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『グリーンブック』観客を楽しませつつ啓蒙する“大衆性”の是非 批判を生む背景から考える

2019年03月13日 08:01  リアルサウンド

リアルサウンド

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 2019年2月24日(現地時間)におこなわれた第91回アカデミー賞。注目の作品賞は『グリーンブック』に与えられた。社会性の強い題材は作品賞に選ばれやすい傾向があり、近年に限っても、奴隷制度を扱った『それでも夜は明ける』(第86回)、報道機関の独立性を描いた『スポットライト 世紀のスクープ』(第88回)、同性愛をテーマにした『ムーンライト』(第89回)といったフィルムが作品賞を受けている。こうした経緯からも、差別の根強い1960年代のアメリカ南部を、黒人ミュージシャンの演奏旅行を通して描いた『グリーンブック』は、アカデミー賞らしいセレクションであると言える。


参考:『グリーンブック』はアカデミー賞作品賞にふさわしかったのか? 批判される理由などから考察


 本作の主人公は、イタリア系アメリカ人の男性トニー・バレロンガ(ヴィゴ・モーテンセン)。腕っぷしが強く、どんなトラブルでも解決する度胸とたくましさで知られており、ニューヨークの人気ナイトクラブで用心棒をしている。トニーはある日、黒人ミュージシャンのドン・シャーリー(マハーシャラ・アリ)から、運転手兼ボディーガードの仕事を頼まれる。ドンは、アメリカ南部の演奏会場をツアーする計画があるのだという。生活のために仕事を受け、ドンをさまざまな演奏会場へ予定通りに連れていく役割を負ったトニー。もともと黒人には偏見を持っていたトニーだったが、南部における黒人差別の実態を目の当たりにし、それまでの凝り固まった考え方を変えていく。


 本作の作品賞受賞には、さまざまな否定的意見が出た。『グリーンブック』は人種差別問題を描いた作品でありながら白人優位主義的であり、テーマをとらえ損ねている、といった批判だ。劇中、主人公は救世主のごとき白人男性であり、黒人は「白人によい変化をもたらすためだけに登場した便利なキャラクター」にとどまっているではないかーー。かくして観客層である白人は、自分自身が絶対的な悪の側ではないと感じられ、問題の当事者として名指しされることなくストーリーを楽しめる、というわけだ。こうした批判については、いくつかの記事(例: https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-47367572 )にわかりやすくまとまっている。たとえば今回、『ブラック・クランズマン』で作品賞の候補になっていたスパイク・リー監督は、いかにも不満そうであった。警官による黒人への暴力を描いた『ドゥ・ザ・ライト・シング』(’89)で知られる彼は、人種問題を長らく主題としてきた映画作家である。アカデミー賞授賞式後に、彼が『グリーンブック』について語った映像を見ると、冗談めかした口調やくだけた態度であるにせよ、作品賞の結果に納得していないことが伝わってくる。


 こうした経緯から連想されるのは、かつて『シンドラーのリスト』(’93)が上映された際に起こった批判である。ホロコーストにまつわる映像作品として、確実に最高傑作と呼べるドキュメンタリー映画『SHOAH ショア』(’85)を監督したクロード・ランズマンは、鋭い口調でスピルバーグ批判をおこなった。この経緯は、山口一彦著『S・スピルバーグ、「シンドラーのリスト」の光と影』(近代文藝社)に詳しい。同書を要約すれば、ホロコーストはあまりに前代未聞な事件であるため、それが何であったのかを言葉や映像で表現することができない(表象不可能)というのがランズマンの主張である。ホロコーストは人類史上に於いてもきわめて異様な事態であり、その想像を絶する恐怖を安易に物語化することは非倫理的である。その絶対的恐怖をわかりやすいドラマに落とし込み、「予定調和的解決」へ向かったのが『シンドラーのリスト』である、というのが作品批判の主旨であった。確かに、人間をベルトコンベア式に大量殺害するという発想を、現実的に実行可能であると誰が想像するだろうか。その途方もない行為について、どのような説明ができるのだろうか。大虐殺を目撃した青年が述べた「誰も信じないだろう、こんな光景が現実だとは思えないから」という言葉(前掲書 p74)からは、ホロコーストが人間に認識可能な現実の範疇を遥かに超えた事件であったことがうかがえる。


 むろん、ランズマンがホロコーストを語る際みずからに課した上記の倫理は尊重すべきである。しかしランズマンの倫理は、ホロコーストを深く考え抜いた者にしか到達しえない、ほとんど哲学的な領域にある。こうした深い認識を多数に求めることは、難しい要求ではないか。むしろ現実的に必要なのは、かつてホロコーストが起こったという歴史的事実の周知であろう。山口はこう述べる。「消費される懸念よりいかに伝えるかという伝達と啓蒙の方が優先されなければならない」(前掲書 p46)。ホロコーストとはいったい何だったのか、現代において人びとに十分な知識や理解が行き渡っているかといえば、心もとない。たとえ厳密には問題についての掘り下げが甘いとしても、事実を人びとに広く知らせること、理解してもらうことは貴重ではないか。『グリーンブック』で黒人ピアニスト役を演じたマハーシャラ・アリは、こう述べる。「観客の中には、(黒人である)スパイク(・リー)やバリー(・ジェンキンス)の映画は観に行かないという人もいるのが現実。その人たちは、(白人である)ピーター(・ファレリー、本作の監督)の映画なら笑わせてもらえるだろうと思って観に行くかもしれない。そして実際に爆笑させられ、でも、思いもしなかったことを考えることになるかもしれない。そこには価値があると僕は思う」(劇場用パンフレット内記述)。


 こうした点からも、『グリーンブック』に対する批判は『シンドラーのリスト』批判に近いと言えるのではないか。『グリーンブック』を通じてさまざまな議論が起こったという事実ひとつ取っても、歴史的背景や文脈をそこまで深く理解しているわけではない日本にいる映画ファンには、ひとつの学びとなる。また作品タイトルが、南部を旅する黒人が宿泊可能な施設を一覧にした冊子を指すことも、あらたな発見であった(当時の南部では、公共施設やバスの座席、トイレなどがすべて白人用と黒人用に分かれており、黒人が宿泊可能な宿の情報は必須であった)。映画『グリーンブック』には、未知の情報が詰まっているのだ。黒人の入店を断るレストランが「個人的な含みはいっさいない、単にこの土地の習慣なだけだから従ってほしい」と述べる場面には、結果的に差別が温存されてしまう構造の複雑さが垣間見える。それらのすべてが、多くの観客にとっては発見であり、啓蒙なのだ。


 クセの強いふたりのキャラクターによるバティもの、ロードムービー、というアメリカ映画的なフォーマットを踏襲しつつ、笑える描写、思わずほろりとさせられる両者の関係性など、観客を楽しませつつ啓蒙するフィルムとしての大衆性を『グリーンブック』は備えている。この感情移入の力はまさしく大衆性であり、伝達させる物語のエネルギーであろう。このフィルムを経て、観客は次のステップへと進むことができるのではないか。その先には、スパイク・リーやバリー・ジェンキンスの作品があり、さまざまな書物がある。かくして観客は、差別問題へのより深い認識を獲得していくのだ。(文=伊藤聡)