2019年02月10日 10:21 弁護士ドットコム
人間と人間そっくりのアンドロイドが共生するようになった社会で、一体何が起きるのか。司法試験合格者の加藤渡さん(ペンネーム)の小説の後編をお届けします。
【関連記事:会社のウォーターサーバー「正社員以外禁止」…派遣社員と差をつけることは違法?】
(前回までのあらすじ) 人間そっくりのアンドロイドが人間と共生を始めてから10年程が経った西暦2119年。アンドロイドとのコミュニケーション専門の相談室で相談員の仕事をしている主人公 (女性)は、アンドロイド研究者の夫・エイトが、住み込みのお手伝いとして自宅に連れてきたアンドロイド・ルナと出会う。ルナとは「ずっといてくれればいいのに」と思うほど良好な関係だったが、ある日、自宅に早く帰宅すると、エイトとルナがベッドで抱き合って、性行為をしている衝撃の場面に遭遇する。
【前編】アンドロイドとの共同生活、壮絶な裏切り劇「部品の塊なのに…なぜ」 https://www.bengo4.com/internet/n_9188/
*****
「どうされましたか」
机を挟み、はす向かいに座る初老の男性弁護士が柔らかく言った。相手に安心感を与える声だった。いい相談員だな、と咄嗟に感じた後、自分が相談者側に座っていることを認識して途方に暮れそうになった。腿の上で組んだ両手をぐっと握り合わせて吐き気を堪える。
「離婚しようと思っていて。それから慰謝料の請求も」
弁護士が続きを促すように頷いた。
「夫が浮気をしていたので、家を出て来たんです。夫は今、その家で、浮気相手と一緒に暮らしています」
自分が口に出した言葉が針になって突き刺さってくるようだった。喉の奥がちくちくする。
「それで、その相手が、」
呼吸が浅くなり、左の鎖骨を右手で押さえた。心配そうな視線を寄越す弁護士に対して小さく手を振り、大丈夫だと示す。意識的に息を大きく吸った。
「アンドロイドで」
弁護士は目を見開いただけで大きく表情を動かしたわけではなかったが、顔が熱くなった。アンドロイドに夫を取られた妻だと思われるのが、恥ずかしくて情けなかった。何度も何度も反芻して、もう考えるのをやめようと何度も何度も決意したはずの疑問が、性懲りもなく、また蘇ってくる。
私の、女性としての魅力は、人間としての魅力は、アンドロイドに劣るものだった…?
「アンドロイドとパートナーの、性交があったということで間違いないのでしょうか。つまり、確かな証拠などが残っていると」
冷静で穏やかな弁護士の声に、気持ちが少しだけ凪ぐ。
「はい、あの…目撃したので」
「あぁ、それは、ショックでしたね」
「はい…」
「ただ、水を差すようで申し訳ないのですが、現行法では、アンドロイドとの性交が不貞として直ちに認められるかは微妙なところなんです」
「どういうことですか」
予想外の言葉に、火照っていた体がすっと冷えた。
「アンドロイドなんてロボットじゃないか、ロボットを好きに使って何が悪い…というようなことを主張している人達が、今でも一定数、いるんですよね。特に、アンドロイドに対する暴行、傷害、強制性交などが問題になった場合に、そういう主張がよくなされます。とは言っても、刑事分野に関しては、アンドロイド保護法に処罰規定が置かれているので、基本的にはそちらで対応できるんです。しかし、民事分野は法律の整備が追い付いてなくて」
「アンドロイドとセックスしても不貞にはならない…?」
「それが、不貞ではないと言い切ることもできないのです。似たような事案は最近急増しているのですが、判例が出るか、法律が整備されるまでは、どちらとも言い難いところで。なので、仮に相手方が離婚に応じないということであれば、アンドロイドとの性交の事実を、不貞ではなく『婚姻を継続し難い重大な事由』に当たると主張する方が良いでしょうね」
「婚姻を継続し難い重大な事由?」
「はい。夫婦関係が破綻していて修復不可能な事情があれば、不貞などがなくても離婚原因として認められるのです。まぁ、わかりやすく言うと、アンドロイドとの性交が夫婦生活をぶち壊したんだ、と主張をするということですね。慰謝料請求についても、主張の中身としては同様になるかと思われます」
「なるほど」
「それに対して相手方は、アンドロイドとの性交は、ラブドールやセックスボットを用いて行う自慰と同じであって何も問題はない、と反論してくるでしょうね」
「そんな反論、認められるんですか」
「それは、何とも言い難いところです。さっきから曖昧な言い方ばかりで申し訳ないのですが、なにぶん判例や通説がない問題なので。裁判官の考え方でも大分差が出るかもしれません。アンドロイドを人と変わらないと考えれば離婚も慰謝料も認められるでしょうし、人とは違う物でしかないと考えれば認められない…」
*****
弁護士事務所を出た時には20時を過ぎていた。タクシーに乗り込み行先をタッチパネルで入力した後も、先ほど弁護士に言われた言葉が頭の中を渦巻いていた。
―アンドロイドとのセックスは、自慰と同じだ…。
混乱していた。エイトとの間の愛情は失われたのだと思い込んでいた。けれど、人によっては、見方によっては、エイトの行ったことも、裏切りではないのだ。
もしかしたら、やり直せる?あの日エイトは趣向を変えた自慰をしたくなっただけかもしれない…。
そう思った瞬間、窓ガラスに映る自分の顔が目に入り、ぞっとした。
口角だけが不自然に上げられ、目は全く笑っていない。外見が人間と大きく異なっていた頃のアンドロイドのような、無機質な顔をしていた。
何を考えてるの?エイトがしていたことは自慰と一緒?アンドロイドは物?違うでしょう?そんなんじゃないでしょう…?
