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宮台真司の『A GHOST STORY』評(後編):「存在」から「存在の記憶」へ、さらには「存在したという事実は消えないこと」へ

2019年02月19日 10:11  リアルサウンド

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【この社会は既に終わっているとはどういうことか】


 前々回と前回を通じて『A GHOST STORY/ア・ゴースト・ストーリー』を論じる準備をしてきました。この映画のようにストーリーより世界観を描く作品が増えてきました。<世界>がそもそもどうなっているかを寓意的に示すものです。そうした作品は、情報量が限られた映画なのに膨大な情報量を体験させます。僕らが<社会>を生きて蓄積してきた何かが触発されるからです。僕らは何を触発されるのか。


参考:宮台真司の『A GHOST STORY』評(前編):『アンチクライスト』に繋がる<森>の映画


 社会学者リッツァは、「マクドナルド」の如き「役割とマニュアル」に従えば誰でも入替可能なシステムによる「没人格」(ウェーバー)の疎外感が、埋め合わせとしての「ディズニーランド」に象徴されるが如き「消費の祝祭化」(ボードリヤール)を招来するとし、「マクドナルド化」と「ディズニーランド化」を、裂け目を作り出して自ら埋めるシステムのマッチポンプだと理解します。そう、「クソ社会」。


 リッツァがこうした考察を示したのが四半世紀前の『マクドナルド化する社会』(原著1992年)。表現者や観客が既に<社会>がそうしたものであるのを「知って」います。少し前まで<社会>は違ったはずだ。<社会>の外はどうなっているのか。恐らくこうした意識を背景に「<世界>/<社会>」=「<森>/<草原>」なる二項図式を用いた範型としての映画『アンチクライスト』(2009)が登場したのです。


 ラース・フォン・トリアー監督『アンチクライスト』は僕らが「<世界>=<森>」を要求している事を「映画体験として」示しました。<世界>に何があるからか。<森>に何があるからか。それを知るべくアピチャッポン・ウィーラセタクン監督『トロピカル・マラディ』(2004)を検討し始めました。そこには「微熱の街」=輪郭を欠いたものの集まり=<森>が描かれています。「視線の邂逅」が生じる街です。


【『トロピカル・マラディ』が描く「水平の多視座」】


 冒頭近くのバス車内。男が女を見る。女が視線に気づく。女が羞うことで誘う。男が女を訪れる。男は訪れるが誘われている。女は訪れを待つが誘っている。花が蜜蜂を誘う。蜜蜂が花を訪れる。蜜蜂は訪れるものの誘われている。花は訪れを待つが誘っている。視線が邂逅し絡み合う時。そこではどちらが能動でどちらが受動なのかが曖昧になります。能動態・受動態でなく中動態です。


 映画は冒頭から中動態の視線劇です。森を背景とした草原でケンを含む森林警備隊員がカメラを見つめて記念撮影する。トン(ケンの想い人)の実家でケンがトンの母親の背中を見つめる。母親が夕餉で若い女と男が見つめ合うのに気づき、続いてケンが自分の息子トンを見つめるのに気づく。彼女は「視線劇」に敏感です。続くオープニングロールでケンがカメラ目線でこちらを見つめるのです。


 その誘うような眼差しには誰もがどきどきさせられます。前半冒頭は視線劇のオンパレードですが前半末尾も視線劇です。森に移動するトラックの荷台に乗ったケンを含む警備隊員の面々を舐めるようにカメラがパンします。喋る隊員もいれば、眠っている隊員もいますが、カメラ目線でこちらを見つめる隊員もいます。どの顔も視線も活き活きして、僕らは性的な意味で誘惑されます。


 前半の随所にエロチックな視線劇があります。夜のイサーンで、ゲーセンから屋台街に繰り出すトンとケン。音と光の万華鏡。屋台の匂いまで漂う。数多の灯の中を歩く二人が睦言を交わす。僕らも至福に包まれます。舞台は突然レストランの歌謡ショー。女がこちらを見て歌う。二人の踊り子らが互いを見つめ合って踊る。ケンとトンが食堂テーブルにいる。ここもどきどきする場面です。


