■「僕の周りの世界は、絶望に溢れている」
本日2月27日にリリースされた欅坂46の8thシングル『黒い羊』のCMで、8作連続センターを務める平手友梨奈の声は「僕の周りの世界は、絶望に溢れている」と語る。
CMで使用されている“黒い羊”の作詞は秋元康、作曲は欅坂46の“エキセントリック”“危なっかしい計画”“避雷針”のナスカ、振付はTAKAHIROが担当し、PVの監督は欅坂46の“語るなら未来を…”“二人セゾン”“不協和音”“風に吹かれても”“ガラスを割れ!”“アンビバレント”のPVを手掛けた新宮良平が務めた。
■平手友梨奈演じる「僕」の「諦念」――「全部僕のせいだ」
「除け者」「厄介者」「見捨てられた者」「変わり者」などを意味する“黒い羊”の歌詞には、「あやふやなものははっきりさせたい」「同じ色に染まりたくないんだ」「白い羊なんて僕は絶対なりたくないんだ」という「主張」と、「遠回りして帰る」「そうだ僕だけがいなくなればいいんだ」「全員が納得するそんな答えなんかあるものか」「そこにいなければよかったと後悔する」「人生の大半は思うようにはいかない」「全部僕のせいだ」というどこか「諦念」めいた雰囲気が混在する。
最終的な着地点は、「僕」が「僕」であるために「白い羊のふりをする者」に対して「ここで悪目立ち」することを選択するように、「個」と「集団」の対比を巡る物語を歌ってきた欅坂46の路線から大きく逸れることはないが、「主張」と「諦念」との間で揺れ動く“黒い羊”の歌詞は、“サイレントマジョリティー”の「初めからそうあきらめてしまったら僕らは何のために生まれたのか?」や、“不協和音”の「最後の最後まで抵抗し続ける」「一度妥協したら死んだも同然」「意思を貫け!」「ここで主張を曲げたら生きてる価値ない」「僕は嫌だ」、“ガラスを割れ!”の「やる前からあきらめるなよ」といったタイトル曲で歌われてきた歌詞と比べると様子が異なり、“もう森へ帰ろうか?”の「もう森へ帰ろうか? 何度も思い直した 僕たちの行き先はどこにも見つからない」などカップリング曲に籠もっていた雰囲気が漏れ出てきている。
その漏れ出た雰囲気は、“黒い羊”が映像化することで「絶望」として増幅される。
■“黒い羊”のPVに映し出される「絶望」と「救済」。平手が次々とメンバーを抱きしめていく
長回しで撮影された“黒い羊”のPVは、これから映し出される世界がひとつの「劇」であることを告知するかのように、ビル前で起きた「事故現場」付近に置かれたアップライトピアノの演奏場面から始まり、白いTシャツの上にデニムジャケットをまとった「少年」でも「少女」でもあるような平手演じる主人公の「僕」が、「諦め」「情熱」「独立」「再会」「転生」「悲しい思い出」といった花言葉を持つ彼岸花を手に、いじめや就職活動にまつわる個別の「絶望」と衣装が与えられたメンバーやエキストラの人々を、彼女たちから突き離されても次々と抱き締めて行き、互いにぶつかりあうことを通じて「僕」を跳ね除けた彼女らの表情にはやがて「救済」がもたらされたかのような安堵感が浮かぶ。
しかし、それとは対照的に「悪目立ちして」ひとりそこから立ち去る「僕」は、「僕」をゆっくりと追う彼女たちを背に彼岸花を抱き締めながらうずくまり、ノイズ混じりの音声と冒頭でも聞こえた足音、屋上の入口で「僕」が無音で叫んだことなど、そこかしこに仕掛けられた謎を残して、おそらく欅坂46の1期生の集大成となった“黒い羊”のPVは幕を閉じる。
■彼女たちを「救済」に導く「僕」が、ラストに見せる泣き顔
「Blah Blah(Hey!)」「どうすればいいんだこの夏」と歌っていた“アンビバレント”のPVでも、平手演じる主人公の「僕」が人間関係に苦しんでいるという設定のメンバーたちを次々と「解放」して行く様子が描かれていたが、平手以外は同じ衣装を着ていた“アンビバレント”のPVに対して、“黒い羊”のPVでは、メンバーそれぞれに異なる衣装つまり役柄が与えられていることで、「絶望」と、それに伴う「救済」という楽曲自体には前景化していなかったイメージが具体性を帯びている。
新宮監督は「楽曲の先にあるものを映像で描きたかった」(『BRODY 2019年4月号』、61ページ)、「MVとしては、歌詞にぴったり寄り添ってるわけではないんですよ」(同前、63ページ)と語っている。
“黒い羊”のPVの物語は、「僕」がビルの階を上がって行くのと並行するように「絶望」から「救済」へと向かって行くが、彼女らを「救済」へと導く「僕」自身は皆の「絶望」を引き受けるかのように「救済」から遠ざかるようにも見える。あるいは「僕」が「救済」の外にいるように「悪目立ち」することを選んだ「僕」はもはや「絶望」の外にいる。だからCMで「僕の<周りの>世界は、絶望に溢れている」と言った。
「僕」が最後に見せた表情は、「僕」が「僕」であること、「自らの真実」と共にあること、という容易ではないことを選んだことの証なのかもしれない――新宮監督は「“僕”が最後に浮かべる泣き顔は決して絶望の顔ではありません。この世界で生きていくことの意味を理解して、自分の存在を全力で肯定する戦士の顔なんだと思います」(同前、65ページ)と語っている。
■誰が「僕」を「救済」するのか? テレビパフォーマンスとPVの違い
2月22日の『ミュージックステーション』で“黒い羊”のパフォーマンスがテレビ初生披露され、翌22日の『COUNT DOWN TV』では収録パフォーマンスが放送された。
楽曲とPVのイメージが異なるように、PVとテレビ版とでも様々な違いがあるが、これまでとの関連で大きく異なるのは、「全部僕のせいだ」がカットされていることに加えて、メンバーが「僕」に指を差し向けるなか、ひとり手を収めた小林由依の方から、PVではもっぱら「僕」からだったのに対して「僕」を抱き締めに行くこと――すると今度は指を差された小林を「僕」が眺める――、PVでは「僕」のソロダンスだった「自らの真実を捨て」から最後までが「僕」と小林のダンスパートになっていること、「僕」と小林、2人がぶつかりあう間「白い羊」の群れからも孤立していた石森虹花の3人が最後までステージに残り、欅坂46のシンボルである三角形を描くこと、である。
「僕」、「僕」と同様に指を差され「白い羊のふりをする者」から「黒い羊」であることを選んだ小林、「白い羊」と「白い羊のふりをする者」との中間的な立場と思しき石森という異なる性質を持つ3人が三角形を描く姿は、「白」か「黒」かとはっきりさせることのできない人間の揺らぎを表しているようでもあるし、羊が1匹、羊が2匹、羊が3匹……というように「僕」という羊が増えつつあるようにも見え、そこに一条の光が射していた。