突然、いつかエイトが口にしていた言葉が頭の中で再生された。
―僕はどちらが優れているとも思わないよ。ただ、自分がこうありたいという望みがあって、それに従って動いているだけだ…。
思い出した瞬間、呼吸を忘れていた。
そうだ。大切なのは、私がどうありたいかだ…。
裁判で争うのは、やめよう。法廷でアンドロイドが物かどうかに決着をつけるなんて、そんなのうんざりだ。
正しい答えなんてない。存在するのは、私がどうありたいか、どこに進みたいかという望みだけだ。ここで私の人生が終わるわけではないのだから。そうだとしたら、私は何を望む?前に進むために、何を望む…?
窓ガラスの縁についていた頬杖を外し、タクシーのタッチパネルを操作して、行先を変更した。
*****
数か月ぶりの自宅は、外から見る分にはどこも変わっていないように見えた。
インターホンを鳴らすと、スピーカー越しに人が動く気配が伝わってきた。深呼吸をする。彼女はどんな顔をするだろうか。どんな顔を見せられても構わない。ただ、一言、謝られさえすれば。上っ面でもいいから、一言謝られさえすれば、私は、前に進める。
予めルナが扉を開ける場面を予想していたので、実際に彼女が出てきた時にもそこまで動揺しないで済んだ。ルナの方も、室内のモニターでこちらの姿を確認していたのだろう、戸惑ってはいるようだったが、狼狽している風ではなかった。ただ、その右手はしっかりと、ドアの内側の開閉スイッチに掛けられていた。
「久しぶり」
「…お久しぶりです」
開け放したドアに吸い込まれるように、背後から冷たい風が吹きつけてきた。沈黙を破ったのは、ルナの方だった。
「あの」
「言い訳は聞きたくない。過去への未練もないし、あなた達の間で何があったのかも興味はない。ただ」
一息で言い切れなかったことがなぜか悔しかった。顎を引いて、ルナと目を合わせた。
「ただ、あなたに、謝ってもらいたいの」
「謝る?」
ルナは、よくわからない、とでも言いたげな表情を浮かべた。その顔を見たら、頬がかっと熱くなった。体中の血が激しく駆け巡る。
「私の話、聞いてる?謝れって言ってるの」
ルナの左肩を押そうとすると、体に触れる寸前のところで手首を掴まれた。その手の冷たさに、背筋がぞくりとした。
「ちょっと、離してよ!謝って!」
「なぜ」
「なぜ?自分のしたことわかってるの?」
「したこと」
「私の夫に…」
夫、と口にした瞬間、もう涸れたと思っていた涙がこみ上げてきた。悲しい、まだ悲しい。そして悔しい。ルナの手を振り払い、涙を拭う。ルナを睨みつけると、突然、音声が聞こえてきた。
「あはははは」
はじめは、何かの機械音かと思った。よく聞けばそれは、かつて毎日耳にしていた、細くて高いルナの声だった。けれど、その笑い声は、声と呼べるようなものではなかった。
「あはははは。馬鹿みたい」
「っ…」
気が付けば、仰向けに倒れたルナの上に馬乗りになっていた。顔を殴ったが、指の付け根がじんじんと痛むだけでルナの笑い声は鳴り止まなかった。首を引っ掻いても、むにむにという感触があるだけで傷一つ付かない。
「あはははは」
どうしよう、止めないと。
無我夢中で周りを見渡すと、床に鞄の中身が散らばっていた。タブレット端末の液晶が割れ、破片がポーチライトを反射してきらきらと光っている。そのひび割れたタブレットに右手を伸ばした。両手で持ち直し、渾身の力で振り上げた―。
