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「2018年の日本映画」最大の事件 『寝ても覚めても』を体験/再体験せよ

2019年03月06日 18:01  リアルサウンド

リアルサウンド

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 昨年、日本国内で濱口竜介監督『寝ても覚めても』についての話題が盛んに飛び交ったタイミングは2回あった。1回目は、同作がコンペティション部門に選ばれたカンヌ映画祭が開催された5月。ご存知のように、そこでパルムドールを受賞したのはコンペティション部門にノミネートされていたもう1本の日本映画、是枝裕和監督『万引き家族』だったわけだが、初の商業作品(という括りが濱口竜介作品においてあまり意味があるとは思えないが)でいきなり世界各国の巨匠や俊英たちと競い合うことになったこと自体が快挙であった。ちょうどその時期、フランスでは前作『ハッピーアワー』も劇場公開されて、日本国内以上の動員(『ユリイカ』2018年9月号によると14万人以上)を記録。濱口竜介は新進気鋭の映画作家として国外で認知されるだけでなく、商業的な成果も残しつつあるのだ(『寝ても覚めても』も、台湾や香港やブラジルでの海外公開に続いて今年フランスで公開されてヒットを記録)。


参考:東出昌大×唐田えりかが語る、濱口組『寝ても覚めても』で変化した演技への意識


 そして言うまでもなく2回目は、『寝ても覚めても』がカンヌでのワールドプレミアから約4か月を経て、ようやく日本で公開された9月のこと。ソーシャルメディア上では、過去に濱口竜介作品を観てきた人、本作で初めて観た人を問わず、前評判を超えるその作品の卓越性に対して驚きの声が溢れることとなった。そのタイミングで印象的だったのは、ちょうど同日の9月1日に公開された三宅唱監督の『きみの鳥はうたえる』を前後に劇場で体験し、その興奮と合わせて言葉にしていた人が多かったことだ。映画好きの間で頻繁に名前が挙がる自国の監督が長らく固定化していた(例えば、是枝裕和や黒沢清が国外の映画祭での受賞などをきっかけに広く注目されるようになったのはもう20年以上前のことだ)日本にあって、『寝ても覚めても』と『きみの鳥はうたえる』の「同時公開」は、間違いなく新しい時代の到来を告げる「事件」だった。


 3月6日にリリースされた『寝ても覚めても』のBlu-ray/DVDは、半年前のその「事件」を体験し損なった人にとってはもちろんのこと、その真価を改めて検証をする上でも格好の機会となるだろう。実際のところ、数々の参照点を含めて「語りしろ」の多さというのは濱口竜介作品の大きな特徴であり、『寝ても覚めても』もその例外ではない(本作では作中に出てくる牛腸茂雄の写真やチェーホフとイプセンの演劇が鍵にもなっている)。特に『寝ても覚めても』は物語の本筋があまりにも(メロ)ドラマティックで、終盤には(物語においてもそのビジュアライズにおいても)俄かには信じがたい出来事が続くので、初見時は呆気にとられているうちにエンドロールを迎えたという観客も多いはず(自分はそうだった)。今回のソフトに収録された、監督とプロデューサー山本晃久と『ハッピーアワー』の評論だけで一冊の本を書き上げた三浦哲哉の3人によるオーディオコメンタリーや、監督とキャスト陣によるビジュアルコメンタリー(Blu-rayにのみ収録)を手がかりに、その作品世界を再訪することで新たに気づかされることも多い。


 もっとも、『寝ても覚めても』は決して難解な作品でも、解釈のバリエーションの多さに戸惑うような作品でもない。1人の女が「1人目の男」と出会い、それから2年と少し経って「同じ顔をした2人目の男」と出会い、さらにその5年後に「1人目の男」と再会し、その後……という約8年間の年月を跨いで描かれるラブストーリー。それがいわゆる巷に溢れている他のラブストーリーと似ているかどうかは別として(似ている部分はほとんどない)、言葉本来の意味において純然たるラブストーリーであることは間違いない。また、そこでの主人公の行動原理に共感を覚えるかどうかは別として(少なくとも男性は唖然とする人の方が多いのではないか)、作中における時間は直線的かつ不可逆的に流れていく。主要キャラクター3人の友人である周囲の人々の言動にも、何ら謎めいたものはない。序盤のクラブでのシーンを筆頭に、作者の意図から外れてリアリティが破綻しかけているいくつかの箇所が気にはなるものの、本作において「リアリティ」はさほど重要ではないだろう。なにしろ、原作小説で「同じ顔」として文字だけで表現された人物を、映画の中ではまったく同じ人間=東出昌大が演じているのだから。


 そこで描かれる一連の出来事は、怪奇小説の作家をはじめとする過去の数々の芸術家たちから「ドッペルゲンガー」として親しまれてきた題材と厳密には異なるわけだが、終盤になって遂に同じフレームの中で同時に2人が存在するにいたって、序盤から常にある種の不穏さをまとってきた本作の「怪奇映画」性は隠しようがないものとなっていく。そして、そのフィルモグラフィーに『ドッペルゲンガー』というそのままのタイトルの作品まで持つ黒沢清の諸作品との近似性(キャストの東出昌大、共同脚本の田中幸子、東京藝術大学大学院映像研究科での師弟関係、蓮實重彦を筆頭とする擁護者などなど、挙げていけばきりがない)も、そこで一気に前景化していく。


 しかし、本作の最もスリリングなところは、その決定的な出来事が起こってから終幕までの30分以上にわたって延々と続いていく物語の回収、及びその際に総動員される、めくるめく奇跡的なショットの連打にある。確かに物語の着地点は原作由来のものであるが、そのことは本作終盤の物語への信頼とその語りの力強さへの驚きをいささかも減じるものではない。ここでまたその名前を挙げるのはフェアではないかもしれないが、例えば原作ものも頻繁に撮るようになった黒沢清の近作における(主に終盤になって確信犯的にスイッチの入る)映画的暴走と、猛スピードで駆け出しながらも迷いなく「綺麗」なラストシーンへと向かっていく濱口竜介の端正さの対比は、この20年余りの日本における「作家の映画」の洗練として自分には映った。


 濱口竜介のフィルモグラフィーにおいて連続性を持つ東日本大震災という史実の(原作にはなかった)大胆な導入、作品の主題を歌詞によって上書きするtofubeatsの主題歌。いずれも初見時に魅了されたポイントが、再見時には少々トゥマッチにも感じられたが、そうした説明的な要素も「語りしろ」として本作の「開かれた印象」に貢献していると考えるべきだろう。映画を取り巻くメディア環境の激変、日本以外のアジア各国の経済面における躍進、そしてそれらの国における新しい才能の台頭。もはや実写の日本映画界、ましてやインディペンデント映画界には、映画好きの間だけで「秘められた悦楽」として愛でられている余裕などないはず。日本における最も新しい「国際的に評価された映画監督」である濱口竜介の最新作『寝ても覚めても』は、いくつかの永遠に記憶に残るようなショットによって幻惑的なラブストーリーを力づくで成立させて、真っ正面から21世紀の日本映画を取り囲んでいる壁を突き破ってみせた作品だ。(宇野維正)