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ゆっきゅんの『チワワちゃん』評:“たくさんのひとり”と見つめたい、僕らの映画

2019年02月10日 12:01  リアルサウンド

リアルサウンド

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 “エイガサントラー”を自称する、架空の映画のサウンドトラックを歌う男女2人組ユニット「電影と少年CQ」。メンバーの1人であるゆっきゅんは、新世代のポップアイコンとして、ライブ、執筆、演技などさまざまな表現活動を行っている。岡崎京子の伝説的コミック『チワワちゃん』のファンを公言する彼は、門脇麦×吉田詩織による実写映画をどう観たか。(編集部)


 チワワちゃんのことを知ってるし、ミキのことはいつも見てる。吉田くんは知り合いだし、ユミちゃんと会うと何でも話してしまう。友達とかは少ない方だと思うけど、この人たちのことずっと知ってたよって思った。他人とか、自分とかがいた。


 『チワワちゃん』を見てまずアガるのはその同時代性だろう。大音量のクラブミュージックに極彩色の照明と美術、登場人物同士が撮影する映像、チワワが有名になるきっかけを作ったInstagramとか。短いカットの素早いつなぎも、スローモーションも、ありふれた日常に耐えられない若者の飽きっぽさに応答しているようだった。Twitterに流れる2分20秒までの動画も最初の10秒くらいしか見ていられないんだよね、友達のInstagramのストーリーズは全部見てるけど。とにかく退屈で仕方がなくて、ギラついた刺激にしか反応できなくなってしまったから、好きなものだけを見ていられるようになった世界はこの先閉じていく一方なのかな? 今、人々がわざわざ映画館に行く理由として音楽は欠かせないものになっている(『君の名は。』『ラ・ラ・ランド』、爆音映画祭等……)という実感がある。映画の世界にどっぷり飲まれることを求めている、だってそうじゃないならスマホでネトフリ見ればいいから。では映像と音楽と言葉と身体の混ざり合いにのめりこませてくれる、その映画という芸術に自分たちの姿があったならどうだろうか? あなたがスクリーンに現れているように思えたら? 今夜は何も忘れないままで踊ろう。僕はこの『チワワちゃん』を映画館で見ることに強い意味を感じた。他人のひとりぼっちが集まる暗闇で、たくさんのひとりと見つめたい、僕らの映画。


 1994年に発表された岡崎京子の作品をもとに映画を作るとき、舞台を2018年に移したことは正しく見えた。なぜなら原作こそ、その時代の一瞬の空気を反映したものだったから。この映画で表現されるのは物語よりも空気だった。仲良くしていたグループに現れて、瞬く間に人気者になっていった、チワワちゃんというあだ名の女の子が死んだというニュースが流れて、あの頃の仲間達それぞれから見たチワワちゃんについて語るという物語で、変化したり成長したり冒険したりという話ではない。雰囲気の映画ってことでもなくて、2018年の東京の彼女たちに流れる、もはや、に“しか”流れない空気を、繊細かつ強引に焼き付けた稀有な芸術だったと言いたい。表現の手法において現代や現在の感覚を反映するということは、常に危険を孕んでいる。その「現在」が常に進化して変化していくことが当たり前に定められている点において、切り取ったはずの今は次の瞬間には過去になっているからだ。それでも今しか作れない作品を作ってくれてありがとうございます。原作がそうだったように、この映画は決して古臭くはならず、普遍性を持って未来にはまた別の輝きを得るものになっているのだと思う。


