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福井晴敏が語る“ヤマト・ガンダム論” SFアニメとしての違いは?「NT」「2202」を終え次は?【インタビュー】

2019年03月27日 13:02  アニメ!アニメ!

アニメ!アニメ!

福井晴敏
2019年3月1日より上映がスタートした『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』第七章「新星篇」<最終章>と、昨年2018年11月末に公開されヒットを飛ばした『機動戦士ガンダムNT』(以下、『ガンダムNT)』。

日本のアニメ史に大きな影響を与えた『宇宙戦艦ヤマト』と『機動戦士ガンダム』という、2つの作品の最新作とリメイク作品の物語を構築したのは、小説家の福井晴敏だ。

現在はアニメーションをはじめとした映像作品の企画や脚本、シリーズ構成に軸足を置き積極的に活動している福井は、日本を代表する2大SFアニメを題材にし、それぞれにどんな思いを込めたのか? 2つの作品をさまざまな角度から対比し語ってもらった。
[取材・構成=石井誠]

■「歴史を描く」という認識で臨んだ『ガンダム』の物語構築
――『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』(以下、『ヤマト2202』)、『機動戦士ガンダムUC』と『ガンダムNT』、というSF的世界観が背景にある戦争を描いた物語を手がけてきたわけですが、それぞれの作品を描くにあたって、気にかけた部分はどこですか?

福井
『ガンダム』に関しては、「歴史」ですね。宇宙世紀と言われる人類が宇宙で暮らすようになってからの歴史は、100年にも満たない。
例えば、起源から1000年とか2000年が経過しているような歴史であれば、どんなテクノロジーを描いてもいいと思うけど、宇宙で暮らすようになってわずか100年も経っていないような歴史であれば、短い期間でどんなことが起こったのか、どんな問題があったのか想像ができる。

『ガンダム』作品は、その問題を描くこと、つまりその歴史を描くという感覚でしたね。
しかも、その「歴史」は自分で作り出すのではなくて、すでに年表も含めて歴史としてしっかりと存在している。
それこそ、『三国志』の歴史を吉川英治さんや北方謙三さんがそれぞれの解釈で描くということと、俺が『ガンダム』を描くことは心理的にはそんなに違わないんじゃないかと思っています。

『ガンダム』はフィクションで現実にあったことではないと言うかもしれないけど、じゃあ、三国志に登場する人物に会ったことあるのかと。
誰も会ったことがないですし、そもそもあんな英雄物語はフィクションに近いはずです。架空のものだからこそリアルに人の歴史として紡ぐことができる。
そういう批評精神を持って作れるということが、『ガンダム』作品は面白いと思いましたね。



――『ガンダム』作品は歴史物として魅力があるということですね。

福井
『終戦のローレライ』という小説を書いた時にそういう歴史ものの面白さというか、可能性みたいなものをちょっと感じていたので、そこから『ガンダム』へ行くのは何の抵抗もなかったです。
言ってしまえば、マイナーな人気しかない実際の歴史戦争ものから、よりメジャーな歴史物へとジャンルを変えたというような感覚ですね。
こっちの方がそうした批評精神を持った歴史ものを書けるというなら、架空かリアルかなんて関係ないという感じでした。
→次のページ:日本人の精神性が象徴として描かれる『宇宙戦艦ヤマト』

■日本人の精神性が象徴として描かれる『宇宙戦艦ヤマト』
――『ヤマト2202』に関しては、また違った感覚で臨まれているんでしょうか?

福井
『ヤマト2202』に関しては歴史という部分はまったく意識していなくて、『宇宙戦艦ヤマト』という設定だけが存在してという認識ですね。
40年前に作られた映画『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』という当時大ヒットを記録した作品があって、これを現代にどう甦らせるか? 甦らせた時に今の人に何を見せるべきか?
それを考えた末に、『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』を作り直すということでなければ、やれないことがあるなということに気付いたことが取っかかりでした。

これがもし、『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』ではなく、いわゆる続編を作って欲しいと言われたらやっていなかったかもしれないですし、リメイクの『宇宙戦艦ヤマト』をゼロから立ち上げるなら、俺よりも得意な人がいるんじゃないかと言っていたと思います。至高のラストを描いた40年前の作品があり、それに涙した当時のファン、それを今の若い人も一緒に観るかもしれないと思った時に、その2つの世代が並ぶ状況はすごく面白みがあって、仕事を引き受けました。

