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宮崎駿監督作品からの影響も? 『移動都市/モータル・エンジン』に隠されたテーマ

2019年03月12日 12:01  リアルサウンド

リアルサウンド

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 超巨大な車体に、街が丸ごと乗っている「移動都市」が無数に存在する未来。大地を駆け抜け、大きな都市が小さな都市を追いつめて“喰らう”という、狂気をはらんだ弱肉強食の世界が描かれる奇想天外な映画が、『移動都市/モータル・エンジン』である。


参考:ピーター・ジャクソンが直接指導で生み出した最強戦士 『移動都市/モータル・エンジン』特別映像


 製作は、『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズのピーター・ジャクソン。彼の作品とともにCGアニメーション、VFX技術を高め、『キング・コング』(2005年)や『ホビット』シリーズ、さらに『アバター』(2009年)や『アクアマン』(2018年)そして『アリータ:バトル・エンジェル』(2019年)など、ハリウッド映画の最前線で活躍するWETAデジタルが、映像化困難な本作のアクションに現実感を与えている。


 たしかに、この大スケールの映像には圧倒され、興奮させられる。しかし、このような荒唐無稽な世界は、一体何を表しているのだろうか。ここでは、本作『移動都市/モータル・エンジン』に隠されたテーマについて深く考えていきたい。


 地球規模の威力を備えた量子エネルギー兵器の使用によって地殻が破壊され、たった1時間あまりで、それまでの文明社会が破壊し尽くされた“60分戦争”。生き残った者たちは“ノマド”(放浪民)として、エンジンと車輪で移動しながら生活するようになる。


 そして、群雄割拠の車たちの戦いと略奪の果てに、吸収・巨大化を繰り返したモンスター級の移動都市が生まれる。幅1.5km、奥行き2.5km規模の“ロンドン”である。その構造は七層に分けられていて、奴隷労働者や身分の低い市民は、下の階層で厳しい労働を余儀なくされる。“ロンドン”は分厚い装甲に守られ、超巨大な車輪とキャタピラーであらゆるものを蹂躙し、小さな規模の移動都市を捕獲しては規模を拡大していき、東に住む異民族の街を侵略しようとすらする。


 ここで印象付けられるのは、その巨大なエンジンを回し車輪を駆動し続けながら移動するというシステムを維持するための、圧倒的なエネルギーの浪費だ。巨大化すればするほど、より多くの資源や資材、人員を必要とし、それらをまた維持するために略奪を繰り返すという、終わりなき巨大化と消費活動……。そしてついには、さらなる欲望によって、人間はまたしても自らを滅ぼす禁断の力に近づいていく。旧約聖書の『創世記』に記された罪の街である「ソドム」や、神に挑戦しようとした「バベルの塔」を想起させるように、繁栄を続ける“ロンドン”には、常に不吉な未来への予感がつきまとっている。


 蒸気機関の発明が生んだ「産業革命」によって、大量生産、大量消費の時代が始まったのは、他ならぬイギリスからである。ここから“資本家”と“労働者”という、新たな格差が生まれる。持つ者はよりリッチに、持たざる者はより困窮を極める。金や権力を持つ人々は、さらに力と富を獲得するため、新たな土地や資源・人員を獲得し、生産物を消費させようと、他国を侵略し、植民地を増やしていく。


 本作は、イギリスの作家・フィリップ・リーヴによる、「ハングリー・シティ・クロニクルズ」と呼ばれるSFファンタジー小説『移動都市』シリーズを映画化している。このような、世界そのものを創造していく作品では、作者の社会観や歴史感、政治理念が色濃く反映するものだ。本作で“ロンドン”という狂気をはらんだ移動都市が象徴し、同時に批判しているのは、力を背景にした人間の飽くなき欲望が侵略と収奪を繰り返す「帝国主義」についてであろう。暴力によって他国の人々の文化や人権を侵害し、自分たちの文化やシステムのなかに組み込んでいく。


 このような行為が地球規模のスケールで行われだしたのが、イギリス産業革命以降なのだ。だから本作における、都市が都市を喰らうという様子や、内部の仕組みを表現した映像は、そのような生産・消費・収奪がそのまま視覚化されたものであり、帝国主義的な理念をきわめて分かりやすく表現したものだといえるだろう。


 とはいえ、これは過去の歴史の戯画化のみに収まる話ではない。実際、現在の世界でも、戦争によって利益を収奪する行為は続いているし、企業が企業を合併買収する“M&A”や、膨張し続ける多国籍企業の存在は、新たな帝国主義のかたちであるだろう。本来、企業が存続する目的は「公益」であることが建前である。しかし現実的には事業規模の拡大によって、しばしば利益を追求し続けるだけの存在に堕落するケースは枚挙にいとまがない。


 そんな状況が延々続いたらどうなるのか。本作で触れられているのが、「社会ダーウィニズム」という考え方だ。ダーウィンの「進化論」のように、社会も自然淘汰のうちにあるべき姿になっていくという内容である。だが、本作がその結果として大量の奴隷労働を必要としたように、大規模な経済活動は往々にして、格差の構造を助長し固定化させてしまう面がある。


 人間が、力と富を独占し、どこまでも豊かになろうとする欲望を持つ存在だとすれば、自然にまかせると、その規模が巨大化する過程において、どこかで持続が不可能になることは目に見えている。だとすれば、人類そのものに致命的な欠陥があるのではないかという気すらしてくる。


 だが本作は、人類のもう一つの可能性を描く。それが移動をしない“静止都市”を守ろうとする「反帝国主義」の理念を持つ人々の存在だ。劇中の彼らは、様々な人種・価値観を受け入れ、他者を受け入れようとする寛容な姿勢を見せる。


 面白いのは、飛行機や巨大な機械が登場する活劇に代表されるように、本作の美術や演出が、『風の谷のナウシカ』(1984年)や『天空の城ラピュタ』(1986年)などの宮崎駿監督作品の世界観に非常に近しいという点である。宮崎監督がこれまで作品によって主張してきた代表的な政治理念は、「帝国主義」、「植民地主義」に代表される、従来の西洋的な価値観の否定だ。日本の観客の多くが本作を観たときに気づくのではないかと思うが、本作はおそらく、奇しくもテーマを共有する宮崎作品から大きな影響を受けているのではないだろうか。印象的なラストシーンから想起されるのは、『ハウルの動く城』(2004年)である。


 欲望によって自滅に向かうのが人類の本能に刻まれた欠陥だとするならば、それを回避するべく様々な知恵を絞るという行為は、それを補う美点であるだろう。そのどちらが勝利するのかが、人類の未来を決定するはずだ。本作が圧倒的な視覚効果によって描ききったのは、その戦いの果てにあり得る、一つの可能性であろう。(小野寺系)