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山戸結希監督×矢田部吉彦『21世紀の女の子』対談 日本における女性監督の現状と未来

2019年01月13日 10:02  リアルサウンド

リアルサウンド

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 昨年10月25日より11月3日にかけて、東京・六本木を中心に開催された第31回東京国際映画祭。大盛況のうちに閉幕した同映画祭の中でも一際異彩を放ったのが、『溺れるナイフ』の山戸結希監督が企画・プロデュースを務めた短編オムニバス映画『21世紀の女の子』だ。ファッション誌『装苑』が衣裳プロデュースを担当し、山戸監督や女優勢総勢39人もの女性陣が参加したレッドカーペットも大きな話題となった。


参考:力強さのベースにある“女の子”の感性とテーマ 山戸結希監督の才能の謎に迫る


 リアルサウンド映画部では、本作の企画・プロデュースを務めた山戸監督と、東京国際映画祭プログラミング・ディレクターの矢田部吉彦氏の対談を行った。『21世紀の女の子』の企画の発端から、#MeToo問題や日本の女性監督の現状と未来について、大いに語り合ってもらった(取材は映画祭開幕前の2018年10月22日に実施)。


矢田部吉彦(以下、矢田部):まず山戸監督にお伺いしたいのですが、『21世紀の女の子』という短編オムニバス映画を作ろうとした背景にはどのような思いがあったのでしょうか?


山戸結希(以下、山戸):背景としての想いは、いつか未来、年齢を重ねる先に、“映画女学校”を作りたいというイメージを持っていたことに起因します。映画監督としての活動をしながら、新しい映画が生まれてゆくための道筋を、もっと整理したい、と考えたことがきっかけです。そういった想いは、未来に対して、全く変わらずにある一方、実際に若手監督として活動する現在においても、何かできるアプローチが存在するのではないかと感じたことは大きな契機でした。今回の作品には、本当に驚くべきことなのですが、15人もの監督が参加してくださっています。プロジェクトの立ち上げとして、まず、監督同士の関係としての繋がりは、PFFでも同期だった加藤綾佳監督と、時間的に長くありました。ですので、彼女には真っ先にお話をお伝えさせてもらいました。そこから皆さんお一人お一人に、プロジェクトをお話してゆきました。すごく嬉しいサプライズとして、まさか1人残らず全員の方に、OKをいただけることとなり、なんと15人という、オムニバス映画として過去前例のないほどの人数となりました。そして、だからこそ、異例の、素晴らしい挑戦的短篇集が生み出されたのだと、完成して、より強く感じています。統一化されない意志のありようが示されながら、光と影を照らし合っているような、世界のありように迫る映画だと感じています。


矢田部:“映画女学校”のアイデアはいつ頃から抱いていたんですか?


山戸:アイデアやイメージ自体は、映画監督として活動する中で、自然に湧いてきた気がします。これは想田和弘監督がドキュメンタリーで扱われていたテーマでもありますが、演劇表現は、学校教育などの公共性を通して未来と結節点を作りながら、その未来を切り開かれていますよね。そうした活動に刺激を受けた面は、大いにありました。作品世界の内側だけでなく、作品製作の外側でも他者を求める姿勢と言えるでしょうか。作品が私小説的な文脈になりすぎることの弊害は、才能ある作家の末路として深刻に見ていましたので、まさに作家的内部からの要請として、外部との接続回路を、ある程度アンコントローラブルな事態になることも含めて、自由にひらける状態にしておかなければならない、とも発想します。より良い作品を作り続けるために、社会や他者との距離感を絶することは、実際には外部価値を過剰に意識するのと同じ類の危険性を伴っており、理性を働かせながら、社会との接合面を見つめてゆきたいです。社会と言った時に差すのは、政治的土着だけではなく、他者性に触れてゆくことだと考えた時に、作品づくりと両立されうるどころか、同居して然るべきキーなのだと。


矢田部:私がお話をお伺いしたのは2018年の春でしたよね。その後5月のカンヌ映画祭でも#MeToo運動など、そういった問題意識が表に出てくる中で、カンヌでもコンペティション部門に女性監督の作品がとても少ないことに対するアピールの場があって。今年やるべき企画であるし、今年でやめてはいけない企画でもあるとは思いました。そういう意味では、今の時代の流れに乗ったという見え方もされてしまうかもしれませんが、もともとあった問題意識が、たまたま#MeToo運動の流れと合致していったということなんですね。


