トップへ

イ・チャンドンは村上春樹作品をどう改変した? 『バーニング』が捉えた現代韓国の若者たちの感覚

2019年02月11日 10:01  リアルサウンド

リアルサウンド

写真

 村上春樹の短編小説『納屋を焼く』を原作としたイ・チャンドン『バーニング』は、しかし、原作とまったく異なる主題と余韻を持つ作品である。それは村上春樹とイ・チャンドンの作家性の違いがそのまま表出したものであり、つまり、つねに社会問題を視野に入れてきたイ・チャンドンらしい「解釈」が原作に鋭く刻みこまれているのである。『バーニング 劇場版』が語るのは、春樹作品らしい曖昧な不安や倦怠ではない。


参考:菊地成孔の『新感染 ファイナル・エクスプレス』評:国土が日本の半分の国。での「特急内ゾンビ映画」その息苦しいまでの息苦しさと上品な斬新さ


 とはいえ、『バーニング』はたしかに『納屋を焼く』の設定を踏襲している。主人公の「僕」があるとき「彼女」に出会い、その後「彼女」が知り合った「彼」から他人の納屋を焼いていると聞く……というストーリーは、納屋がビニールハウスに置き換えられているところ以外は同様だ。しかし、そこで描かれるキャラクターがまるで違う。主人公のジョンス(ユ・アイン)は現代韓国に生きる作家志望の貧しい若者であり、幼馴染だというヘミ(チョン・ジョンソ)にあるとき再会する(ヘミは整形したと言っており、ジョンスははじめ彼女に気がつかない)。ふと肉体関係を持つジョンスとヘミだが、ヘミはその後アフリカへと旅行し、彼女は現地でベン(スティーヴン・ユァン)と名乗る裕福だが謎めいた男と親しくなっている。3人で会ううちに、ふと、「定期的に他人のビニールハウスを焼いている」とジョンスに漏らすベン。そしてヘミが失踪する。


 ジョンスはまったく村上春樹の作品らしからぬ主人公として本作に現れる。原作の「僕」は何かしらの形を持たない倦怠感を抱えた青年であり、そのことで現実との接点を持っていないような感触があるが、『バーニング』のジョンスは暴力事件を起こし裁判にかけられている父親を持っており、日雇いの仕事でどうにか生計を立てているようなあり様だ。大抵のとき猫背で口が半開きのユ・アインは、村上春樹作品では定番の理知的で達観したかのような「僕」とイメージがまったく異なるのである。あるいはまた、恋愛にのめりこまない村上春樹作品の主人公たちと違い、ジョンスはどうしようもなくヘミに恋をしてしまい、やがて自分が持っていないものをすべて持っているベンに強く嫉妬を覚えるようになる。


 なぜこのような改変が取り入れられたかといえば、『バーニング』に横たわっているのが現代韓国社会において根深い問題となっている経済格差であるからだ。ジョンスとさほど年の変わらないベンがなぜ「ギャッツビーのような」裕福な暮らしをしているのかジョンスにはまったく理解できないし、それどころか父から負の遺産を受け継いだジョンスはそのことで苦しい生活を強いられている。そして、その裕福な男は自分が恋をした女性を洗練された佇まいでもって、いとも簡単に奪い去ろうとするのである。韓国のラブコメ・ドラマなどを観ていると財閥の御曹司という設定が頻出するが、それはつまり、現代韓国における「王子様」ということだろう。ハンサムで裕福なベンはまさに王子様だが、それでいうとジョンスは地べたに這いつくばって生きる下々の民である。民はそして、明るい未来を思い描くことができない。


 『バーニング』には原作にも存在するエピソードがところどころで挿入されているが、とりわけ興味深いのが、ヘミがパントマイムをやっていると話すくだりである。ミカンを剥く動作を披露したあと、「“ある”と考えるのではなくて、そこに“ない”ということを忘れればいい」というヘミ。原作で「僕」は「まるで禅だな」といかにも春樹作品の主人公らしい気の効いたことを言うのだが、ジョンスはただ口を開けている。なぜならば、ジョンスのような持たざる者にとって“ない”というのはいつだって切実な問題であって、けっして忘れることなどできないものだからだ。


 映画のハイライトは中盤、マイルス・デイヴィスが流れるなかヘミが上半身裸で踊る退廃的で優美な一幕だろう。自然光で撮影したと思しきそのシーンを経て、画面はほとんど何も見えなくなるほどどんどん暗くなっていく。そしてベンが件のビニールハウス焼きについて漏らし、映画は不可解な領域に突入していく。ジョンスは失踪したヘミを追えば追うほど何も掴めなくなり、優雅な佇まいを崩さないベンに迫ることもできない。何も見えない。見つからない。この、自分の預かり知らないところですべてがコントロールされ、すべてが奪われていくという感覚は、現代韓国の貧しい若者たちが実際に抱いているものに違いない。「なぜか分からないが裕福なやつら」によって自分たちの人生は搾取されていて、それはけっして覆せないという感覚。消えることのない嫉妬と怒り。


 だからこそ、その怒りが閾値に達するラスト・シーンは生々しい迫力をスクリーンに刻みこむ。息を呑む長回しのワンカットは、まさにそうした怒りがいまにも爆発しそうであることを観る者に突きつけてくるのである。その後ジョンスが取る行動には様々な解釈が可能だが、つねに受動的だった彼がついに主体的に「持たざる者」であることを受け入れたのだと自分には感じられた。翻って日本では、低収入であるにもかかわらず自分自身を「貧しい」と思わない層がいまだに多いというデータがあるそうだが、そうして現実に目を向けないまま格差は広がっていく。『バーニング』は、我々の知らないところで起きている不可解な現実に翻弄され、それでもどうにか対峙しようとする苦悶についての映画である。いまもどこかで、ビニールハウスが焼け落ちている。(文=木津毅)