トップへ

“戦争小説”の書き手としてのサリンジャー 『ライ麦畑の反逆児』が捉えた生涯の苦しみと矛盾

2019年01月29日 12:01  リアルサウンド

リアルサウンド

写真

 1919年1月生まれの米小説家J・D・サリンジャーは、生きていれば今年で100歳。彼の生誕100周年を祝して、というわけでもないだろうが、サリンジャーにまつわる映画が連続して公開されている。2018年10月に日本公開された『マイ・プレシャス・リスト』の主人公女性キャリーは、愛読書が『フラニーとゾーイー』であり、作品全体もサリンジャーへのオマージュが随所に散りばめられた愛らしいフィルムであった。また、同じく昨年10月の日本公開作『ライ麦畑で出会ったら』は、サリンジャーを心の拠りどころとする高校生ジェイミーが『ライ麦畑でつかまえて』を演劇として公演するため、本人の住むニューハンプシャーの家へ会いに出かけて、舞台化の許可を直接取りつけようとする過程を描いたロードムービーである。サリンジャーの代表作『ライ麦畑でつかまえて』(白水社)は1951年の作品だが、60年以上前に発表された小説が21世紀になってもインスピレーションの源でありつづける点からも、彼が米文化に与えた影響力の大きさは計り知れない。


 『ライ麦畑の反逆児 ひとりぼっちのサリンジャー』は、ケネス・スラウェンスキーの評伝『サリンジャー 生涯91年の真実』(晶文社)の映画化である。同書は、米文学の研究者や熱心なファン以外はまず手に取らないであろう、かなり専門的な評伝であるため、映画の原作となるのは意外だった。その点について調べてみると、かねてからサリンジャーを愛読していた監督ダニー・ストロングがその内容に感激し、映画化権を取得したという経緯があった(劇場用パンフレット内記述)。本作におけるサリンジャー像や、取り上げられるエピソードの納得度が高いのは、しっかりとした原作が下敷きであることにくわえて、サリンジャーをよく理解する監督によって手がけられた点が挙げられるだろう。主人公の生涯を、欠点や愚かさも含めてフェアに描きつつ、愛を持って作品化した『ライ麦畑の反逆児 ひとりぼっちのサリンジャー』は、海外文学ファンにとっても満足度の高いフィルムである。


 作品冒頭、サリンジャーは病院にいる。1945年、彼は第二次世界大戦で厳しい戦いを経験し、終戦後にアメリカへ戻ってきたのだ。彼は負傷こそしなかったものの、精神的な傷を癒すために入院している。ノルマンディ上陸作戦にひとりの兵士として参加したサリンジャーは、まさに映画『プライベート・ライアン』(’98)に登場する、あの無数の兵士たちのひとりとして(オマハビーチからは上陸していないが)、激しい戦闘をくぐり抜けたのである。病院にいるサリンジャーは視点も定まらず、PTSDに苦しむ様子がうかがえる。「無数の人間の苦しみと破滅に、彼は取り囲まれていた。自分は根本から、認識できないほど変わってしまったのだと考えずにはいられなかった」(デイヴィッド・シールズ/シェーン・サレルノ『サリンジャー』角川書店 p191)。病院でうつろな目をした主人公を最初に提示した意図は、サリンジャーの作品がPTSD文学であり、戦場のでてこない戦争小説であるという原作の主張に沿ったものだろう。


 彼を生涯にわたって苦しめた戦争の記憶、激しい暴力のフラッシュバックに悩む主人公の姿は、本作において非常に伝わりやすく映像化されている。楽しいはずのパーティーで、突如として襲ってくる戦場の記憶に混乱する場面は効果的だ。「帰国兵士はほとんどが恥辱と誤解をおそれて、日々自分たちが直面している心の傷を、口に出せないでいた」(『サリンジャー 生涯91年の真実』p289)。だからこそサリンジャーは、苦しみを昇華するための創作を必要としたのだ。『ライ麦畑でつかまえて』はニューヨークの町をさまよう少年の物語だが、それでもなお、作品は戦場の出てこない戦争小説なのである。サリンジャーは知人に、終戦したとしてなお「個人的な戦争はまだ続きそうだ」と書いた手紙を送っている(『サリンジャー』 p210)。彼は深い心の傷を抱え、彼自身の戦争をたたかっていた。


 ことほどさように、サリンジャーには同情すべき点が多いが、同時に彼は、気まぐれでやっかい者、偏屈で人ぎらい、しかし目立つのは大好きといった、矛盾した性格で周囲を困らせていたことでもよく知られている。彼のややこしい性格が垣間見えるたびに、これがサリンジャーだよと嬉しい気持ちになってくるのだ。たとえば「絶対に書評を送ってくるな、いっさい読みたくない!」と出版社相手に豪語したかと思えば、次のカットではみずから嬉しそうに新聞の書評を切り抜いている、といった描写。あるいは、コロンビア大学の授業で、教師に反抗的な態度を取ってみせるくだり。彼は反権威主義の作家と思われがちだが、一方では一流の文芸誌「ニューヨーカー」に掲載されることにこだわり、「ハリウッドからの関心や、アイビーリーグからのお墨付きといった、自分が蔑むべきと主張していたものを頻繁に求めるようになっていった」(『サリンジャー』 p323)面もある。彼は口では反権威を主張しつつ、内心では誰よりも権威にこだわる男であった。


 『ライ麦畑の反逆児 ひとりぼっちのサリンジャー』は、こうしたサリンジャーの苦しみや矛盾を描きつつ、誰よりも小説家らしい小説家である彼の姿を立体的に浮かび上がらせている。ある時期から田舎へ越して隠遁し、いっさいの作品を発表しなかったという晩年も含めて謎の多い作家だが、たくさんの人がサリンジャーに惹かれる理由が本作から感じられるだろう。彼より才能のある小説家はいたとしても、彼ほどに〈生きること〉と〈小説を書くこと〉が一体化してしまった人物はなかなかいないのだ。(文=伊藤聡)