山戸:21世紀の女の子プロジェクト自体は、昨年から始まり、矢田部さんに最初にお話をお伝えさせていただく機会が3月にあり、その時から、装苑さんにレッドカーペットをプロデュースいただければという構想を進めていました。そして、5月にカンヌのレッドカーペットが開催されました。必ずこのようになるだろうという流れが、数年前から映画界に留まらずあったので、カンヌのことも、ああ、ついにこうなったのだと、当時、とてもナチュラルに見ていた記憶があります。本当の意味でのきっかけとして、個人の体験として大きなインパクトを持っていたのが、『アゲインスト8』(原題:The Case Against 8/劇場公開時タイトル:ジェンダー・マリアージュ ~全米を揺るがした同性婚裁判~)を、2014年のレズビアン&ゲイ映画祭で鑑賞したことは、強く刺さって、表現としても残りました。同性婚裁判の裏側を追ったドキュメンタリーですが、当時、自分で権利を買い取り自主配給しようかと考えたくらい、素晴らしく感じられた作品で、LGBTQの当事者たちだけに留まらず、その周りの他者と手を取り合いながら、共に自由を獲得してきた歴史をベースにする西洋と、まず文化背景が異なるここ日本では大きな違いがありながらも、自由やフェアネスを求める姿勢そのものは、東京でも取り入れ、翻案できるヒントがあるんじゃないかと感じていました。


矢田部:ここ数年、LGBTQが主題の作品がすごく増えていますよね。それこそアカデミー賞を『ムーンライト』が獲るくらいまでに、世界中で大きな動きになっていると思いますし、少なくとも映画を観る人の間では、理解が進んでいるとは思うんです。『アゲインスト8』もそのひとつかもしれませんが、勇気を出してそういった作品を描いていこうという流れに背中を押される部分もあるんでしょうか?


山戸:もちろん、勇気という意味でも、そうだと思いますし、今回の『21世紀の女の子』に参加してくださった同世代の監督さんたちは、意外性を持って受け入れるというよりは、皆さん、純粋に「是非やりたいです」と即答くださった方もとても多く、創作する姿勢としては自然なこととして受け入れてらっしゃったという印象でした。矢田部さんがご指摘くださった#MeToo運動など、ある異議申し立ての中で自由を獲得してきた西洋の流れそれ自体とは違う道筋も、同時に、この地では作っていかなければいけない。小説家の川上未映子さんが、『早稲田文学増刊 女性号』を作られた際、「あなたたち女性は何に怒っているのか」と尋ねられたことがあったそうで、それに対する疑問を書かれていて、興味深く拝読しました。つまり、女性たちが集まった時に、ネガティブなエネルギーの前提が必須条件にされるのは、なぜなのだろうと。この実感は自分自身においても深く、「映画界に対する異議申し立て」よりもずっと早く、「もう既に、一本の映画を作り終えってしまった」ということの素晴らしさを、分かち合ってゆきたいのです。それは、とてもポジティブには、「作品を作り出す歓び」とも言い替えられます。今回は関わってくださる女優さんたちも、作品を生み出す楽しさを大切に、高いテンションを持ってくださっていました。オーディションと公募に寄せられた大量の応募もそうですし、確かな渇望を、純粋に感じました。それが社会的な潮流と合致するのであれば、それは有り難いことである一方、東洋で女性が自己実現するのには、カウンターカルチャーで終わった気になってはならないということを熟慮し、アゲインストだけでは届かない領域への、切実な思考が求められていると思います。


矢田部:なるほど。僕がビックリしたのは、参加された全15名の監督に、全くの無名という人がほとんどいないこと。どこかしらで注目され始めていて、「さあこれからいくぞ」という人たちばかりですよね。偉そうな言い方になってしまいますけど、今これだけの人を集められるのは、本当に大したもんだなと。やっぱりそれは山戸さんの企画の魅力ですし、山戸さん自身の魅力だと思います。一方で、山戸監督はプロデューサーという立場もあるわけじゃないですか。他の監督の作品の脚本は、事前に読むわけですか?


