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『PSYCHO-PASS サイコパス』は現代の空気を反映 ディストピアに逆らう、熱い人間ドラマ描く

2019年03月06日 10:01  リアルサウンド

リアルサウンド

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 SF小説の巨匠、フィリップ・K・ディック(以下ディック)は、1955年のコラム「サイエンス・フィクションにおけるペシミズム」(『フィリップ・K・ディックのすべて』ローレンス・スーチン編、飯田隆昭訳、ジャストシステム発行に収録)において、「進歩という概念、『今日より明るい明日』への不信がわれわれの文化環境全体に広がっている。最近のSFに見出される陰鬱で暗い風潮はこの不信の結果であって、原因ではない」と語っている。


参考:フィリップ・K・ディックと『PSYCHO-PASS サイコパス』の共通項


 空想科学であるSFは、今日にはない科学を夢想する点で、現代が舞台であろうが、未来が舞台であろうが、未来についての現在の我々の欲望を反映するものだ。未来に対する、現在の我々の欲望が科学の進歩も、SFというジャンルの発展も支えている。


 2019年現在の社会は、かつてSF小説で欲望された、あるいは恐怖された現象を実現させ始めている。人はネットワークによって相互に繋がれ、人間の精神は拡張され、より自由を手に入れた。同時に、地球レベルのネットワークが実現した結果、究極の監視社会も実現しようとしている。


 SF世界の想像力に現実が追いつききつつあることを示唆する現象の一つとして、個人的に印象深いのは、中国の「信用スコア」のニュースだ。人の信用度をスコアによって算出し、信用度が低ければ公共機関の利用すら制限されることもあるという。


 このようなことが現実に起こりつつある現代社会で、技術の進歩に「今日より明るい明日」を期待すべきかどうか、筆者にはわからない。ただ、少なくとも両手を挙げて絶賛する気分ではない。そういう気分の人は、それなりに多いのではないだろうかという気がしている。


 『PSYCHO-PASS サイコパス』はそんな時代の空気を存分に吸い込んだ作品だ。人が数値によって管理されるディストピアを描いた本作は、技術の発展によって究極の管理社会に向かいつつある世界の風潮を確実に反映し、先取りしたと言っていい。しかしながら、本作はそんなディストピアに絶望してたまるか、という人間の強い意思をも感じさせる作品だ。


 『PSYCHO-PASS サイコパス』は2012年にTVアニメシリーズが放送され、そのハードなSF設定と密度ある大人のドラマで人気を博した。シビュラシステムと呼ばれる生涯福祉支援システムによって、人の精神状態を分析し数値化、個人の適正にあった職業や結婚相手を、全てシステムが決定する究極の管理社会を描いている。その数値は「PSYCHO-PASS」と呼ばれ、色によって表現される。ストレスが溜まると色相が濁り、将来犯罪を犯す可能性を示した「犯罪係数」と呼ばれる数値が上昇し、基準値以上に達した人間は「潜在犯」と呼ばれ、執行対象となる。この潜在犯に対処する公安局刑事課に属する面々の活躍やシステムに対する疑念、葛藤などが物語の本筋だ。


 元々、本作のアイデアは、制作スタジオProduction I.Gの代表作である『攻殻機動隊』シリーズや『機動警察パトレイバー』とは違う雰囲気のSF刑事ものを、という発想から生まれたものであり、ウィリアム・ギブスンのサイバーパンクではなく、ディックの思想実験的な要素に注目したという(参照https://animeanime.jp/article/2012/10/19/11795.html)。犯行前に数値によって潜在犯を特定するというアイデアは、予知能力を犯罪予防に用いて犯行前に逮捕する世界を描いたディックの『マイノリティ・リポート』に近い発想だ。シビュラシステムというネーミングに関しても、ディックの短編『シビュラの目』を連想させる。


 犯罪係数の高い潜在犯にはその場で刑を執行できるという点は、イギリス発のコミック『ジャッジ・ドレッド』も連想させるが、基本的な世界観は、ディックの思い描いたディストピア型の管理社会であり、この世界観の選択は、単なる消去法以上に現代社会に即した選択だったと言える。