 歌手がケンを見ながら彼からのリクエストを観客に告げる。そこからが眩暈の場面。客たちが振り向いてケンを見る。はにかんだケンがトンの視線を捉える。トンがケンに微笑み返す。トンが歩き出して歌手にレイをかける。歌手がトンを舞台に上げて二人のデュエットが始まる。トンがはにかみながら歌手を見る。歌手がトンを見る。それを見たケンが微笑む──。視線の邂逅の連鎖です。


 能動と受動のユニットである個体。それが複数、視線の邂逅を通じて中動態的合体を遂げ、より大きなユニットを構成します。こうして小ユニットが合体して中ユニットに。合体が進んで大ユニットになります。ナンパやフィールドワークをしていた90年代半ばまでの「微熱の街」渋谷のストリートにも、スワッピングの現場にも、存在していたアメーバのような「合体のダイナミクス」です。


 都会より早く冷えた郊外でも祝祭時には同じ営みがありました。大きな鈴をしょった「跳ね人」たちが朝から街中に満たす鈴の音で、夜の祭りに向けて男女の体温が上がっていくのが、青森のネブタ祭りですが、どこでも同じことがあったのです。夜の祭りを待たずに、昼間から祭り囃子が響くと、男女は次第にアッパー化して「いい感じ」になり、視線の邂逅でアメーバ化していったわけです。


 トンとケンが映画館の椅子に座って身体的接触を始めます。それまでの視線劇で二人も観客も温まっています。だから二人の至福が僕らに感染します。上映後の映画館のトイレでケンに旧恋人の男が声を掛けます。見かけないと思ったらなるほどね、でも明日は僕の相手をしてくれよ、と。祭りは終わったんだと言うケンに、意に介さずに微笑みを返す旧恋人。ごく自然なポリアモリーです。


 歌謡レストランでも映画館でも、ポリアモラスな時空とモノアモラスな時空の間でエロス的空間が膨縮します。そこには、視線の邂逅で接触し合い、合体し合う、多視座的な運動体があります。かつて「微熱の街」を身体化していた僕から見て、エロスの多視座的な運動体を育む「微熱の街」を、かくも活き活きと描いた作品はありません。ウィーラセタクン監督の最高傑作だと思う所以です。


 エロスの多視座的な運動体が、洞窟逸話につながり、後半に橋渡しされます。池の畔のベンチで戯れる二人。200年生きた伯父さんの話をトンがします。そこに花売りの女が来て鍾乳洞に誘います。二人が拝むキッチュな拝所。女が怪奇話でおどかす暗く狭い穴。穴を抜けるとなぜか女の姉が経営する食堂──。支離滅裂な展開ですが、エロスの膨縮で一体感があるので違和感がありません。


 その女に誘われてショッピングモールに行くと、派手な音楽に合わせてエアロビクスダンスを踊る集団がいる。壇上で踊りつつケンに手を振るコーチ。ケンが手を振り返します。コーチは映画館でケンに声を掛けた旧恋人です。ただそれだけ──。知り合いの映画作家が言います。映画をこんなに自由に撮ってもいいものだとは知らなかったと。偶然が偶然を呼ぶ。支離滅裂で未規定な逸話たち。


 逸話たちはどう見てもランダムな配列です。これほどのランダムネスには意図があるに決まっています。時間軸上は出鱈目で順不同な逸話の集まりなのに、全てが一体だと感じられる──。一体性を際立たせるためのランダムネスです。このランダムネスの一体性こそ、「視線の邂逅=接触する多視座=重なるパラレルワールド=膨縮するエロス」つまり「微熱の街」がもたらす、時間感覚なのです。


 前回「水平の多視座」と言いました。フラットな言い方ですが、中身は紹介した通り、今の僕らが経験できない<森>の時空です。前々回アニミズムの「水平次元」として予告したもの。遊動民・先住民の視座でもあります。これと対照的な「垂直次元」が『トロピカル~』の後半です。前半末尾の洞窟体験の「光⇒闇⇒光」という形式と、警備隊トラックの森への移動が、後半の闇=<森>を暗示します。


