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『悪人』『横道世之介』『怒り』など相次ぐ映画化 吉田修一作品が映画監督を魅了する理由とは

2019年02月14日 06:01  リアルサウンド

リアルサウンド

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 吉田修一の小説は、『悪人』(2010)、『横道世之介』(2013)、『さよなら渓谷』(2013)、『怒り』(2016)など数多く映像化されてきた。今後に関しても『犯罪小説集』を瀬々敬久監督が『楽園』のタイトルで、綾野剛を主演に映画化して今秋公開の予定で、「鷹野一彦シリーズ」を羽住英一郎監督が『太陽は動かない』として2020年に映画化し、WOWOWでの連続ドラマ化もすると発表された。


参考:<a href=”https://www.realsound.jp/movie/2019/02/post-313061.html”>『映画刀剣乱舞』を傑作たらしめた小林靖子による脚本 “内と外”に向けた構造を読み解く</a>


 吉田は、純文学を対象とした芥川賞を受賞した作家であると同時に、犯罪を扱ったミステリー寄りの作品も多い。心理の細やかな扱いにみられる文学性と、起伏のあるドラマというエンターテインメント性をあわせもち、映像化原作に選ばれることが多い作家である点は、角田光代や、近年の中村文則とも近い受け入れられ方だ。なかでも吉田作品の特徴となっているのが、「場所」の魅力だ。


 映画『楽園』の瀬々監督は、原作の『犯罪小説集』が昨年11月に文庫化された際、巻末解説を担当した。彼は、「吉田修一氏の小説には登場人物たちの生きる空間がいつも丹念に描かれている。以前から、そこに強く惹きつけられてきた」と書き始める。そのうえで、博多から峠を越えた地方に主人公が住んでいた『悪人』、地方から上京した大学生の高揚感があった『横道世之介』、東京近郊の渓谷沿いの町に漂う寄る辺ない空気を描いた『さよなら渓谷』など、映像化された作品における人物と場所の結びつきかたの魅力を語っていた。


 解説文からは吉田の小説が、この風景のなかでこの人物が経験する物語を撮影したいという映画製作者の思いをかき立てるものであることが伝わってくる。瀬々は、吉田作品の登場人物が、地縁、血縁、仕事関係の縁、人々の噂話や他者への視線など、世間のなかで生きていることを指摘した。このことは、吉田本人が雑誌『ダ・ヴィンチ』2016年10月号(KADOKAWA/メディアファクトリー刊)のインタビューで「僕の小説の書き方は、最初に場所を決めるんです。場所を決めたら、そこにいそうな人たちが浮かんでくる。あとはその人たちがどういう人で、どういう生き方をしてきたかを書いていけば、おのずと物語は生まれます」と語っていたことと響きあう。


 犯罪を題材にした場合、事件がどのように起きたかという事実や、犯人は逮捕され裁かれるのかという捜査の行方が大きな問題となる。だが、事実認定や法的処罰とはべつに、あいつがやったに違いない、あの人がそんなことをするはずがないという疑念や信頼、あらゆるプラスとマイナスの感情が渦巻くのは避けられない。


 李相日監督で映画化された『悪人』では、保険外交員の女性を殺害した土木作業員が警察に疑われていることを察知し、出会い系で知りあった相手と逃避行する様を描く。自分に関する嘘を広められたくないと焦った結果、逆に世間を騒がせる事件になってしまったという皮肉な構図が、同作にはあった。


 同じく李監督で映画化された『怒り』では、物語を重層的な形にして、場所の空気感を濃密に描いた。八王子郊外で起きた夫婦惨殺事件の、整形手術をして逃走中だという犯人のモンタージュ写真が公開されたが、東京、房総、沖縄の3カ所に似た男が現れ、いずれも周囲に波紋を起こす。人となりのよくわからない3人の男は、それぞれ親しい人ができるが、疑いの目がむけられ始める。そばにいる人々は、信じたいのに信じきれないことに苦しむ。


 『悪人』や『怒り』が殺人事件を核にした物語だったのに対し、沖田修一監督が映画化した『横道世之介』はお人好しの大学生が主人公の青春ものであり、「善人」とでも名づけたい作品だった。同作は世之介の人柄ゆえに出会った人々に温もりが伝わっていった。犯罪小説と青春小説ではテイストが異なるものの、吉田の物語の描きかたには共通性がある。


