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『マチルド、翼を広げ』は“親子関係”についての認識を更新する 女性監督が描く9歳の少女の自立

2019年01月29日 10:12  リアルサウンド

リアルサウンド

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 フランスの女性監督ノエミ・ルヴォウスキーの最新作『マチルド、翼を広げ』を見ることは、母と娘の関係について、親子というどこにでもある関係についての私たちの認識を、大胆に更新してしまう体験となるだろう。と同時に、映画というメディアがどうしてこれほどまでに人間の悲しみの感情を描くことに長けてしまったのか、そのことを改めて思い知らされる体験ともなる。映画という表現がそなえる、悲しみの感情表現のあまりの的確さ、あまりのインパクトに動揺させられた経験は、どんな映画観客も持っているはずである。そしてその映画的記憶は観客の生涯にわたり忘れえぬ爪痕をのこすだろう。


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 しかし『マチルド、翼を広げ』が悲しみの映画だからといって、この映画に希望がまったくないわけではない。これは、健気な9歳少女による現実との闘争の物語であり、早すぎる自立の物語だ。そして深い悲しみから新たな希望を見出すための準備の物語でもあるのだ。9歳の小学生マチルドはクラスにひとりも友だちを持たず、情緒不安定な母親との二人暮らし。マチルドの母親は担任教師との親子面談でも上の空だし、「新しい生活を始める」と言って突如としてウェディングドレスを衝動買いし、着用したまま帰宅したり、電車ではるか遠くの終点まで行ってしまい、深夜まで帰ってこなかったりする。マチルドは母親の奇行に日々面食らいながらも、二人暮らしの維持のために躍起だ。


 シナリオはノエミ・ルヴォウスキー監督の自伝的要素が強いとのこと。母親役をルヴォウスキー監督みずから演じているけれども、つまりそれは、監督が現実の実母を、つまり映画のクレジットタイトルでも献辞が捧げられていたジュヌヴィエーヴ・ルヴォウスキーを演じていることにもなる。母ジュヌヴィエーヴの分身を演じる自分を見つめるもうひとりの自分こと、マチルド。この多重構造が、空想と現実の多層構造とからんで、繊細かつ大胆な織物が織られてゆく。


 マチルドが母親をつなぎ止めるためにおこなうことは、この狂気の生活の中に自分を溶け込ませることだ。空想がちなマチルドが語る、ひいひいひいお婆ちゃんのエピソードは、お婆ちゃんの娘が夜の森で池の中に沈む物語だ。これは、シェイクスピアの名作戯曲『ハムレット』の中のオフィーリアの溺死のイメージが流れこんでいると思われる。ラファエル前派の代表的な画家ジョン・エヴァレット・ミレーによる絵画(1852年発表)で有名になった水死体イメージが、マチルドの空想に流れこみ、母親との不調な生活に自分を監禁している状態との同一化をうながすことだろう。この空想シーンでかかる楽曲、フィンランドの作曲家シベリウスの組曲『ペレアスとメリザンド』(1905)のエンディング曲「メリザンドの死」の、この世のものと思えないほど美しくメランコリックな弦楽は、シェイクスピアのオフィーリア溺死の場面やミレーの死体絵画とからみ合い、混ざり合って、少女の心をメランコリーで満たしていくのだ。


 シェイクスピアの戯曲『ハムレット』の中で、王妃ガートルードがオフィーリアの死の様子を語る場面に、次のようなセリフがある。


王妃ガートルード「裾が大きく広がって、人魚のようにしばらく体を浮かせて―――そのあいだ、あの子は古い小唄を口ずさみ、自分の不幸が分からぬ様子―――まるで水の中で暮らす妖精のように」


 「自分の不幸が分からぬ様子」──少女マチルドはまさにこの状態にあり、ペットであるフクロウとの対話(不思議なことにこのフクロウは、マチルドとだけはフランス語で会話することができる)の中で「君は不幸だ」「いいえ、私は幸福よ」と言い合うシーンがある。歌を歌いながら、自分の危機にさえも不感症となったオフィーリアの呆然としたイメージ。そんな9歳少女の精一杯の虚勢に、私たち観客は心を痛める。理科授業用の骸骨を盗んできたマチルドは、「死者は埋葬しなければ、魂の平安が訪れない」というフクロウの指示にしたがって、骸骨を埋葬しに出かける。郊外の森を掘ったマチルドは、まず自分の身体を墓穴の中に横たえてみせ、あまつさえ周囲の土を自分の上に撒いてみる。オフィーリアの水死体イメージが、ここでは悪戯めいた埋葬願望として現れてくる。


 それでも彼女はまだ子どもなのだ。母親への心配を通り越して、激しい怒りへと発展する。クリスマスの夜、心神喪失の母親が帰ってこないことに腹を立て、衝動的にロウソクの炎を自宅カーテンに点火してしまう。フクロウの適切な消火アドバイスによりボヤで事なきを得たが、このカーテンへの点火シーンは、まるで往年のトリュフォー映画のように衝動的で、切なく、鮮烈で、そして(皮肉なことに)おそろしく詩情に満ちている。


 苦しい局面が毎日を襲う母と娘にも、転機が訪れる。母親の精神状態はもう日常生活をまともに送れないほど悪化してきており、それを自覚した母は精神科施設への入院を決意するのだ。行き着くところまで行き着く母と娘。ここまで見てきた私たち観客は、この二人の女性の行く末を、そして転機の瞬間を、目を背けることなく最後まで見届けなければならない。(詳細はもちろんここでは語れないが)この世のものと思えないほど美しいラストシーンまで、この上なく美しい雨に濡れるまで、この上なく平和な笑顔が到来するその日まで。(荻野洋一)