■NHK「ドラマ10」枠で放送。「隠れ特撮オタ」のOLの日常を描く
NHKのドラマ10で放送中の『トクサツガガガ』は、丹羽庭の同名漫画を原作にしたドラマで、特撮オタクであることを周囲に隠して生活している商社OLの仲村叶(小芝風花)を中心に描かれている。
1話では、叶のようなオタクの生態が、信仰を明かせない隠れキリシタンになぞらえながら紹介されていく。自分のように、オタクであることで今は仕事を得ている身にとっては、そこまで隠さないといけないものかと少し息苦しく感じたのも事実であるが、よくよく考えてみると、自分も香港映画と香港俳優にハマっていたOL時代は、そこまでのオープンオタではなく、ある程度ライトに見えるように擬態して生きていたことを思い出した。観劇やイベントに参加するための遠征でも、軽い観光旅行のように話したり……。
■友情にも影響する「オタバレ」という一大事
ドラマの中では特に、4話で叶の同僚の北代さん(木南晴夏)が、同じドルオタのみやびさん(吉田美佳子)の言動によって、ドルオタであることがバレてしまい、二人の友情にヒビが入ってしまうシーンでは胸が痛くなった。私も、ネットで知り合った香港映画オタクの友人と入った喫茶店にたまたま同僚がいたとき、離れて座りたかったが、近くの席を案内されてしまい、その友人がオープンであるが故に、同僚にオタ活動を知られてしまうのではないかと、少しぎくしゃくした空気を友人に対して作ったことがあったからである。
ドラマを見始めたときには、オタクであるということは別に気にすることではないと簡単に思ってしまったが、オタクの一面を過剰に知られる必要はないと考えることは、状況によっては不自然なことではないと思えた。それくらい、オタクの置かれた複雑な状況がきちんと描かれているということだろう。
■擬態して生きてきた登場人物の連帯や、心情の解放がカタルシスを生む
ドラマの中の叶は、冒頭では同じ思いを分かち合える仲間もおらず、同僚にも言えないという毎日を送っていたが、少しずつ周囲に仲間が集まってきて、変化していく。
通勤中に見かけた、同じ特撮オタだと思われる「トライガーの君」こと吉田久美(倉科カナ)と近づきたいとひそかに思い、彼女に気づいてもらおうと、シシレオーというキャラクターのキーホルダーを身に着け(しかも、ほかのゆるキャラにまぎれこませば同僚にもオタバレしないという配慮も涙ぐましい)、そのことに「トライガーの君」が気づいた瞬間に「私はシシレオー推し」と叶が目で語ると、「トライガーの君」も「トライガー推しよ」とも目で訴え、駅で降りて振り返り小さく手を振る1話のシーンは、何度見返しても涙が出てしまう。
しかも、そのシーンでは、架空の特撮キャラクターであるシシレオーとトライガーががっちりと手を取り合うシーンがシンクロする。こうした細部を(お金がかかっても)きっちり表現してくれる「ドラマ10」がニクい。
こんな風に、叶は少しずつ仲間を増やしていくし、普段は自分自身の気持ちを封印して擬態して窮屈に生きていた人々が少しずつ解放される様子が毎回描かれ、そのたびに、やっぱり泣けてきてしまう。毎回、人と人の心が通じ合うまでの誤解や困難をきっちり描き、いざ通じ合ったときには、カタルシスが得られるような構造になっているからだろう。
■特オタ、ドルオタ、アニオタ……ジャンルを超えたオタクたちが一致団結した第4話
4話では、主人公の叶と、「トライガーの君」こと吉田さん、叶の同僚で最初は叶をオープンオタだと思い、過去の経験から敬遠していた隠れドルオタの北代さん、また北代さんと同じくドルオタだが、北代のかつての同僚にドルオタであることをバラしてしまったことから疎遠になっていた大学生のみやびさん、そして叶が行きつけにしている駄菓子屋の息子で美少女アニメ好きの青年の任侠さん(竹内まなぶ)という、それぞれ別の道を歩んできたオタク5人が、カラオケ屋に集結するシーンがある。