そう言う意味では、『ヤマト2202』に関しては、歴史やSFものではなく、「風刺もの」という捉え方をしていますね。



――時代を映す鏡みたいな部分がありますね。

福井
そうですね。現代日本というものを、ヤマトを中心に浮かび上がらせていくという。『宇宙戦艦ヤマト』というのは、そういう作品だったと感じます。
ヤマトという艦は、日本人の精神の形なんですよね。
第二次世界大戦の終戦時に多感な少年だった制作陣が、ある程度の年齢に達して好きな作品を作れるようになり、「あの戦争とは一体なんだったのだろうか?」ということをスペースロマンとして描こうとした作品なんです。

――そうした重さは「ヤマト」という名前にはありますね。

福井
現在は、我々は平和に暮らしているけど、受験戦争をはじめ他者を押しのけないと勝てない、生き残れないという状況は続いている。
「戦争で全滅すれすれまで行った我々というのは、もっとそんな争いではなくて、愛し合い、分かり合わないといけないんじゃないか?」という思いが込められた作品が、最初に作られた『宇宙戦艦ヤマト』という作品なんですよね。

それに続いた『さらば宇宙戦艦ヤマト』は、劇中では1年しか経っていないんですが、ガミラスとの戦いの後の状況を「戦後」という状態を描くことで、まさにあの時代を描こうとした。
それは、これから70年代が終わった80年代になって、バブル退廃期がいよいよ始まるというタイミングで、「このままで本当に良かったのか?」と思っている状況ですよね。
そして、そこに巨大な彗星で移動する敵が現れて、強大な力によって「グローバリズムに従え」と言ってくる。それに対して、「従いたくない。人間性を失うくらいなら死にます」と敵に突っ込んで死んでいったという凄い話を描いている。

ひるがえって現代はどうかと言うと、金権主義に組み伏せられてしまった我々のような大人がこれを見るわけですよ。
そうなると、あらかじめ喪失してしまっている何かを回復していくということになるかもしれないし、いかに喪失したかということを再確認する物語になるわけですから、いずれにせよ現代を映す鏡にならなくては意味がないだろうと思っています。

『ヤマト2202』では、『ヤマト』という作品が持っている社会派としての風刺ものというラインを忠実に守ったという感じですね。
だから、『ヤマト』はSFという文脈とは違うかもしれないけど、SFというのは大きな構造のひとつに実は風刺物、批評物というところがあると思うんですよね。
→次のページ:『ガンダム』と『ヤマト』の物語に見える「集中と拡散」

■『ガンダム』と『ヤマト』の物語に見える「集中と拡散」
――一方、『ガンダムNT』では富野由悠季監督が描いたニュータイプ論について、もう一歩踏み込んでみようという試みを感じたのですが、そうした意識はありましたか?

福井
『ガンダムNT』では、精神論でしかなかったニュータイプという概念を、劇中の人間がどう捉えているかという具体論に少し置き換えていますね。精神論としてより先に進んでいることではないです。

劇中の登場人物が言っているように、多くの人は現象しか理解しないので、その理由にあまり眼を向けないんですよね。
そうなると、モビルスーツをすごく強く動かせる人=ニュータイプということになってしまう。それは、富野監督が提示したものとは大きくかけ離れている。

劇中世界でニュータイプはどんなに摩耗されても顧みられなくなったということと、劇中の動きと現実世界の動きは悲しいほどシンクロしているんですよ。
それこそ、ニュータイプがゲームのように消費され、使い果たされているという。
そうであれば、もうちょっとそこは自覚したいというか、「今までのことを拾い集めてみるとこう言っているよ」ということくらいは、一旦言葉にしておこうと。そんな感じでしたね。

だから、ニュータイプの表現に関しては、何を足したという意識ではなく、起こっていることを「解説」するとこうなったという感じですね。

――お話を聞くと、『ヤマト2202』は大きく広がり、『ガンダムNT』は人に焦点を当てて寄っていくという、「集中と拡散」のような対比的なイメージがあるんですが、そうした印象はありましたか?

