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現在の社会状況をも浮かび上がらせるユニークな視点 『フロントランナー』が描いた重要な問題

2019年02月07日 12:51  リアルサウンド

リアルサウンド

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 政治家のプライベートなスキャンダルは、果たしてどの程度まで追いかけ、報道するべきなのか?


参考:ヒュー・ジャックマンが語る、俳優の夢を追い続けられた理由 「僕は自分と5年契約を結んできた」


 時は1988年。ジョン・F・ケネディの再来と言われ、史上最年少の46歳で大統領候補になった、実在の政治家ゲイリー・ハートは、その見事な話術とカリスマ性で、民主党・大統領候補のトップを走る「フロントランナー」となった。しかし、“ある疑惑”が報じられたことで、彼は勝利を目の前にして窮地に陥ることになる。


 実話を基にした本作『フロントランナー』は、当時の政治家と国民、そしてメディアとの関係から生まれる問題に一石を投じながら、現在の社会状況をも浮かび上がらせるユニークな視点を持った作品だ。そしてその問題は、アメリカだけでなく日本を含めた世界の国々にも共通する点が多い。ここでは、そんな本作が描いた重要な問題を読み解いていきたい。


 映画俳優出身でタカ派の大統領ロナルド・レーガンの任期中、次期大統領の候補として人気があったのが、ゲイリー・ハートだった。彼は出馬表明をする際に、記者たちとともにわざわざグランドキャニオンの山に登って演説を行ったり、進歩的な政策を多くの人に分かりやすいように要約するなど、国民の欲するものを十分に理解していた。


 ハートを演じるのはヒュー・ジャックマンだ。彼は『LOGAN/ローガン』では年をとって傷つき弱っていくヒーローを演じていたが、大統領選の候補を演じさせれば、まだまだ若手である。本作では対照的に、選挙演説などで精力的に若さをアピールしているところが面白い。


 各地でのパフォーマンスをこなし、フロントランナーとして万事順調に大統領への道をひた走るハートだったが、ただ一つのスキャンダルが選挙選の趨勢を一気に変化させてしまうことになる。それは、ハートの不倫報道だった。本作は、この不倫問題を中心に、ハートの家庭、選挙事務所、報道機関の人々のドラマを描いていく。


 本作のジェイソン・ライトマン監督は、『マイレージ、マイライフ』(2009年)、『ヤング≒アダルト』(2011年)などコメディーの印象が強く、政治的な実話を映画化したのは今回が初めてだが、彼の映画には社会的な問題が根底に流れていることが多い。さらに『フロントランナー』は、騒動に翻弄され狼狽する人々を俯瞰して描いているという意味では、コメディーとして見ることもできる。そういった事情を考えるとジェイソン・ライトマン監督は適任だといえる。しかし彼は今回、コメディーとしての色を抑え、予想以上に重厚なバランスで演出を行っている。それは本作に存在する問題が、笑えないほどシリアスな部分を持っていたからではないだろうか。


 国民から愛されたジョン・F・ケネディは、映画スターのマリリン・モンローなど、多くの女性と不倫関係にあった。だが当時の報道機関は、政治家のプライベートを暴くことについて一定の自制があり、このようなセンセーショナルな扱いはされていなかった。その頃であれば、ハートの行為も黙認されていたに違いない。そのような“紳士協定”が通用しなくなってきたのが、この1988年だったのだ。


 なぜ状況が変わったのか。それは、一つにゲイリー・ハートという人物のパフォーマンスに理由がある。本作で描かれているように、ハンサムで人を惹きつける魅力を持ったハートは、山で演説をしたり斧を投げたり、大衆受けを狙う方法で人気を集めることに努めていた。その「ポピュリズム(大衆迎合主義)」的な行動が、彼を芸能人に近い存在であるかのように認識させ、ゴシップを暴かせてしまったのかもしれない。


 またその頃、現職の大統領が実際に映画俳優だったということも見逃せない。見栄えが良く人気を集めるために、政治家はハリウッドスターに接近しようと務め、その代償として、世間は悪い意味でも特定の政治家を芸能人として見るようになっていったように考えられる。さらにハートはクリーンなイメージで、進歩的な政策を打ち出すことで支持を集めてきたので、不倫のようなスキャンダルが報道されると致命的なダメージを被ることになる。


 問題は、この報道が選挙の結果に大きく影響したという点である。一人の記者、一つの報道機関の判断が、国の将来を左右してしまうのだ。しかし、この責任はメディアにだけ存在するというわけでもなさそうだ。このような報道を喜び、鵜呑みにして右往左往してしまう多くの市民にも問題はあるだろうし、そもそも政治家が不倫をしなければ、こんな事態に陥ることはなかったのである。


 それでもハートは、政策の中身ではなく、プライベートな行為だけで判断されることに不満を持ち、多くの報道陣の前に立ち、彼らを通して国民全体へ疑問をぶつける。たしかに、国民の投票によって決定される「大統領」という存在は重い。不倫をするような人物は相応しくないというのは、真っ当な考えではある。とくに進歩を掲げる政治家が、ある女性を性的な存在としてのみ扱っているような行動をとっていては、資質を疑われても文句は言えないはずだ。これは、一面では女性の権利や尊厳を守ることにつながるかもしれない。


 しかしハートが劇中で主張するとおり、有権者たちは政治家のプライベートとは別に、政策は政策として独立した判断をすることも重要ではないのか。有権者の生活に直結するのはあくまで政策なのだから、それを軽視することは有権者自身の首を締めることにもなりかねない。


 ここでジェイソン・ライトマン監督をはじめとする製作者がテーマに内包する問題として想定しているのは、現在の政治状況であろう。資産家でTV出演の機会が多いドナルド・トランプが大統領選に勝利し、次の大統領候補には、「メディアの女王」と呼ばれるオプラ・ウィンフリーが出馬するのではと、まことしやかにささやかれている。ここにおいて、アメリカの政治と芸能界の境界は、限りなく曖昧になってきているといえよう。このような状況になる端緒として、ゲイリー・ハートの問題があったと見立てることで、問題の根が立体的な形を見せはじめるのだ。


 本作は、あるべき選択や答えを提示することはない。あくまで状況を整理し、問題点を洗い出しているだけだ。それだけに内容は比較的客観的なバランスを保ち、様々な感想や解釈、観客のあらゆる意見を許すつくりになっている。とはいえ、この作品を観ることで、こういった問題があることを多くの人間が意識することになるのはたしかだ。それだけで本作は、社会的に意味のある映画の一つとして、残り続ける価値がある。(小野寺系)