*****
「公訴事実、被告人は2119年2月5日午後9時頃、湊区五本木1丁目1番1号所在のエイト・タカハシ方において、エイト・タカハシ管理下にあるアンドロイドGT128型、通称名ルナに対し、その肩付近を突いて転倒させたうえ、頭部を所携のタブレット端末で複数回殴るなどの暴行を加え、同アンドロイドを破壊し、修復不可能にしたものである。罪名及び罰条、器物損壊、刑法261条、アンドロイド保護法虐待禁止規定違反、同法26条。以上について審理願います」
「ここで被告人に注意しておくことがあります。被告人には黙秘権という権利があります。答えたくない質問には答えなくても構いません。最初から最後までずっと黙っていることもできます。質問に答えても構いませんが、話したことは、有利な証拠にも不利な証拠にもなります。いいですね」
「はい」
「では被告人に質問します。今、検察官が読み上げた事実で、何か違うことはありますか」
「…わかりません」
「わからない?何が?」
「私は、アンドロイドを殴りました。でもそれが…器物損壊とか、アンドロイド保護法違反とか…私のしたことが何になるのか…」
思ったことを口にしたはずなのに、裁判官は戸惑ったように目を泳がせた後、弁護士に視線を移した。
「弁護人のご意見はいかがですか」
「被害アンドロイドは、指定有害ウイルスに感染し、故障していました。そのため、アンドロイド保護法虐待禁止規定の適用除外に当たり、同規定違反は成立しません。ウイルスの種類は…」
「ウイルスだって?まさか!ルナを侮辱するな!」
突然、男の叫び声が響き渡った。傍聴席がざわめく。裁判官が顔をしかめた。
「傍聴人は静粛に」
弁護士が同情するような視線を一瞬傍聴席に投げかけ、再び口を開いた。
「繰り返します。被害アンドロイドは、指定有害ウイルスに感染し故障していました。そのためアンドロイド保護法虐待禁止規定の適用除外に当たり、同規定違反は成立しません。ウイルスの種類はHK3で、これは近くにいる異性を誘惑し、人間関係を破綻させるように人工知能のプログラムを書き換えるものであります。器物損壊罪については認めます」
「嘘だ!ルナは僕を愛していたんだ!故障なんかしていなかった!ルナは、殺されたんだ」
後ろの方でがたがたという音がした。振り向くと、エイトがバーの寸前で廷吏ロボットに取り押さえられているのが見えた。エイトと目が合うと、彼は苦悶の表情を浮かべて目を逸らした。エイトに向き直り、深く息を吸い込んだ。
「確かだと信じていたものが、幻想だったと思い知る気分は、どう?」
裁判官が何かを叫んでいたが、言葉は耳に入らなかった。
「何もかも、不確かなの。全部ね。私達は、自分達で、自分達の都合の良いように決めてるだけなのよ。あなたのしたことが不貞なのか、彼女が私達に抱いていたものが感情だったのか、私が彼女にしたことが殺人なのか、器物損壊なのか、それとも、何かの法律違反なのか」
廷吏ロボットに手首を掴まれた。同じように手首を掴まれたときの感触が、鮮明に蘇ってくる。
「彼女は、私にそれを教えてくれたの。私はそう思ってる。あなたは?あなたはどう思う?ねぇ、どう思う?」
耳の奥に、細くて高い彼女の笑い声が響いていた。
あの日からずっと、鳴り止むことなく。
<あとがき>
これはSFではありますが、未来で実際に生じうる法律問題をテーマとした物語です。
情報が溢れかえり直接触れられる確かなものが減りつつあるこの世界で他者を尊重すること・信じることの脆さと美しさを書きたいと思い、この物語が生まれました。
前後編にわたる物語を読んで下さった皆様に、心より感謝申し上げます。ありがとうございました。
※加藤渡さんの過去の作品『「本当に妊娠できるんですよね?」34歳専業主婦が信じた「許されない道」』はこちら
https://www.bengo4.com/c_3/n_9046/