福井
そういう意味で言うと、同時期に関わっていた作品なので、同じものをやっていてもつまらないという意識はあったと思います。
仰る通り、『ヤマト2202』は大きく広がっていく物語なんですが、最終章である第七章は驚くような勢いで個人に収斂していく展開が待っています。

対して『ガンダムNT』はミニマムなところを突き詰めていくようであって、最後は『ガンダム』史上初めて本当に銀河に向かって飛び立つガンダムが出現して、すごく遠くに、広い方向に向かっているので、そう言う意味では対象的ですよね。

――話の広がり方やまとまり方は違いながらも、描こうとしているテーマ性は意外なほど似ているという感じですね。

福井
似ていますね。やはり、両方ともベースとなっているのは70年代の同じ時期に生まれたものですからね。
『宇宙戦艦ヤマト』も『機動戦士ガンダム』も当時のヒッピー文化を引き受けた後のニューエイジ文化など、あの辺りの影響をガッツリと受けながら作られているわけですから、発想がどこか似ている。それは『スター・ウォーズ』も一緒ですよね。

→次のページ:作品性を比較することで見える『ガンダム』と『ヤマト』の違い

■作品性を比較することで見える『ガンダム』と『ヤマト』の違い
――『宇宙戦艦ヤマト』と『機動戦士ガンダム』に関して、ファンはどちらもSF的なアニメーションとして捉えている一面があると思いますが、送り手側としてはそれぞれに関連した作品を描くにあたって、SF的な部分で気に掛けていることはありますか?

福井
『ガンダム』の場合は、全てにおいてどこか辻褄を合わせないといけない。
宇宙世紀という世界に生きている人間ならこうであろうという部分まで突き詰めないといけないというのがあります。

『ヤマト』に関しては、そんなところを突き詰めていくと、「なぜ、海で運用する艦船の形状にこだわっているんですか?」と言われた場合に、その説明は何も無いわけです。
それこそ、『ガンダム』の場合は「2本の角は索敵用のアンテナで、眼が2つあると遠距離と近距離の距離感を両方捉えることができる」というようなメカニックのリアリティのある理屈があるんですが、『ヤマト』はそもそもそういう発想で作られていない。なのでそうした部分を突き詰めてデザインや世界観を先鋭化させようとすると、『ガンダム』よりも劣ったものになってしまう。

だから、別のところで戦わないとならない。
『ヤマト』に関しては、「昔々、あるところに……」というくらいのザックリとした感じになるけれど、その代わりにそうした語り口だからこそできる「大きな話」がある。
「大きな話」というのは、大振りということではなく、子細を見ると俺たちが今生きている世界がそこに投影されているんだという豪華さを見せることができる。
それこそ、何万隻もの艦隊戦とか。そこが『ヤマト』の肝かなと。

対して『ガンダム』は「何月何日何時に誰々がどこにいた」というところまで突き詰めて描かないとそもそも世界が発生しないし、何も動かない。そういう違いがありますね。

――そういう意味では、『ヤマト2202』は『ガンダム』作品にはないダイナミズムを主眼に置いて作劇されてきたのかなという印象はありますね。

福井
自分たちではとても制御できない物量に溺れている感覚というのは、誰もが経験していることだと思うので、逆に取り入れたというところがありますね。

――それは、現在のネット社会的な情報量ということでしょうか?

福井
それもあるし、もう少し前からの状況を言えば、地球を7、8回は滅ぼすことができる兵器というものも我々は持ってしまっている。
そういう部分での息苦しさ、逆に壮大な中に押し込められた科学の砦みたいなものの中にも息絶え絶えで押し込まれてしまっている状況というのに、人間はすっかり慣れてしまっていて、あまり意識しなくなっているという怖さがありますよね。

『ヤマト2202』の場合は、そうした界面を突破してしまう瞬間に立ち会ってしまっている人たちの話なので、その怖さというのが身に染みてわかる。
結果の無残さがわかる人たちの話になっているので、その辺りを考えながら、40年前の日本人の心性を持った人が、今現在のこの環境に置かれた時に、どれだけストレスを感じただろうと思いを馳せている部分もあるわけです。