 僕は映画を見た後、なぜかチワワちゃんの顔だけがぼんやりして思い出せなかった。それは多分、他人から見たチワワちゃんしか、この映画には存在していなかったからだったような気がする。ミキから見たチワワちゃん、カツオくんから見たチワワちゃん、ナガイくんから見たチワワちゃん……。人が死んだら、周りから見たその人だけが、他人の中にバラバラに残るんだよな、と当たり前のことを思う。あなたが見た私の像だけが残る。もし自分で自分の言葉を残していたとしてもそうなのだろう。ひとりぼっちのチワワちゃんを誰も知らなかったから、知られないまま、死んじゃった。まあ、殊チワワちゃんには、一人でいられないという孤独がずっとつきまとっていたようにも思えるけれど。生きている人でも同じこと、自分があなたに会ったときのあなたしか、この目で見ることができないのだった。全員が人生を持った人間で、その人間たちの少しの時間を切り取って見せてくれるのが映画だとして、映画が映したその人しか知ることができない。ああ、他人の数だけ、自分がいる。生きているだけなのにアイドルみたいで気持ちが悪い。


 僕はアイドルという仕事をやっています。アイドルとは何かって、あなたが見た私が本当の私ですって言える存在であることじゃないかなって思ってる。好きですって言われたらありがとうって返事できるって意味。無数の他人の幻想の中にそれぞれに存在しうる自分を受け入れることができる人。僕はそれが楽しくて、ファンの個人の眼差しを愛する才能があるからアイドルをやっている。耐えるなんて感覚は一切ない。でも普通の人は受け入れなくていいし、耐える必要がどこにもない。どうかあなたの人生を生きてください。チワワちゃんは、自分の人生を生きていたのかな。自分の人生を生きるとか、生きてないとか、その基準がどこにあるのかよくわからなくなっていま思考停止したけれど、チワワちゃんが笑顔の隙に時折見せたあの寂しげな瞳を、僕もどこかで見かけた気がして、少し胸が痛む。


 『チワワちゃん』について最も深く見つめることになったのが、門脇麦さんの演じるミキだった。ミキは趣味でナガイくんの写真のモデルをしてInstagramに載せていた。その影響もあって Instagramを始めたチワワちゃんは、有名なモデルにシェアされたこともあって、ミキよりよりどんどんフォロワーを増やし、モデルとして活動するようになっていく。元々少し好きだった男の子の新しい彼女としてミキの前に現れたチワワちゃんがどんどん輝いて有名になっていって、どこか取り残されるようなミキの姿。ミキはチワワについて雑誌の取材を受ける中で、あの頃の仲間たちにチワワの話を聞いて回る。


 門脇麦さんが素晴らしくなかったことは一度もないですが、今回も素晴らしかった。いつも僕たちの視点で世界と対峙する人。諦観を宿した眼差しでこちらを見ている。世界のこと、他人のこと、冷徹に見透かしているようで、そこに向けられている自分の欲望や葛藤にもどうしようもなく気づきながらも、自分のことだけは見透かさないでほしいという気持ちまでも観客には見えてしまうような、そんな瞳で、過去から今を照らそうと足掻いていた。大音量の音楽を人混みで共有する空間の中で、ミキだけに、ミキだけの静寂が流れてしまう瞬間があったように思った。みんな過去も未来も、全てを忘れたくて、どうでもいいって思いたくて、集団に自分を溶かすように踊っていたのに、それでも逃れられない空洞があることを、ミキは知っていた。なかったことにならない人、それがミキだったように思った。美しかったな。


 エンドロールで流れるHave a Nice Day!の「僕らの時代」を聴くと、映画の色がいくらでも思い出せる。でも僕らの時代って何だろう。何だったんだろう。てかいつのこと? 僕らとか時代とかいうのは、色のついたもやがかかったぼんやりとしたもので、はっきりとしない、そんなもんなんだろう。はあ、今日も色んなことを考えて、全て忘れた。生きているこんなにいびつな今さえも、表現すればきれいな輪郭を持ってしまうのだから、思い出になんてなってしまったら、本当のことなんて夢の中だ。輝いた瞬間を忘れてしまうのやだな、でも振り返ったら綺麗なことだけになるのもやだ、今を今だけでは感じ切ることができないのも悲しい。2018年の東京を生きる自分の今が確実に過去になることを感じながら、『チワワちゃん』が放つ、妖しくてうるさくて派手で寂しい輝きを忘れたくないと思った。(ゆっきゅん)