【『トロピカル・マラディ』が描く「垂直の多視座」】


 [光⇒闇⇒光]は[草原⇒森⇒草原]を隠喩する通過儀礼形式です。トラック移動は[草原(前半)⇒森(後半)]を予示します。後半を見終わって、僕らは前半を想起します。この想起が[森⇒草原]です。合して[草原⇒森⇒草原]の通過儀礼形式です。男が一度は出家するタイの寺院は森にあります。[俗世⇒浄土⇒俗世]の通過儀礼形式です。全て共通して[輪郭ある時空⇒輪郭なき時空⇒輪郭のある時空]です。


 こうした隠喩の重ね焼が見事に後半への接続機能を果たします。二人は夜闇の中で別れます。トンが立小便したその手をケンが舐めます。この小便は先の映画館のそれと同じで無防備を隠喩します。無防備は変性意識状態の依代です。変性意識のまま闇をバイクで移動するケン。群立する街灯。屋台の灯。路傍で喧嘩する男共。「移動つながり」で森に向かうトラック。男たちの顔・顔・顔──。


 後半との繋ぎ目。トンが宿泊した部屋にケンが入るとトンはいない。牛が怪物に襲われたという立ち話が聞こえます。机上に残されたフォトブック。トンと他の男のツーショット。ケンの表情は分かりません。長い暗転。後半開始です。かつてシャーマンが虎に合体、虎はシャーマンの亡霊になったとテロップが流れます。虎追い役は、ケン役と同じ役者。虎男役は、トン役と同じ役者です。


 これは換喩です。映画前半は「トンを追う森林警備隊員ケン」の話。後半は「虎男を追う森林警備隊員」の話。双方とも[追う存在]が[追われる存在]と合体したがります。前半は性愛的(水平的)合体。後半は捕食的(垂直的)合体です。でも「追跡と合体」のモチーフが共通するので、物語として何の関係もないのに繫がりはスムースです。後半で何を体験できるか。紙幅が少ないので概念的に説明します。


 [前半⇒後半⇒前半想起]という継起が、[光⇒闇⇒光]即ち[草原⇒森⇒草原]の通過儀礼形式を与えます。「想起された前半」は「前半」とは違います。前半は水平(人の関係)の視座で、想起された前半は垂直(物の関係)の視座です。言い換えると前半は<社会>の視座で、後半は<世界>の視座、正確には<世界>の視座を経由した<社会>の視座です。だから、想起された前半は「再帰した視座からの前半」です。


 <世界>視座経由の<社会>視座に対して<社会>は奇蹟として浮上します。前々回紹介した初期ギリシャ=デュルケムの視座です。<世界>視座経由とは<世界>「からの/への」視座を伴うことです。繰り返すと<社会>は元々「個体視座」ならぬ「接触する多視座」「パラレルワールド的多視座」です。「個体であること」が「どうでもいい偶然」と体験されるから、個体であることが「かけがえない奇蹟」なのです。


 その気づきが、「与えられてある事を引き受ける覚悟」という中動態の構えを与えます。人は「未規定なものに誘惑される存在」です。ケンがトンを追うのも、森林警備隊員が虎男を追うのも、そう。トンと虎男を演じるサックダ・ウンプアディーの顔は未規定と言うに相応しい。畢竟、後半を経由して前半を想起する僕らは、前半の「微熱の街」と「風来坊」が、未規定性による誘惑の源泉だと知ります。


 最近ほぼ同時に公刊された上妻世海『制作へ』と群司ペギオ幸夫『天然知能』が同じ命題を語ります。人が制作する時、AIと違い、どんな構想があろうと、制作前ないし制作中は制作結果が未規定である、と。人は未規定性がなければ制作へと動機づけられません。結果が規定されていたら誘惑されないのです。上妻も群司も弁えるように、アート制作に限らず、人の行動一般にも言えます。


 映画で言えば、虎を追う森林警備隊員に、樹上の猿が語る、「お前には絶えず影のように虎がついている」という科白は、その隠喩です。虎を追う男に絶えず影のように虎がついている。虎を追いながら虎に駆られている。虎に駆られて虎を追う。人は未規定性に誘惑されて未規定性を追う。実際『アンチクライスト』と同じく万物の輪郭が不明確でジメジメした暗い森を、男は彷徨い続けます。