当時と違って、自分の心の中のいろいろなものを裏切っていかないと社会の折り合いが付かなくなってしまっている。
それは、古代進が波動砲をどう扱うかと悩む部分も含めて、自分の中にいる、自分くらいの世代の人々がどこかに置き忘れてしまった、本来の未来はこうなるべきと信じていた頃の真っ直ぐな気持ちを、古代進という主人公に収斂させている。
そうした構造も『ヤマト』という作品ならではで、古代進という人間に現代日本人の心性を乗せて、どういう風に描きたいかということだけのために全ての物語が配置されています。

対して『ガンダム』というのは、大きな社会の流れや枠組みというのがあって、その中でそれを全く変えることができないという一個人が、その世界でどのように何かを得て、何を失うかという話になっていて、個人のための世界が設定されていない。そこが大きな違いですね。

――そういった前提を踏まえ、『ヤマト2202』第七章はどのような結末を迎えるのでしょうか?

福井
ベースとしている『さらば宇宙戦艦ヤマト』は先に劇場版を公開し、その後『宇宙戦艦ヤマト2』という形でTV放送されていて、どちらも結末が違うんですよね。
よく「どちらの結末にするのか?」という話を皆さんはされているんですが、どちらとも違う形で最後を迎えます。
これまで視聴してきた側は、古代たちがどう戦い、どう苦しんできたのかを画面の向こう側のこととして、観て、知っているわけですが、最終的な選択というのがまた突きつけられることになります。

でも、それに答えられるのは、観ているあなた達なんです。
これは比喩ではないですし、画面の向こうから語りかけるわけではないんですが、本編を観ながらいきなり自分が当事者になった感覚を味わうことになると思います。
それは、フィクションの中で想像してということではなく、観ている人たちもつい数年前にこのような選択を突きつけられたはずで、その時にどうしましたかということを改めて考えさせる最終回になっていると思います。

■『ヤマト2202』と『ガンダムNT』に共通するテーマとは?
――『ヤマト2202』が終わり、『ガンダム』関連でも『ガンダムNT』が終わり、ひと段落ついた現状に関しては、それぞれの作品に対してどのように感じてらっしゃいますか?

福井
『ガンダムNT』に関しては、めちゃくちゃ引っ張って終わっているので、自分としてはひと区切りついた感じはないですね。次なる作品に向けての作業も何となく始まっているのもそう思う理由かもしれません。

そんななか、この『ヤマト2202』と『ガンダムNT』を総括してみると、これは結果的になんですが「死」をどう捉えるかという部分はすごく似ているなと感じましたし、そこに言及している作品だと思いますね。
死後の世界をはっきりと規定しているわけではないんですが、いずれ終わる命をどう捉えるか? それは両作品とも、俺もそうだけど死を射程に捉える年代の人たちが観るようになっているからこそできるテーマかもしれませんね。

身近な部分でも捉えることができ、期せずしてどっちも死んだ人と話ができる世界になっているわけですから。
その死人の魂的なものの意識とは、そもそも何だったんだろうという、死生観で言うとどちらも繋がっているところはあります。
そうした部分に着目して、『ガンダムNT』と『ヤマト2202』の2作品を見比べてもらうのも面白いかもしれませんね。

――クリエイターとして、今後「こういうものをやってみたい」というような意識はありますか?

福井
現状で言うと、今後5年くらいは依頼が来たものを打ち返すのが精一杯で、なかなかやりたいことという部分のお答えは難しいですね。

ただ、間違いなく意識していきたいのは、どんな形であれ今を生きている人たちが観たり聞いたりするものですから、観る前と観終わった後では、世の中が少し違って見えるような、現実に応用可能なものを今後も提供していきたいなと思います。
スクリーンの向こうだけで楽しいことがあって、それを観て一時の気晴らしをしてお終いというような作品は、うちの商店では扱っていませんよと。
フィクションの効能というのは、作品を観て自分を見つめ直すことだと思うので。

押井守さんが言っていたんですが、人間は自分の始まりと終わりを観ることができないから、始まりと終わりがある映画やフィクションを見て自分を対象化すると。
それはまさに仰る通りだと思いますので、そのポイントは今後も見失わずにやっていきたいと思っています。