山戸:基本的に、読ませていただいた脚本や上がった編集に、細かい意見をお伝えさせていただいた方もいれば、一切そのままでいかれた方もいらっしゃいます。どうあっても、それぞれの監督さんの個的な力にスポットが当たることを、最も望んでいました。今回、皆さんには「自分自身のセクシャリティ、あるいはジェンダーがゆらいだ瞬間が映っていること」というテーマを先にお伝えさせていただいていますが、全員がセクシャリティ、あるいはジェンダーについて撮ることで、それが批評の中心にならないことを逆に目指していました。例えば、日本で監督をしている女性の作品は、褒め言葉として、必ず「女性監督ならではの感性」と書かれる現状があります。それは母数におけるマイノリティを前提にしているので。でも例えば、それがマジョリティとして15人全員がいる場合に、個々人に対して、「女性監督ならではの感性」と評されることは一切ないという利点があります。セクシャリティやジェンダーに前提を意識的に置くことで、それ以外の“個としての資質”が批評の対象になるようにという思いで、今回のテーマと枠組みをセッティングしています。なので当然ですが、セクシャリティやジェンダーについて、「もっと掘り下げてください」みたいな要望はなく、今回参加していただいた他の14名の監督は、私自身がその監督の新作を観たいという原動力で声をかけさせていただいたんです。そして、コンペティティブにはしたくなかったので、そうはならないように、それぞれの魅力が最高値で輝くようにしようと。手を取り合って優劣が出るのではなく、それぞれの色がそれぞれの色のままで混ざり合って新しい色になるような、そういう作品にしたいという想いで、それぞれの作品の監督に、想いを伝えさせていただきました。


矢田部:面白いですね。セクシャリティやジェンダーというのをあえて最初に言ってしまうことで、そのキーワードを無効化する。先手を打つことで、その先を観てもらえるようにするということですよね。「女性監督ならではの感性」はクリシェの罠で、僕もつい使ってしまうので自戒の念を込めてしまいます。


山戸:いつか、きっと100年後には、「男性監督ならではの感性」という言葉が生まれるのかもしれません。プレーヤーの数が変わることで、きっとゲームのルールが変わっていって、言葉の文法も変わっていくと思うので。最初から正解の言葉にたどり着けるわけはないし、1作目から完璧な作品を撮られないのと同じように、語る側の方と作る側の私たちで、一緒に手を取り合って両輪で進みながら、新しい映画を、新しい言葉を獲得していけたら素敵だなと考えてます。実は、『21世紀の女の子』の上映において、東京国際映画祭さんでの「日本映画スプラッシュ部門特別上映」を、初めてご創設いただきました。これについて、今回はなぜ「特別上映」としていただいたんでしょうか?


矢田部:これはもう、まず最初に特別だと本当に思ったので。他の作品と賞を競うタイプの作品でもないですし、今後公開される作品をいち早く観てもらう特別招待作品ともタイプが異なるし、埋もれてしまうと思ったんですよね。『21世紀の女の子』は、もっと独自の光の当たり方をしてほしかった。世代としては新進気鋭の監督たちですし、本当にこれからの飛躍がさらに期待される方々なので、日本映画スプラッシュ部門の中の特別上映とすると、その位置付けもはっきりするし、特別感も出るし、他からちゃんと切り離されてピンで目立てる、ということで、特別上映にしました。