それぞれは、オタクとして別のジャンルを応援しているが、ほかのオタクの好きなジャンルをカラオケの日までに一生懸命「履修」してくる。そのお互いをリスペクトする気持ちでもって、アイドルソング、特撮ソング、美少女アニメソングを歌い、彼らが一体感を味わうシーンでも、やはりこみ上げるものがあった。個人的には、BOYS AND MENが演じるBee Boys(劇中で北代、みやびが追いかけているアイドルグループ)の歌う“なごやめしのうた”をここまで感動させられるシーンに使ってもらえるとは、と感慨深いものもあった。
■「女の幸せは結婚」の考えを押し付ける「毒母」との対峙も大きなテーマ
こんな風に、要所要所でカタルシスを得られる一方で、叶がここまでオタバレを避ける深い理由も描かれる。もちろん同僚からの偏見や好奇の目から身を守りたいということもあるが、一番には母親の存在が大きい。彼女の母親は、幼いころから「女の子は特撮を見るものではない」という考え方の持ち主で、ましてや大人になってからはもってのほかで、「女の幸せは結婚」という考えを押し付けてくる。
コミカルに描かれている部分もあるが、「毒母」という存在も、こうした隠れオタクを生む理由のひとつとしてあるということを痛感させられる。毒母が、叶のようなオタクの生き方を許さない背景には、女の子はこうでないと幸せになれないという考え方を持っていることがあり、また任侠さんのように、男の子が美少女アニメを好きというのはキモいと自分自身で思わざるをえないような、固定したジェンダー観による周囲の決めつけも大いに関係がある。
叶と母親の確執は、最終回の前の第6話の「テレビきっず焼き芋事件」(叶が隠し持っていた子供向けテレビ誌『テレビきっず』を、特撮嫌いの母が焼き芋と一緒に燃やしてしまっていたという幼少期の出来事)でさらに詳細に描かれた。最終回では、どんな風にこの話題が帰結するのかは見逃せないところだろう。
■「テレビを見たい、帰って寝たいは用事として認められないの?」残業強いる会社の空気にも反論
また、今の働き方に一石を投じたシーンもある。叶の会社であるミスが見つかり、部の仲間全員で、居残って作業をする場面だ。みんなも早く帰りたいが、「みんなでやればなんとかなる」と乗り切ろうとする。こんなシーンをドラマで何度も見かけたことがある。
そんなシチュエーションでは、余暇の使い方の重要度にグラデーションがあることが示される。みんなで残業している最中に、ひとりの同僚が彼氏との約束があるとわかると、別の同僚が「子供のお迎えとか具合悪いとかじゃないんでしょ」「ほんとに、ほんとに用事がある人は帰ってもらって大丈夫だからね」と続く。
叶は「テレビを見たい、本を読みたい、帰って寝たいはなんで用事と認められないの」と心の中でつぶやき、思わず同僚たちの前で「みんな我慢している、もっと忙しい人がいるって考えて残らなきゃいけないと考える風潮が、私たちに残業を強いるんじゃないですか」と一石を投じる。この叶の主張はあっけなく砕け、結局は「みんなで残業」がなくなることはなく、そこがコミカルなオチにはなっているのだが、叶がオタクであり、普段から「かけがえのない時間」をどう使うかを考えているからこその意見だろう。時間の使い方は人それぞれ、そして誰にも口の出せることではないのに、その使い方の重要度に社会がグラデーションをつけていることが、思い知らされたのである。
■「大多数」の生き方に馴染めない、集団のなかで息苦しさを感じる全ての人に響く物語
こうしたシーンがあるからこそ、特撮オタクでなくとも、この作品に描かれる状況や疑問に多いに共感できることとなる。
むしろそれはオタクであるかないかに限った話でもないのかもしれない。固定した人生観を押し付けられたり、大多数の人が当たり前のように楽しめることを楽しめなかったり、大多数が自然に選択する生き方になじめなかったり、集団の中で話題があわなくて苦しんだり、男だから女だからということで、こうすべきと決められることで窮屈さを感じている人すべてにも響く作品なのではないだろうか。
(文/西森路代)