 猿が「(お前が虎を知らなくても)虎はお前をよく知っている」と非対称性を告知します。そう。だから森林警備隊員は虎を追って合体したがるのです。例えば、僕は未規定性に合体したくて文を書きます(制作します)。合体した暁には未規定な影が若干の輪郭を帯びますが、そこに新たな未規定性の影が生じます。謂わば「影踏み鬼」のように前に進みつつ、合体した僕(みたいなもの)は上昇します。


 でも、どんなに合体・上昇しようが僕たちには未規定な影(虎)がつきまといます。だからこそ、猿に「絶えず影のように虎がついて来てお前を視ている」と告げられた男は「虎との合体」を願います。これは前半に描かれた「性愛相手との合体」と似ながらも、違います。同じ「他なるものとの合体」とはいえ、「人との合体」は「水平方向の合体」ですが、「虎との合体」は「垂直方向の合体」だからです。


 だからラストの、虎との合体シーンでは、捕食する虎は樹上、捕食される男は樹下、にいます。ここでは、「捕食する欲望/される欲望」の非対称性と、「樹上=全体/樹下=部分」の非対称性が重ねられています。だから男は一方的に「委ねよう」とする──。このモチーフは説得的です。僕らが「そのこと」を既に「知る」からです。「僕らの蓄積」が、<世界>はそうなっているという寓意を触発します。


 上妻は鏡の喩を使いつつ、人が他者を好むのは、他者が「自分ではないが、自分でなくもない」存在だからだとします。これも僕らが既に「知る」ことです。これが「水平方向の合体」です。ただし既に話したように一体化・融合ではなくダイナミックな膨縮です。他方、僕自身を振り返って分かるのは、これとは別に、「微熱の街=<森>」に合体したいという欲望があること。「垂直方向の合体」です。


 人類学者ヴィヴェーロス・デ・カストロの「多自然主義」とは複数の時空の並存です。並存には「横(水平)の並存」と「縦(垂直)の並存」があります。「横の並存」は映画で言えば昔からマルチスレッド法で描かれてきました。ポール・トーマス・アンダーソン監督『マグノリア』(2000)が典型です。テレンス・マリック『シン・レッド・ライン』(1998)では、複数の兵士達の回想のパラレリズムに当たります。


 同じ「人」とはいえ、共軛不可能な体験をベースにした、共軛不可能な視座があり、想像を絶した様々な人生がある。だからこそ互いに反発したり惹かれたりする──。しかし『シン・レッド・ライン』には『マグノリア』にはない「縦の並存」が描かれます。ワニの時空・鳥の時空・先住民の時空・日米兵士の時空・森と海の時空──。共軛可能性が期待されないので、共軛不可能の概念もない。


 環境倫理学者ベアード・キャリコットは、人類学的探索を経た末、「生き物としての場」という概念を立て、環境を守るべきな理由を功利論(損得計算)にも義務論(生物の人格化)でも説明できない、ただ全体論(生き物としての場)だけが説明できる、としました。この説明は「場に見られている」即ち「街に見られている」「森に見られている」という体験が与える享楽(彼の言葉で「尊厳」)に関連します。


 <森>は「縦(垂直)の多視座」の輪郭不明な重なり合いです。だから<世界>の喩です。他方<社会>は「横(水平)の多視座」が並存する<草原>。『トロピカル~』の前半は「横の多視座」=scopeを、後半は「縦の多視座」=depthを、描きます。前半は「横の多視座」を体験させますが、後半から前半を想起する時、“「縦の多視座」を経た「横の多視座」”が体験され、そこで「横の多視座」が奇蹟化されるのです。


 <世界>は深く<社会>は浅い。だから<世界>は恐ろしく、<世界>を見ないことで<社会>が与えられます。後半のラスト、捕食直前の森林警備隊員が「恐怖と悲しみが俺を与えた」と呟きます。<社会>が<世界>の否定性に隣接する事の謂いです。<世界>(森)を否定した上での<社会>(草原)。でも、<世界>を経由して恐怖に戦慄した眼差しにだけ、<社会>におけるエロス的膨縮が奇蹟として現れます。


