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『アリー/ スター誕生』は“本格派”の映画に 古い物語を現代にフィットさせた新たな解釈

2019年01月06日 10:02  リアルサウンド

リアルサウンド

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 『カサブランカ』や『オズの魔法使』などのように、長年の間愛され、また後の作り手によって何度も引用されたり作り直される、アメリカ映画の象徴となる作品がある。きらびやかなショービジネスに存在する光と影を描き、何度もリメイクされた『スタア誕生』も、まさにそういう数少ない映画だ。


参考:ブラッドリー・クーパーが明かす、監督挑戦への本音 「恐怖を抱いて躊躇してしまっていた」


 今回のリメイク企画は、クリント・イーストウッド監督によって撮られるはずだったが、イーストウッドはフォー・シーズンズを題材にした伝記ミュージカルの映画化作『ジャージー・ボーイズ』の方を手がけることにしたため、企画は『アメリカン・スナイパー』主演俳優だったブラッドリー・クーパーに渡る。


 監督と脚本、そしてレディー・ガガとともに主演を務めた、ブラッドリー・クーパーによる『アリー/ スター誕生 』は、初めての監督作として「出来過ぎ」と言えるくらいに、大きく予想を超えた質の高い映画となっていた。多くの新人監督のような一点の突出した才能で驚かせるのでなく、様々な要素がバランス良くアンサンブルを奏でていて、まるでベテラン監督が撮ったかのような、堂々とした本格派の映画になっているのだ。


 だが、本作はあくまで古い映画が起点となっている。現代の進歩的なアメリカ映画と比較すれば、どうしても男女の描き方は保守的に見えてしまうはずである。そこで、本作は新たな解釈によって、古い物語を現代の感覚にフィットさせたものにして、多くの観客を感動させることに成功している。その工夫はどのようなものだったのかについて、ここで考察していきたい。


 『アリー/ スター誕生』は、基になった映画も含めて数えるなら、4度目のリメイク作品となる。描かれる題材が、映画スター、ミュージカルスター、ポップスターへと変遷していった流れを受けて、今回も音楽業界の物語を扱っている。リメイク作品全体の大きな共通点は、かつてスターとしてもてはやされたものの、人気を失い始めている男性が、若く才能ある女性を見出して、彼女をスターにするきっかけを作るという点である。やがて二人は結婚するが、アルコール依存に陥っている男性の方は、彼女とは対照的に破滅していく。


 本作でブラッドリー・クーパーが予想以上のパフォーマンスを披露しながら演じるロックミュージシャンのジャックは、すでにアルコール依存症の飲んだくれとして登場する。ライブ出演の合間にアルコールやドラッグでつぶれているような、破滅的傾向のある一種のステレオタイプなロッカーである。


 しかし、ジャックが飲んだくれる原因は、とくにロッカーとしてのファッションやポーズではなかったことが徐々に明かされていく。じつは彼は聴力を失いつつあり、ミュージシャンとしての将来に大きな不安を抱えていた。だから常に酩酊することで、残酷な現実から目をそらしていたのだ。そして、巡業先の町で首吊りのロープが描かれた看板を目にして引き寄せられることが象徴していたように、自殺願望すら持っている。裏を返せば、彼にとって音楽はそれほど重要なものであり、生きることそのものだったということである。


 だが、その町でジャックは、アルコールやドラッグ以外に、心の支えとなる存在と出会うことになる。それがレディー・ガガ演じる、「アリー」という若く貧しい女性だった。彼女の歌唱力とソング・ライティングの才能に気づいたジャックは、自分のライブに彼女を出演させ、プロデビューの道を拓くきっかけを作る。


 描写を追っていくと、そこには情実がからんでいることも確かで、とくにハリウッドでは最近、映画プロデューサーのハーヴェイ・ワインスタインによる事件があったように、性的な行為と引き換えに仕事を与えるような印象を持たれかねない、きわどい部分がある。


 そこで本作の脚本は、アリーがたどり着く「社会的成功」を、ジャックとアリーの関係性からできる限り排除するように努めている。かつて、ジャネット・ゲイナー主演版や、ジュディ・ガーランド主演版の『スタア誕生』では、L.A.ダウンタウンの夜景を、ヒルズの豪邸から睥睨する場面が作品の象徴となっていた。本作にも同様に、いまやポップシンガーとしてスターの座につくアリーの顔が表示された、巨大な看板が立つ風景を眺める場面がある。しかし、そこでジャックはアリーに対して賞賛するどころか苦言を呈するのだ。


 アリーが指摘するように、ポップシンガーとしてグラミー賞すら射程に入れる彼女を、ジャックは「嫉妬」して妨害しているように見える。自分が手のひらで育てたシンガーが自分よりも売れることで、自尊心が破壊されたのだろう、というように。しかし本作については、彼女の飛躍を止めようとしてしていたのは、本質的には嫉妬心からではないことが示されている。


