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『クリード 炎の宿敵』は新たなチャレンジが少ない旧世代のための映画? シリーズの存在価値を考察

2019年01月24日 15:02  リアルサウンド

リアルサウンド

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 落ちぶれたボクサーの再起を描いた、シルヴェスター・スタローン脚本、主演作『ロッキー』から始まった、『ロッキー』シリーズは全6作。その後を継いで、ロッキー・バルボアのライバルであり盟友だったアポロ・クリードの息子、アドニス(マイケル・B・ジョーダン)を主人公とする『クリード チャンプを継ぐ男』は、新感覚の作品として好評を得た。その成功を受けてさらに制作された、第2作となる『クリード 炎の宿敵』ではアドニスとパートナーのロッキーが、ついにあの因縁の敵と戦うことになる。


参考:初登場6位『クリード 炎の宿敵』 スタローンの「引きの美学」は功を奏したか?


 ロッキーがアポロの息子をボクサーとして育てていたように、『ロッキー4/炎の友情』に登場した、ソ連の威信を背負った最強の敵イワン・ドラゴもまた、自身の息子ヴィクターをボクサーとして育て上げていた。父イワンは試合の中でアポロ・クリードに重傷を負わせ、結果的に死に至らしめており、ロッキーは復讐戦でイワンを敵地ソ連で打ち倒していた。そのような過去の遺恨の残る二人がリングへと上がる本作『クリード 炎の宿敵』は、時代を経たアツさが話題を呼び、絶賛する声も多い。


 しかし一歩引いて見ると、本作には違和感を与えられる点も少なくない。ここでは第1作や、いままでの『ロッキー』シリーズとも比較しながら、より冷静な目で本作の内容を考えていきたい。


 激戦の果てに念願のチャンピオンとなったアドニスは、ボクシングのパートナーであるロッキーのアドバイスを受けて、愛するビアンカ(テッサ・トンプソン)と結婚する。そんな、ボクシングでもプライベートでも勝利を勝ち取ったといえるアドニスの前に、ロシアからの新たな挑戦者ドラゴ親子が出現。父イワンは、ロッキーが育てたアドニスと、息子ヴィクターを戦わせようとする。『ロッキー4/炎の友情』にてロッキーに敗北した父イワンは母国で冷遇され、ロッキーに復讐する機会を狙っていたのだ。


 本作の設定は、スタローンやドルフ・ラングレンが再び出演しているように、『ロッキー4/炎の友情』に負うところが多く、ロッキーが雪の原野で全力失踪した描写などに重ねた場面があるなど、当時のシーンを引用するような表現も多い。また同時に、物語の流れは『ロッキー3』にも似ている。チャンピオンになりながら手痛い敗北を喫し臆病になってしまったロッキーを、ときに励ましときに意見をする妻のエイドリアンの存在が支えになるように、本作の弱気になったアドニスも、妻となったビアンカの存在が助けとなる。


 さらにアドニスを突き動かす、もう一つの要素は、『ロッキー4/炎の友情』でも言及されていた「ファイター」としての、戦いへの本能的欲求である。自分より強い相手に立ち向かっていくためには、強い理由が必要となる。本作においては、家族への愛情にくわえ、ロッキーやアポロたちの想い、そして自身の内面的な力が結集することで、やっと最強の敵と打ち合える力が与えられるのだ。


 前作から引き続き、音楽を担当するルドウィグ・ゴランソンは、ヒップホップの大物アーティストの楽曲を手がけてきたマイク・ウィル・メイド・イットとコラボレートし、新しい境地の音楽を提供している。とくにトレーニングのシーンでは、そのオーケストラとヒップホップを融合させた劇伴によって、30年以上前にイワンと戦ったロッキーの精神がアドニスの肉体に染み込んでいく過程を、サウンド面で劇的に表現していて見事だ。