 この作品に照らせば僕らは二つの次元で閉ざされています。まず第一次元では、『トロピカル~』前半が描く「横の多視座」が与えるエロス的運動体から閉ざされています。僕が「クズ」と呼ぶ人々です。第二次元では、『トロピカル~』後半が描く「縦の多視座」が与える奇蹟の感覚から閉ざされています。ただし幸か不幸か、第一次元で疎外された者たちにとって、第二次元は端的に無関連です。


【<社会>からの幽体離脱を説く『ア・ゴースト~』】


 90年代前半の僕は援助交際に加えて新興宗教のフィールドワークをしていました。そこで「齢をとらない人々」を目撃しました。男女を問わず信者の多くが年齢不詳。40歳だと思ったら60歳とか。理由を考えました。当初は「輝きを諦めないからだ」と考えました。今は少し先まで考え、彼らが諦めない理由は、<世界>の時間を生き、<社会>の時間を生きていないからだ、と僕は推測しています。


 謂わば<社会>を仮の姿で生きるのです。彼らは<社会>へのコミットが薄いと思われるかもしれません。必ずしもそうではありません。マジガチで<社会>を生きれば自己防衛的になりがちですが、仮の姿で生きればむしろ果敢になれます。パウロのローマ帝国での布教戦略は、信徒らが誰よりも社会的に振る舞うことで(カリタス=社会貢献)、信徒らが反社会的だとの偏見を取り除くことでした。


 そこでは社会にコミットするという意味が違う。地位や評判に恋々とする「損得への執着を指すのではなく、損得に執着することなく人や社会に利他的に貢献することを指します。正確には「個人の損得」よりも「共同体の損得」を目指す内発性(ヴァーチュー=内からの力)が高まること。取材経験ではそうした人は加齢しません。彼らは加齢で死ぬよりも、必要がなくなれば社会から消えるのです。


 『ア・ゴースト・ストーリー』は「<社会>からの幽体離脱」をモチーフにします。郊外の家に若夫婦が転入して、原因不明の物音に悩みます。突然、夫が事故死します。彼は「天国への道」を拒絶し、幽霊男となって家に戻ります。喪失感に苦しむ妻が程なく日常を取り戻すのを、幽霊男は視ます。幽霊男は「視る」けれど「視られない」存在です。隣家にも幽霊女がいて、互いを「視る」ことができます。


 やがて妻に男ができ、柱の隙間にメモを残し転出します。留まった幽霊男はメモの取り出しに苦闘しますが果たせません。幽霊男には言葉が判らないヒスパニック系母子家庭が転入しますが、幽霊男が起こすラップ現象に脅え転出します。次に賑やかな若者達が転入。一人がパーティで「人は死ぬ、宇宙は終わる、全存在は消える、だから存在に意味はない」と語るのを、幽霊男が視ています。


 若者達の転出後、メモの取出しに格闘中に、突然クレーンが家を壊します。壊された隣家の幽霊女が「待っていたが来ない(から諦めた)」と呟き消失します。やがてビル街となったそこに昔の面影はありません。絶望して高階から飛び降りた幽霊男は「時を駆ける存在」となり、今は開拓時代に野宿する白人家族を視ています。幼女が石の下にメモを隠しますが、家族諸共が先住民に惨殺されます。


 幽霊男が「かつての家」に戻ると、物件を探す夫(昔の自分)と妻が現れます。幽霊男は夫妻が暮らすのを視ますが、幽霊男が立てる物音に夫妻が脅えます。夫が事故死。残された妻の生活を視る幽霊男(昔の自分)がいるのを幽霊男が視ます。妻の転出を視る幽霊男(昔の自分)を視た後、メモの端が覗いているのに幽霊男が気づきます。引っ張り出して一瞥した瞬間、幽霊男は消え、映画が終ります。