山戸:選考の過程に、そのような意志を込めていただいたこと、大変光栄に思います。


矢田部:それと、先ほどお話しした#MeTooにしても、カンヌでの動きにしても、ちょっと日本が静かだなという気がするんですよね。僕はあまりそういうタイプではないんですけど、それにしてもあまりにも日本には上陸していないような気がしていて。なので、東京国際映画祭できちんとその輪をつなぐというか、今年こういうことがちゃんと起こっているじゃないか、みんなもう少し意識してやりましょうよということで、山戸さんが本当にいいきっかけをくださったと思います。僕自身、男性として、#MeToo運動をはじめセクシャリティやジェンダーなどの問題に、どういうスタンスで関わっていいのかあまり分かっていなかったんです。踏み込みたい気もするけれど、尻込みもする、みたいな。今回の話はすごく重要だなとは思いつつも、例えばトークの司会を僕がやっていいのかなとか、やっぱり司会は女性を立てたほうがいいんじゃないかなとか、一瞬思ったりもしたんですよ。だけど、それって余計な気遣いだし、たぶんそういうことではないなと考え直したんです。今年、LGBTの話を扱ったあるドキュメンタリーを観たのですが、1人の女性が「こういう話は女性同士だけでやっているとうざがられるだけで終わっちゃうから、男性を味方に引き込まないと先に進まない」「ちゃんと男性を巻き込まないと」みたいなことを言っていて、「あ、そうか」と。それを聞いて、この企画の司会をすることに一切の迷いがなくなったんです。すごい巻き込まれようと思って。


山戸:素晴らしい姿勢ですね。実は、『21世紀の女の子』が企画発表された際には、女性からの反響がとても感動的だったのですが、男性の映画関係者や企業の方たちから、応援したい、支援したいというメッセージも、たくさん届けていただきました。“過去に対するアゲインストではなく、未来の歓びに対する新しいアプローチを”というテーゼが根底にあったので、そうした前向きな反応も、大変励みになりました。例えば、“怒れる女神たち”のような古い神話もあるけれど、女の人たちが一緒に手を取り合った瞬間に生まれる、新しい花が咲き誇るような、美しい神話を語りたいという感覚の方が、ずっと鮮明です。そうした部分で共鳴してくださる方たちと、一緒に物語を作ってゆけること。そこに、勝機があると思っているんです。未来への希望という意味では、女性と男性というのは、全く境界がない。あるいは過去を思う時、母親や父親への思いは、性別を超えた普遍的な領域がある。そして、それは実際に子供を持たないのだとしても、“未来の母親”や“未来の父親”という、過去と未来の、架け橋としての可能世界を想定してみた時に、生まれるアプローチがあると考えたら、希望を共有できる範囲は、決して狭くない。今回の作品をきっかけに、固有でありながらも、普遍的な視点が生まれてゆく流れを作り出せたらと、強く願っています。


矢田部:女の子が作った女の子のための映画ではあるという見方はできると思うんですけど、男の子はもちろん、LGBTの立場にいる方にも観てもらいたい作品ですよね。それはそれとして、僕はとにかく、それこそ本当に性別関係なく、「いま面白い監督誰?」と聞かれたら、その名前が挙がるぐらいの才能が、この作品には集まっているということを、まず声を大にして言いたいです。それで、僕が若干意外だったのは、山戸監督は天才タイプの孤高の人かなと思っていたんです。なので、リーダーシップをとって仲間を作って……という動きが、いい意味で新鮮でした。


山戸:確かに、この企画をお伝えすると、皆さんビックリされていたかもしれません……。きっと、フィールドワークと、ソーシャルワークの交わる領域で、自身の映画製作を前に進めてゆく最中とも言えます。あるいは、1番の利己主義は1番の利他主義と結びつくように世界は出来ているので、全ては、これから生み出される作品のためなのだと思います。後進の世代の方が映画を撮り始め、そして素晴らしい作品が生まれるのを、私自身が観たいということなのだと考えています。


矢田部:本人だからそうおっしゃるかもしれませんけど、やっぱりある地位にいたら、やらなきゃいけないことがあるということですよね。カンヌ映画祭のある視点部門で『淵に立つ』が審査員賞を受賞した時、深田晃司監督が壇上で延々と日本の助成金制度についての不備を指摘しましたよね。「あんなこと恥ずかしいからやめなよ」と言う人がいる中で、彼は自分がみんなを代弁して言えることを言わなきゃいけないという意識で、あえてやっていた。山戸監督のおっしゃっていることを積極的に実践しようとしてるのが深田監督なんですよね。そして山戸監督はまだ20代という年齢で、これだけの注目のされ方をしている。あえて“女性”という言い方をしますが、そんな女性監督は未だかつていなかったわけです。なので、僕からすれば、もしかしたら動機は利己的なのかもしれないけれども、動機は何でもいい。そういう立場に立ち得た人がこういう作品を企画するということ自体が、すごく重要だと思います。