 本作のTVシリーズ1期が放送された翌年には、米国家安全保障局(NSA)があらゆるネットワークとネットサービスを介して、国民を監視していることを知らしめた「スノーデン事件」が起こり、前述したように中国社会は急速に数値による管理社会を実現しようとしている。『PSYCHO-PASS サイコパス』の描く世界は、確実に時代の空気と呼応しており、絵空事の未来社会ではないことを実感させるのだ。


 ディックの『マイノリティ・リポート』は、殺人を犯すと予言された犯罪予防局の長官が、それをくつがえすために行動するが、そのことを利用して未来予知システムの不備を指摘し、クーデターを企てる男がいることを突き止める。長官が殺害すると予言された男は、そのクーデターの首謀者であり、社会システム全般を守るため、長官はあえて予言どおりに殺害を実行する。


 予言は確かに的中した。しかし、事前にその予言を知り、自らの行動を変え得る立場にあった長官は、それでもあえて社会全体を守るために予言通りに実行することを決める。結果だけ見れば、システムが予見した通りの結果だが、それを導いたのは人間の意思である。管理社会のディストピアであっても、未来の決定の全てをシステムに委ねるのではなく、人が意思を持って選択すべきだというディックの主張が見て取れる。


 『PSYCHO-PASS サイコパス』もまた究極の管理社会を描きながらも、人間はその中でいかに生きるべきかを問う物語だ。たとえ潜在犯と認定されようとも自らの正義を信じて行動する狡噛慎也や、シビュラシステムの欺瞞的な真相を知ってもなお、社会を守るために敢えてそれに従う道を選ぶ常守朱など、システムに翻弄されながらもなお、自らの意思で道を選ぶ人々の熱い人間ドラマが本作最大の魅力である。


 シリーズ最新作である『PSYCHO-PASS サイコパス Sinners of the System』3部作は、そんな人間たちのドラマに強くフォーカスした作品だ。Case.1は、常守の後輩、霜月を中心にした物語だ。血気盛んなキャラクターであった彼女が清濁併せ呑み、事件の解決を図るあたりに、本作らしさがにじむ。


 Case.2は、優秀な軍人から潜在犯となってしまい、現在は公安局で執行官を務める須郷徹平の過去の物語で、軍が起こしたクーデターの真相を巡る物語だ。なぜ須郷が公安の執行官になったのかのいきさつが語られており、そこには人間としての義理と矜持がにじむ。3部作のタイトルは「システムの罪」という意味だが、まさにシステムによって罪にされ、犠牲となった人々の戦いと葛藤が描かれており、本シリーズの真骨頂とも言える密度の濃い人間ドラマが展開されている。『PSYCHO-PASS サイコパス』は大人のドラマであり、大円団のハッピーエンドはほとんど描かれない。管理社会になっても犯罪はなくならず、苦しい日常はどこまでも続くが、絶望せず前進する意思ある人間を描いている。


 数値によって管理され、最大多数の最大幸福を実現した社会では、人は自らの意思を挟まずシステムに従順であった方が幸せに生きられる。しかし、本作の登場人物たちは、それでも自らの意思で選択していく。社会を維持するためにはシステムの全てを否定はできないが、システムの奴隷には決してならないという強靭な意思が、本シリーズの高い密度のドラマを生んでいる。そんな彼らの姿は、数値による支配が現実に迫ってきている現代社会を振り返ると、一際頼もしく眩しく見える。


 ディックは、「SFとはつねに抗議のための媒体だ(サイエンス・フィクションにおけるペシミズムより)」と語っている。数値の支配が現実になろうとしている今、それでも人間が自らの意思で生きる姿を描くことそのものが、管理社会へ向かう現代社会への抗議にほかならないと筆者は思う。『PSYCHO-PASS サイコパス』は、単なるアイデアやギミックの拝借にとどまらず、ディックのSFの定義を存分に理解した作品だと言える。3月8日より始まるCase.3も楽しみだ。 (文=杉本穂高)