 「現世に執着が残る内は成仏できず、執着が消えて成仏する」というのは日本人に馴染みですが、全過程は「幽霊男の成長=視座の変化」の話です。事故死直後は、残された妻の「存在に」執ります。男ができた妻の転出後は、妻の「思い出に」執ります。最後は、「妻が確かに存在したという事実」ゆえに執りから脱します。最後の境地が「<社会>からの幽体離脱」=「<世界>から<社会>を視る視座」です。


 「<社会>からの幽体離脱」=「<世界>から<社会>を視る視座」を、映画の中の要素だけで理解するのが難しいので、まず『アンチクライスト』(2009)を「<社会>と<世界>という二項図式」を理解するための範型として検討、次に『トロピカル・マラディ』(2004)を「<世界>から<社会>を視た時に<社会>が奇跡として現れるための条件」を理解するための範型として検討しました。その結果をまとめます。


 1.<社会>が没人格システムのマッチポンプとなり、言葉と法が支配する<社会>が益々クソ化する。
 2.すると、相対的快楽しかない<社会>から、絶対的享楽がある<世界>への、離脱願望が生じる。
 3.離脱後に<世界>から<社会>を視る再帰的視座にとって、<社会>が奇蹟として現れる場合がある。
 4.但し無条件でなく、<社会>の奇蹟化には「視線の邂逅」が象徴する「エロスの膨縮」が必要である。
 5.言葉と法が支配する<社会>で祝祭が消え、性愛が「視線の邂逅=横の多視座」の唯一の依代となった。


 『ア・ゴースト~』は特に3.を焦点化します。「妻の存在」→「妻の記憶」→「妻が確かに存在したという事実(を示すメモ)」、と移行した幽霊男の視座が、<社会>を奇蹟として再帰的に捉え、昇天を可能にします。ただし4.にあるように、妻との間の「視線の邂逅=エロスの膨縮」が、再帰的視座に於ける<社会>の奇蹟化の条件を与えます。かくて本作が与える名状しがたい感動の由来が理解できます。


 僕らは「<世界>は確かにそうなっている」と納得しました。そして「<社会>を生きる中で僕らが蓄積したもの(僕らが本当は知っていこと)」を知ることもできました。ここで、「<社会>を生きる中で僕らが蓄積するもの」を更に深く知るのに役立つ作品として、同じ映画製作会社「A24」が送り出した大傑作、ジョナサン・グレイザー監督『アンダー・ザ・スキン 種の捕食』(2014)について、紹介することにします。


【<社会>は不完全で醜いからこそ奇蹟をあらわす】


 『ア・ゴースト~』鑑賞後の感触は『アンダー~』に似ます。調べるとデヴィッド・ロウリー監督のお気に入り。感情が働かないがゆえに任務を遂行できる存在が、豊かな感情の営みを知って感染し、感情が働く存在になった挙げ句、任務を放棄して破滅します。韓国映画ブームの出発点『シュリ』(1999)やキム・ギドク脚本『レッド・ファミリー』(2014)など、「間諜もの」には実によくある話です。


 でも観客の体験は違う。「間諜もの」は社会と社会の対立、個人主義と全体主義の対立、尊厳の在り方の対立が背景です。『アンダー~』は、そもそも<社会>がない異星人が主人公。異星人は<世界>――モノの世界=輪郭不明瞭な<森>──を生きます。因みに人間学者A・ゲーレンに従えば、本能未然的なヒトに対して、輪郭明瞭な<世界>が立ち現れるのは、<社会>(≒制度)に支えられるからです。


 「皮の蒐集」の任務を帯びた異星人が美女の「皮を被って」男を誘惑しては蒐集対象にしますが、一人の奇形男を対象にしたのが契機で、感情なき皮下存在under-the-skin(異星人)に感情への憧憬が宿ります。やがて出会った言葉を発しない優しい男に感染し、性交不可能な自分の身体に動揺、森を徘徊した挙げ句、森林警備隊の男にレイプされかけた上(性器がないから不可能)、焼殺されます。