 吉田は、トラベル・ミステリーのように観光地の風景を画としてただ切りとるのではなく、土地ごとの生活や人間関係のありかたとともに“場所”のディテールを描くのだ。都市か地方か、人口密度、働き口の多少や種類、暮らす人々の年齢層、にぎわいの有無などをそれとなく書きこみつつ登場人物を造形する。それが吉田作品の魅力の1つであり、映像化したい欲望を誘う。


 映画『怒り』に出演した渡辺謙は、同作を純愛の映画だと評するとともに、愛する人がいなくなる喪失感は、小説より映像のほうが鮮明に出るかもしれないと語った。「『スクリーンでずっと観続けていた人がいなくなってしまう』というリアリティは、映画ならではの感触だと思うんです」(『ダ・ヴィンチ』2016年10月号)というのだ。渡辺の話す感覚は、吉田修一原作だからなおさらそうなるのだと思う。吉田は、人間関係のあやとともに風景をしっかりとらえる。だからこそ、そこから人が去った時の喪失感が、いっそう大きくなる。


 吉田修一は自作「Water」の短編映画化で監督と脚本を務め、映画『悪人』でも李監督とともに脚本を書いた。だが、そもそも吉田の小説自体が、映像的要素を多分に含んでいるのである。象徴的なのは、芥川賞を受賞した中編『パーク・ライフ』(文春文庫刊)。主人公の男が、地下鉄で話しかけてきた女性と日比谷公園で再会する。コーヒーを持っていた通称「スタバ女」と主人公が微妙な距離感で交流するこの話に、ドラマチックな出来事はない。それなのに面白いのは、ちょっと奇妙な人物が出てきたりするからだろう。


 「スタバ女」には気になる存在がいた。いつも公園に来て、紐で箱を吊った気球を上げる老人だ。主人公たちがなぜそうしているのか質問すると、小型カメラを付けて真上から公園全体を映すのだという。だが、吊り下げた箱がクルクル回ってしまい、上手くいかない。なぜ公園を真上から映したいのかについては、老人は教えてくれなかった。


 『パーク・ライフ』が発表された2002年は、スターバックスが日本ではまだ目新しかった一方、安価で手軽に使えるドローンは普及していなかった。そんな時代の中編小説に現れた、上空から俯瞰したがる老人は、今見ているアングルとは違うアングルから見たいという吉田修一の作家としての欲望を象徴していたように感じられて興味深い。『悪人』以降、深化をみせた場所の描写も、『パーク・ライフ』のエピソードの執筆を経て成立したように思う。


 映画『楽園』は、4つの短編を収めた『犯罪小説集』から「青田Y字路」と「万屋善次郎」を組みあわせて物語を構築するという。「青田Y字路」では、過去に幼女誘拐事件が起きたY字路でまた同様の出来事が発生し、どこかに勤めることはせず母の商売を手伝う豪士(綾野剛)が疑われる。「万屋善次郎」では60代なのに限界集落では若手扱いされる善次郎(佐藤浩市)が、村おこしをめぐる行き違いから村八分にされる。どちらも地域になじめない男が追いつめられる構図だが、原作では別々の場所に設定されていた2つの物語をどう組みあわせて脚色するかが、ポイントだろう。


 これに対し『太陽は動かない』のプロジェクトでは、『太陽は動かない』、『森は知っている』、『ウォーターゲーム』の「鷹野一彦シリーズ」3部作のうち前2作の内容を映画化し、吉田修一監修のオリジナルストーリーをWOWOWで連続ドラマ化する。同シリーズは、エネルギー関連の産業スパイである鷹野一彦(藤原竜也)が、世界的な活躍をみせるアクション小説。鷹野は特殊なチップを胸に埋めこまれているという、アクション・エンタテインメントの主人公らしい設定だ。実際の事件からヒントを得るなど、リアリスティックだったこれまでの吉田修一原作映画とは、スケールが異なる世界観である。


 これから公開される映像が、吉田修一作品の“場所”をどのように描くのか、注目したい。  (文=円堂都司昭)