山戸:矢田部さんのご指摘の通り、深田監督は、自分にとっても尊敬してやまない方です。深田監督とは、2年前に溝口健二&増村保造映画祭で初めて対談する機会をいただき、映画人としての活動に、大変感銘を受けました。深田監督の行動からも、学びをいただいていると言えると思います。


矢田部:ちなみに今回の東京国際映画祭での上映はインターナショナルバージョンで、2月に公開されるのとは編集も変わっているそうですね。つまり、インターナショナルバージョンは海外の方に観てもらうことを意識したということですよね。


山戸:はい、インターナショナルバージョンとして、この作品自体が届いてほしいのももちろんありますし、あるいは、今作がきっかけになって、アジアの各国でもこういう動きが起こってくれたら、本当に理想的に思っています。『21世紀の女の子』が先行する旗となって、女の子にとって、映画を撮ることこそが、最も鮮やかな行為なんだ、というイメージが共有されてほしいと願っています。自分の眼で死ぬまでに確認したいのが、映画館で上映される映画の監督の男女比がやがて5対5になり、障壁がフラットになって、「ああ、無理じゃなかったのだ」と、すごく自然に、手渡されるように伝わってゆく光景です。私は、絶対に無理じゃないと思っています。この作品が、私たちの世代、次の世代にとっての、新しい動きの始まりとなってくれれば。そして作品が現代において撮られて終わりではなく、複製芸術として光り続けてゆくことで、共有可能な意志があると考えながら。この『21世紀の女の子』が、過去には見えなかった星座を呼び起こすように、過去には可視化されることのなかった映画を創り出してゆけることを。そのためにできる問いかけを、続けたいです。


矢田部:『21世紀の女の子』のポップな魅力でいろんな人たちの参加を促しながら、より問題意識が広く世界に伝わるような運動になっていったら、それはもう本当に素晴らしいことですね。


山戸:今作は、ポップなアプローチと同時に、本質的な論拠を語り切れるのか?という挑戦も内包していると考えています。新しく生まれる作品に対しての力強い後押しを実現できるように、東京国際映画祭での第一歩を、楽しみにしています。


【対談後記 ~東京国際映画祭を終えて~(山戸結希監督)】
対談が行われた10月22日の後、
10月25日には東京国際映画祭・開幕のレッドカーペットがあり、『21世紀の女の子』から、総勢約40名が歩く姿を、多くのメディアやWebニュースで取り上げていただくこととなり、メッセージが瞬く間に広がり、映画の飛距離が大きく変わったことを実感いたしました。
この当日の祝祭感、そして過ぎ去った後にも、世代や映画関係者を問わずに寄せられた熱の籠った言葉たちは、忘れがたいものでした。
そうして遂に11月1日、『21世紀の女の子』インターナショナルバージョンが、「日本映画スプラッシュ部門特別上映」にて初公開となりました。
六本木の場内には、独特の緊張と興奮が満ち、橋本愛さんによる素晴らしい上映前挨拶を経て、スクリーンに117分の映画が灯されました。上映後には、参加監督による、自身の作品の着想について語りながらの核心的な問題提起が行われたことを記憶しています。
また、この上映後ティーチインにおいて司会を務められた矢田部さんによる対話の手捌きは、全ての一手がそれ以外にはないと言い得るほどに正確極まるものでした。この映画にとって、一回限りの初上映を他ならぬ矢田部さんに担当していただけた幸運に、改めて感謝いたします。
何よりも映画にとって、これ以外の場はなかった、これ以上の場はなかったということを、東京国際映画祭に関わる全ての時間を通して、一回一回、純粋に感じていました。
今回の『21世紀の女の子』という映画が、これからも広く、深く届いてゆくために、東京国際映画祭の皆さん、そして、参加してくださった観客の皆さんから、最大の追い風をいただけたのです。
東京国際映画祭という場に、こうして参加させていただけたことは、2018年の中でも、最も大きなトピックでしたし、映画を作り続けてゆくための人生においても、とても得難いものでした。
今回の場を創り上げられたすべての皆様へ、共に手を取り合う機会をご一緒したすべての皆様へ、心より、有り難うございました。


(宮川翔)