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イーストウッドが描く前代未聞の実話! 宇野維正がこの春必見の『運び屋』をレビュー

2019年02月18日 17:01  リアルサウンド

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 クリント・イーストウッドの前作『15時17分、パリ行き』の公開時に、英字新聞JAPAN TIMESに「日本の批評家は映画監督としてのイーストウッドを神格化しすぎている」という趣旨の記事が載った。新作『運び屋』について書く上でどうしてこの話からするかというと、そこで真っ先に名指しと引用をされていたのが、自分が『15時17分、パリ行き』に寄せたコメントだったからだ。その記事では「一番大きいのは蓮實重彦の影響だろう」とされていたが、少なくとも自分にとってイーストウッドが特別な映画作家であることは、過去の批評に依ったバイアスなどではなく、常にその「最新作」によって地固めされてきた現在進行形の自明の事実だ。


参考:クリント・イーストウッド監督・主演作『運び屋』脚本家が明かす、『グラン・トリノ』との関係性


 イーストウッドの長大なフィルモグラフィーにおいて、最新作『運び屋』にはまず二つの側面がある。一つは、2014年(日本公開は2015年)の『アメリカン・スナイパー』から、『ハドソン川の奇跡』、『15時17分、パリ行き』ときて、これが監督作としては4作連続しての「実話の映画化」であること。『バード』や『J・エドガー』のような伝記ものは別としても、それ以前からイーストウッドが実話を元にした作品を撮ることはあったが、それが4作も続くとなると、そこに明確な意図を読み取らないわけにはいかない。


 もう一つは、本作『運び屋』が2008年(日本公開は2009年)の『グラン・トリノ』以来10年ぶりとなる、イーストウッドの監督兼主演作であるということ。『グラン・トリノ』公開のタイミングで、イーストウッドは「今後はもう積極的に役は探さない。監督業に専念したい」と役者業の引退を示唆。その後、1作品だけ出演した『人生の特等席』は、1995年の『マディソン郡の橋』以来イーストウッド監督作品で助監督を務めてきた愛弟子ロバート・ロレンツが初めて監督業に乗り出すにあたっての、ご祝儀的な意味合いが強かった。


 4作連続の実話もの。『グラン・トリノ』以来の監督兼主演作。それは、本作『運び屋』が現在88歳のイーストウッドの一つの集大成であることを意味している。さらに重要な補足をすると、本作でイーストウッドは『グラン・トリノ』で43歳にして遅咲きの脚本家デビューをしたニック・シェンクと10年ぶりに再びタッグを組んでいる。『グラン・トリノ』は役者引退作を意識したイーストウッドの「次世代への遺言」的な作品であったが、『グラン・トリノ』とかなり近しい「文体」で語られる本作『運び屋』は、あの時に伝え忘れていたパーソナルな「家族への遺言」のような、深い余韻を残す作品となっているのだ。


 近年の4作に限らず、21世紀に入ってからのイーストウッドが断続的に実話ものを撮るようになった理由の一つは、映画という表現が本質的に宿している「作為性」への問いかけだと自分は考えている。「語りの自然さ」はイーストウッド監督作品の初期から見られる大きな特徴であったが、それを極めれば極めるほど、作家が頭の中でこしらえた「ドラマ」が作品から浮き上がってしまう。もちろん、役者にライトを当て、カメラを向け、役が演じられ、その素材を編集して音楽をつけること自体が「作為」に他ならないわけだが、それをどれだけ自然なものとして観客に提示するかを突き詰めていった際に、そこから削ぎ落とせるものがイーストウッドにとっては「ドラマ」だったのではないだろうか。


 実際に、『運び屋』は一見して驚くほど無作為な作品だ。本作で実在した「90歳のドラッグの運び屋」を演じているイーストウッド(撮影時は87歳だったので、驚くべきことに3歳上の役を演じていることになる)だが、冒頭の「過去」のシーンとその後の「現在」のシーンでメイクはもちろんのこと演じ方もまったく変えてないことに、一瞬当惑してしまう人も多いだろう。そんな無頓着さはキャスティングにも表れていて、ブラッドリー・クーパー、マイケル・ペーニャといった他の作品ならば主演クラスの役者が揃っているにもかかわらず、単純に彼らの出演シーンが思いの他少ないだけでなく、劇中での役の扱いも驚くほどぞんざいだ(そこが逆に新鮮なのだが)。イーストウッド作品においては、同時代の他のハリウッド映画の常識はまったく通用しないのだ。


 あくまでも主人公視点で、スルスルと反復と場所移動を淡々と繰り返しながら(なにしろ「運び屋」が主人公なので必然的にロードムービー、それも往来が繰り返される「反復のロードムービー」となる)、まるで水や空気のようにストーリーが無作為に進行していく『運び屋』だが、『グラン・トリノ』譲りの周囲の人々との軽妙なセリフの応酬もあいまって、とにかく呆気にとられるほど面白い。それは、ベースとなった実話の奇想天外さにも由来しているわけだが、それ以上に余計なものを周到に削ぎ落として映画のストーリーテリング(≠ドラマ)のみに奉仕している、イーストウッドの監督/演技者としてあらゆるものを達観して超越したそのスキルによるものだろう。その巧みさは、時制を大胆な編集で入れ替えることで、実話を基にした作品に不思議なグルーブを生み出していた『ハドソン川の奇跡』や『15時17分、パリ行き』の先進性とも異なる。少々乱暴かもしれないが敢えて指摘をするなら、イーストウッドがその同時代に絶対的なスターアクターとして君臨しながら、そうであったがゆえに微妙にすれ違ってきた60年代後半~70年代前半のニューシネマ的な自由な空気が本作にはある。


 クライマックスでヘリコプターまで出動して唐突に作品のスペクタル性が高まるにつれて、「60年代後半~70年代前半のニューシネマ的」という自分の印象は確信へと変わるのだが、それをもって本作を「懐古的」とするのは間違いだ。本作では、『ブレイキング・バッド』以降、ドラマでも映画でもブームが継続しているドラッグディールものへの目配せもしっかりとされている。『グラン・トリノ』以降、映画では『ジャッジ 裁かれる判事』を除いて映画作品がなかったが、その間に実話ものの『ナルコス』や同じく実話の犯罪者もの『マンハント』(いずれもNetflix作品)の脚本を手がけてきた脚本家のニック・シェンク。今回のイーストウッドとシェンクの10年ぶりのタッグには、『グラン・トリノ』の続編的作品という意味合いだけでなく、「ドラッグディール」の「実話もの」という必然的な理由もあったわけだ。


 映画において「作為性」を削ぎ落とすということは、場合によってはエンターテインメント性からの逃避と思われることもあるだろう。しかし、イーストウッドは最新作『運び屋』によって、久々に主演をしているという意味ではまさに自分の身体を張って、そんな意見は青二才の言い訳であることを証明してみせた。『運び屋』は今のところ今年最も優れた映画であるだけではない。今のところ今年最も面白い映画でもある。(宇野維正)