 大きなヒントになっているのは、売れなかった頃のアリーの自室の壁に飾られていた、キャロル・キングのセカンドアルバム『つづれおり』(1971年)のジャケットである。キャロル・キングは、もちろん歌手としてのパフォーマンスも行ったが、その才能の凄さは、やはりソング・ライティングにあったはずである。


 ジャックとアリーが出会った日、深夜のスーパーマーケットの駐車場で、ジャックは「君は歌が書ける」ということを強調していた。つまり、彼は自身がそうであるように、彼女の才能の本質部分は歌唱力などのパフォーマンスよりも、むしろソング・ライティングの方にあることを見抜いていた。そして、同じ才能を持った者だけが理解し合える関係のなかで、ジャックはアリーに惹かれ、アリーは誰よりも自分を理解してくれるジャックを受け入れた。


 その結びつきに比較すれば、アリーにスターになるチャンスを与える敏腕音楽プロデューサーは、彼女の本質的なところを汲み取れていないといえる。あの靴下を履かないように見せているプロデューサーは、自分のやれるベストを尽くしていたのかもしれないが、それはジャックがアリーに行った、深い理解をともなうプロデュースの次元には到底及びもついていない。それは、ポップソングやロックなどジャンルの話ではなく、もっと根本的で本質的な問題だ。


 そういう仕事を続けていったとしても、彼女の本来の才能は発揮されなくなるだろう。瞬間的に消費される似非の「スター」として、やがて見向きもされなくなるはずである。そのようなケースを経験上よく見てきているジャックだからこそ、彼女にそのようなアドバイスができるのである。しかし、とんとん拍子に人気を得ていくアリーは、それを危惧するジャックの違和感や機嫌の悪さを、「嫉妬」だと指摘してしまう。この不幸な誤解によって、ジャックはアリーに正面から真っ当な批判をすることが難しくなってしまうのだ。


 聴力の問題によって、ジャックのミュージシャンとしての将来は暗い。だから、アリーが才能を発揮することこそが彼の希望にもなっていた。その姿は、ジャックの兄でマネージャーでもあったボビーの立場に近い。ボビーは、ジャックの歌をどこかの若者が歌っているのを耳にして、「俺たちのやってきたことは無駄じゃなかったと思えた」と語る。


 冒頭でジャックが歌う「ブラック・アイズ」が、証言台に立つことと自己を表現することを重ねていたように、自分の心を飾らずにさらけ出すジャックの魂が込められた歌は、後の世代の心をも動かし続けている。彼の歌が歌い継がれていく限り、ジャックは真のアーティストであり輝く星なのである。そしてジャックは、アリーにもそうなってほしいと思っていたはずなのだ。


 アルコール依存症を克服したジャックは、いくつもの歌を書き続けていた。それは、自分の才能を発揮し続けたいと考えるのはもちろん、アリーに自分の魂を継承するためだったように感じられる。ジャックというスターが、彼の父親と兄の才能を受け継ぐことによってかたちづくられたように。


 本作『アリー/ スター誕生』が、いままでのリメイク元となった作品があったからこそ存在できるのと同様、本作で真のスターが生まれるラストの数秒間を支えたのは、ジャックの愛情と献身に他ならない。それが分かるのは、最後にアリーが歌い上げる「アイル・ネヴァー・ラヴ・アゲイン」の歌詞にある、「他の人を愛することはもうできない」 という内容である。


 初めは、その歌詞はアリーからジャックに捧げられたものだと思えるように演出されているが、数秒だけ挿入されるカットによって、じつはその歌詞は、ジャックからアリーに捧げられたものだということが分かる。兄が自分にしてくれたように、アリーを愛し、アリーに自分の全てを捧げようとする、正直な気持ちを歌ったジャックからのメッセージだったのだ。


 そして、その心からのメッセージを、アリーはジャックに対する自分の愛情として新たに解釈し直し、また歌い返している。飾らない心からの気持ちを歌に乗せたことで、アリーもまた本来の自分らしい表現に立ち戻り、ついにジャックの到達した場所に登ることができたのである。


 このシーンでは、そういった流れをセリフでなく歌唱するカットだけで表現し、多くの観客を感動の渦に巻き込むことに成功している。本作は、このような表現によって男女の愛情を描いたものというより、スターという存在をめぐる、より現代的な人間同士の繋がりの物語に昇華することができたといえよう。これは賞賛に値する仕事である。来るアカデミー賞で作品賞を受賞したとしても、全く恥ずかしくない内容ではないだろうか。


 ブラッドリー・クーパーとともに、メインでこの脚本を書いたのは、『フォレスト・ガンプ/一期一会』、『ミュンヘン』を手がけたエリック・ロスだ。さらに撮影は『アイアンマン』や『ブラック・スワン』など、スケール感のある映像と、個人的な視点からのアーティスティックな映像を両方撮ることのできるマシュー・リバティークが務めている。才能あるスタッフによって、本作の表現が、より高いレベルに到達したことは間違いない。(小野寺系)