 だが同時にここで与えられるのは、果たして『ロッキー3』や『ロッキー4/炎の友情』は、神格化された伝説として扱われるべき傑作だったのかという疑問である。この2作は、『ロッキー』シリーズのなかで比較的スケールの小さい、地に足のついた物語だった1、2作目、及び5、6作目とは異なった展開を見せる作品だ。そこではロッキーが10戦を防衛したチャンピオンとして、地元フィラデルフィアに銅像が建つほど英雄視されたり、ついにはアメリカとソ連の間の代理戦争のような試合に臨むことになるという、もはやボクシングやアスリートの枠すら超えた偉大な存在にまでなってしまっている。第1作のストーリーと比較すれば、興ざめするところがある観客も少なくないのではないだろうか。


 とくにロッキーとイワン・ドラゴの対決については、ソ連を悪役にしてアメリカが勝利するという、観客を喜ばせる方法としては、当時としても少々安易なストーリーであったことは否めない。ロッキーが劇中で融和を呼びかけるようなスピーチについては、そういう展開へのエクスキューズとして機能させているようにも思える。なぜなら30年以上経過した本作でもまた、ステレオタイプなロシアの姿を描いてしまっている部分があるからである。ドラゴ親子が、そのような“ロシア的”価値観から脱却していく進歩を見せる描写があったとしても、ベースとしてのロシア観はあまり変わっていないということになる。果たしていま、このような構図まで本作に継承する必要があったのかという点については疑問だ。


 前作『クリード チャンプを継ぐ男』は、鮮烈で画期的な作品だった。主人公のアドニスは、陽気で芯の太いアポロとは異なり、繊細で自信のないキャラクターとして表現され、また試合をする選手たちに接近して長回しで撮影するなど、いままでのシリーズにはなかった試みが、いくつも用意されている。その姿勢からは、いままでの『ロッキー』シリーズのような手法では現代には通用しないという、厳しい自己評価が感じられるところだ。そして、そう観客にも思わせたうえで、「やはり最後は昔ながらの根性がものをいう」というように、王道の展開にまた回帰するという構成になっている。それは、『ロッキー』シリーズを切り分けて、新しい表現に移行する部分と、現代に継承するべき部分を残すという行為でもあり、ある意味では、これ自体がシリーズへの優れた批評といえるものになっている。


 当初はスタローン自身が『クリード』シリーズ第1作の監督を務めるはずだったという。だがもし彼が監督をしていれば、このようなアプローチをすることはできなかっただろう。新鋭ライアン・クーグラー監督が、若手としての強みや、前作『フルートベール駅で』で見せたドキュメンタリー風撮影など、自身の作家性を発揮しようとしたからこそ、『クリード チャンプを継ぐ男』は、新しく作る意味のある挑戦的なものとなったのだ。対して本作は、『ロッキー』シリーズのなかでも最も保守的で独善的な危うさを持った第4作に対し、強い批評性を持たずに多くを肯定してしまっているように感じられる。


 ついでにいえば、アドニスの練習法や試合展開も、その後の展開への説得力に欠けたものになっていたように思える。第4作でスタローンがサンドバックに放っていた重いパンチは、確かにこんなものを何発も受ければどんな人間もひとたまりもないと思えるほどの圧力があった。比較的細身といえるマイケル・B・ジョーダンは、少なくとも映像からだけでは絶体絶命の状況から巻き返せるだけの力があるようには見えづらく、また手痛いダメージを受けてダウンした状況から反撃に転ずる場面では、もともと用意された結果のためにヴィクターが無理に弱体化させられてしまっているように見え、鼻白む部分がある。


 前作は紛れもなく新世代のための映画だった。だが本作は乱暴に言ってしまえば、新たなチャレンジが少ない旧世代のための映画になっていたといえるのではないか。これでは『クリード』シリーズではなく、さらなる『ロッキー』シリーズではないだろうか。「だったら何が悪い」と言われると困るのだが、第1作がせっかく到達した境地を捨ててしまうのでは、シリーズの存在価値そのものが揺らいでくる。今後もおそらくは作られることになるだろう続編は、より新たな演出、新たな価値観、新たな物語によって、アドニス・クリードの未来を描いてほしい。(小野寺系)