 全ては<社会>を生きる僕らが惹起される感情を嘲笑するかの如く淡々と描かれます。「彼女」が男達を捕食する場面もそう。そこには完全がある。海で或る夫婦が溺死後、海辺で夫婦の赤子が泣き叫ぶ眼前で、夫婦を助けようとした男を撲殺し「蒐集」。赤子は放置され、異星人の任務を補完するバイク隊が「処理」します。そこにも完全がある。僕らは、感情ゆえに不完全な自らを、自覚します。


 ところが「彼女」が「言葉を発しない男」に感染して以降、レストランでケーキを食べようとして、醜く嘔吐し、男の部屋で愛に満ちた性交をしようとして果たせず、醜く動揺します。そこにあるのは「不完全」な歪みです。歪みはやがて、美女の外見をした皮膜の破れ、どす黒い液体の流出、挙げ句は黒焦げの焼殺を招きます。そう。<社会>は<世界>を曇らせ、完全を不完全へと歪めるのです。


 だからこそ異星人の視座=<世界>からの視座には、不完全な歪みである感情の営みや、それを柱とする<社会>の営みが、奇蹟として際立ちます。感情の営みは未規定で、明と暗、美と醜が、綾になっています。『トロピカル~』のような「いいとこどり」は不可能。だからこそ或る相手の或る感情の働きが珠玉の価値を帯びます。「ありそうもないもの」が、「ありそうなものの」の中で輝くのです。


 それが異星人が「<世界>から<社会>を視る眼差し」の本質です。僕らは、焼殺された異星人の眼差しに同化し、特有の時間性を生きるに至ります。「異星人という存在が消えても、不完全なものに感染した異星人が存在した事実は消えない」と。ラストでは、焼殺された烟が天に昇るのをカメラが追うと、入れ替わりに雪が舞い落ちる。定番の表現技法ではありますが、「彼女」は祝福されたのです。


【完全な絶対神が不完全な<社会>を意図した理由】


 なぜ、完全で全能の絶対神が、不完全な人間を作ったか。なぜ、蛇を使って人に知恵の樹の実を食べさせた(=不完全な善悪観念を身につけさせた)のか。なぜ、不完全な人間が営む不完全な社会をもたらしたのか。なぜ、全能の力を用いて、「完全さのトートロジー」を破る不完全性や未規定性を創造したのか。なぜ、不完全性や未規定性を意図したのか。ここに「ヤハウェの意図」問題があります。


 『アンダー~』はジョナサン・グレイザー監督による回答です。その回答にはユダヤ・キリスト教の問題圏を越えた拡がりと奥行きを感じます。<社会>から<世界>へと離脱し、<世界>の視座から<社会>を再帰的に眼差す時、<社会>がむしろクソだからこそ、そこに営まれる「視線の邂逅」「エロスの膨縮」の未規定性が奇蹟の輝きを帯びます。その輝きを体験できるのは<世界>の時間を生きる者だけ。


 <世界>の時間への離脱は、「水平の多視座」から「垂直の多視座」への離脱です。幽霊夫は「水平の多視座=人の時間=<社会>の時間」から「垂直の多視座=物の時間=<世界>の時間」に移行。「存在」から「存在の記憶」へ、やがて「存在したという消えない事実」に逢着し、執着を脱した。これが、「全存在は消える、だから存在に意味はない」という若者の科白を係りとした、係り結びであるのは見易い。


 <世界>と<社会>の往還をホラーというジャンルを用いて描いてきた数少ない日本の黒沢清監督の最高傑作は何でしょう。彼としては珍しくホラーの要素が皆無の『ニンゲン合格』(1999)だと思います。ラストの場面、死ぬ直前の西島秀俊が「俺は存在した?」と尋ね、役所広司が「確かに存在した」と告げます。役所広司が出演する全黒沢作品で、彼だけが一貫して<世界>の時間を生きるのでした。


 紙幅がなくなりました。「記憶が消えても、存在したという事実は消えない」。このモチーフを最先端の物理学理論を下敷きに展開したのがノーラン兄弟『インターステラー』(2014)。傑作とは言えませんが、僕らの時空連続体の不可逆時間の中で既に消失した事物が、1次元上の時空連続体の視座に対して「存在として現前する」様子が描かれます。でも僕らにはそうした現前は不要なのです。(宮台真司)