アメリカン(以下、「黒人」)がインテリジェントでハイプライドなVIPで、イタリア移民(以下「イタリア人」)が、まあ、ブラザーである。というか、この話は実話ベースだ。北欧人とカナダ人のハーフである、ヴィゴ・モーテンセンが、ここまでイタ公役を見事に演じたのには(いくら幼少期に南米でスペイン語で育ったとはいえ)驚きを禁じ得ない。他国人で、ここまでナスティなイタ公を演じられるのはピエール瀧以外考えられない。


 っつうか、この話は実話ベースである。イタリア人トニー・バレロンガは、トニー・リップ即ち、『ゴッドファーザー』『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』グッドフェローズ』とか、テレビドラマとかで「この人、役者じゃないでしょう。本物でしょう」というギャング役を演じた洒落者であり、ニューヨークの伝説のナイトクラブ「コパカバーナ」で店長だった人物だ。


 まあまあ普通に人種差別主義者だった彼が、少なくともアフロ・アメリカンに対する偏見を捨てる旅をこの映画では描いている。ニューヨーク発の旅は、2ヶ月かけて(実際はもっとずっと長い)、ニューヨークのクリスマスというゴールに向けて走り出す。


 Dr.ドナルド・シャーリーの演奏や音源が、今、YouTubeで気軽に聞けるのかどうか筆者はまだ試していないが、多くのアメリカ人のうち、ジャズファンは彼を、「クラシック出の癖に、お高く止まったジャズまがいをやっている」と思っているし、クラシックファンは「時代が時代で、クラシックをやらせてもらえなかった、黒人クラシックピアニスト」と思っている。


■劇中の彼の演奏の「?」感が
 この作品のアウラを一段上に引き上げる。ネタバレはしたくないが、クライマックスの(それはとても感動的な)演奏シーンまで、彼と、ドイツ人のコントラバス、ロシア人のチェロのトリオが、ディープサウスで演奏している音楽のジャンルが、なんだかわからないだろう。ここのきめ細やかな音楽考証が、本作をして、凡百の(と言って良いと思う。これは最高の意味で、小さな映画であり、心温まる佳作以上でも以下でもない)異人種間ヒューマンドラマを超え、迫真の何かを付与している。「?」の連続が、推測上のサスペンスを生み、やがてクライマックスで爆発する構造は、音楽家を扱った映画史の中でも、類例が全くない。


 音楽以外にも建築や心理学も修め、カーネギーホールの高層階に住まうセレブリティ黒人が、敢えてディープサウスを、タキシードに身を包み、欧州人をバックに、明らかにクラシックタッチの、作曲作品としてのジャズ風クラシックを演奏する。


■「果たして、その結果は?」
 というサスペンスは物語の中には一切ない。これがなんと、どこに行っても、普通にリスペクトされ、大変なアプローズを受ける。要するにウケまくりなのである。イタリア人は彼の天才を知る。黒人が受ける屈辱は、トイレに入れない、レストランには入れない、控え室が物置である。と云った、ジャズミュージシャンなどと全く同じ、アレだ。ステージ上では紳士だが、ステージ下では気持ちの悪い猿だ。しかも、彼を掘っ建て小屋のボッタン便所に行くように命じる、彼を物置で着替え、食事を摂るように命じる白人たちは口を揃えて言う「私個人の決定じゃない。私は人種偏見はありません。上の決まりで(あるいは「この店のしきたりで」)」


■ストーリーに斬新さは
 前述の、黒人が、どうやらおそらく、だが、ゲイであろう。と云うほのめかし以外には何もない。と言っても良い。前述の、そもそもの、演奏される内容とそれに対する聴衆がもたらす「?」と、ゲイかも。それで十分なのだ。あらゆるエピソード群は、どこかで見たことがあるものばかりが、見事に組み合わせられている。さては職人の仕事であろう。


 あとは、ニューヨークのクリスマスまで、つくりもんの一定量の感動が、前述の音楽の適正な扱いによる抑制効果もあって、お涙頂戴の下衆感なく、上品に上品に通奏される。さては職人の仕事だ。


■そして監督はあの
 ピーター・ファレリーである(白人)。ジム・キャリーの『Mr.ダマー』とかキャメロン・ディアスの『メリーに首ったけ』でヒット飛ばして、それ以外は、そこそこ普通の、あの彼だ。仕事する以外、何をする? 彼に合衆国民としての問題意識がどこに? エリート黒人は中盤で、自分のアイデンティティの多重性について、雨の中、絶叫するようにイタリア人に問いかける。このシーンの軽さよ。さすが『メリーに首ったけ』で一瞬天下を取った職人監督である。


■しかし、しつこいようだが
 本作は、適度な新しさを加えた、とても安全で優秀な「クリスマスの奇跡」映画だ。選曲担当(「ミュージカル・スーパーヴァイザー」と肩書き名が、最近やっと浸透した。OSTを書く作曲家と別に、既成曲を選曲して、劇中に流す仕事)者の仕事は、もう完璧(ディープサウスの各地に向かう、その向先を歌い込んだサザンソウルが流れる)とも言えるし、誰でもできる、とも言える、つまり最高だが、イージージョブである。イージーで何が悪い。黒人のポップ・ミュージックを知ってるのがイタリア人で、黒人は1曲も知らない。その設定に、リトル・リチャードが流れる。その繰り返しに、何の文句がある。


 筆者はつくりもんの定番品、その最も新しいやつで、安心して泣いた。合衆国民以外の特権だ。本作は古いボトルに新しいワインを注ぎ、大成功した例で、何の教訓も、考えさせるものもない事すら「実話だから」と云う大義で正当化される。そこそこよくできた娯楽作である。怒れ、強面だが理屈っぱいプロフェッサーS、怒れ、優しげだが胸に秘めた怒りはプロフェッサーどころじゃない完璧主義者ジェンキンス。怒れ、陽気で狂ったコメディアンであり、プロフェッサーのマイメンでもあるジョーダン・ピール。お前らは『グリーンブック』の受賞について、クソだらけに罵って良い。俺たちは罵れない。泣いてるし。ちなみに、タイトルは悪い。象徴的でもないし、気も利いてない。(文=菊地成孔)