トップへ

佐藤健、“走りの俳優”としての本領発揮 『サムライマラソン』走り続けることの苦しみと喜び

2019年03月02日 11:31  リアルサウンド

リアルサウンド

写真

 ランナーひとりひとりが、それぞれの思惑を胸にゴールを目指すーー映画『サムライマラソン』は、走ること、そして走り続けることの苦しみとその先にある喜びを、時代劇という体で描いた紛れもない“マラソン映画”である。


参考:佐藤健は今なぜ“ドラマ”で輝くのか? 『半分、青い。』『義母と娘のブルース』真逆の役を好演


 時代劇というと、どことなく堅苦しさを感じ、敬遠してしまう方も少なからずいるのではないだろうか。そんな時代劇で“侍がマラソンをする”というのは、なんともエキセントリックな発想だとも思えるが、しかしこれは史実に基づいた物語。土橋章宏による時代小説『幕末まらそん侍』を原作とした本作は、日本のマラソンの発祥ともいわれる「安政遠足」を舞台に、侍たちの繰り広げる奇天烈なマラソン大会の模様をダイナミックに描いているのだ。『パガニーニ 愛と狂気のヴァイオリニスト』(2013)などのバーナード・ローズ監督がメガホンを取り、本作のあまりにポップなタイトルに引けを取らぬ、重厚でいて軽快な、コミカルであってシリアスな、情熱的なエンターテインメント作品に仕上げている。


 時は幕末、安中藩主・板倉勝明(長谷川博己)は、藩士たちの心身を鍛えるために十五里(約58km)の道のりを走らせる遠足を開催。優勝者には、何だって望みを叶えてくれるという。しかし、これを謀反だと早合点した幕府が刺客を送り込んでくるのだ。安中藩で生活する唐沢甚内(佐藤健)は幕府のスパイだが、遠足に参加しつつ、この誤解からはじまる悲劇を阻止すべく奔走する。


 本作の主演は、“走りの俳優”・佐藤健だ。彼はここ数年でも、『亜人』(2017)や『いぬやしき』(2018)などでキレある走りを見せてきた。佐藤の出演作を何かしら思い返してみれば、その疾駆する姿が自然と浮かび上がってくる。それほどまでに彼の走りは、個々の作品での印象的な場面と結びつき、私たちの脳裏に強く焼き付けられているのだ。


 作品内で人物が「走る」というのは、物語が大きな転換を迎えるときに見られることが多い。こと映画においては、私たちはそれを視覚情報として受け取ることとなる。人物が「走る」という、それまでとは一転して、表層的な激しいアクションをはじめたとき、それは同時に深層的な物語が大きく動き出す瞬間でもあるのだ。私たちの実生活において、“走らずにはいられない瞬間”を思い浮かべてみれば分かりやすい。急いでいるときや焦りを感じているとき、はたまた何かゴキゲンな気分のとき、私たちは走らざるを得ない自分と出会うだろう。「走る」というアクションの根本には、その動作を誘発する内部の変化があるのだ。


 つまりマラソンを題材にした本作は、つねに人々の走る姿が見られるものとあって、終始物語の大転換の予感を孕んでいるといえる。いつ物語がひっくり返っても、どこに転がってもおかしくはない。さらに、ベースにものものしい時代劇があるとあって、それらが重奏することにより生まれる緊張感が終始画面に漲っているのである。


 ところでマラソンとは、特別な用具を必要とすることなく、極端なことをいえばこの身ひとつで、時も場所も選ぶことなく、誰にでも挑戦できる開かれたスポーツだ。隆盛を極めたマラソンブームも、いまや下火となっているようだが、同スポーツを大きく扱った大河ドラマ『いだてん』(NHK)の放送が、また着火剤ともなるのではないだろうか。とはいえ、いつの時代も辺りを見渡してみれば、走ることに魅了されている者は非常に多い。筆者もまたそんなひとりである。


 走ることというのは、とかく自分との戦いだと言われるが、マラソン(大会)においては周囲の者がいなければ成り立ちはしない。そして自分以外の者があるとなれば、とうぜんそこに競争心が生まれてしまうことは避けられないだろう(しかし翻って、これに乗っ取られぬよう自分のペースを守る、という自分との戦いを迫られるのだ)。山あり谷あり、それぞれの想いを胸に果てなき(と、感じる)道をゆくマラソンは、人生の縮図だとも思える。個人戦ではあるものの、ランナーたちみなは一丸となってゴールを目指し、流れていく景色や天候、そして走ることで得られる苦しみや喜びを共有し合うことになるのだ。それにはたと気づいたランナーひとりひとりが感じるのは、やはり、えも言われぬ一体感だろう。


 本作では、“行きはマラソン 帰りは戦”のコピーにあるとおり、ゴールを目前にしたクライマックスに、幕府の刺客たちとの大きな戦いが待ち受けている。それは個人戦では乗り切れないものだ。ここは実際のフルマラソンで、あと残り4、5キロといったところがじつに苦しいというものを、表象しているとも受け取れる場面だ。しかしまわりを見渡せば、同じ道のりを駆けてきた同志たちがいるではないか。本作のランナー(=侍)たちは、藩を守るべく力を合わせて刺客たちを打破し、ゴールへとなだれ込む。それぞれの思惑を胸に競い合っていた者たちが、やがて一体となる歯切れのいい幕切れはじつに清々しい。それは、定番ナンバー「サライ」を、思わず脳内再生してしまうほどである。(折田侑駿)